侯爵夫人は逃げ出した〜戦死した兄への償いと言われて結婚したはずだったのに介護で酷使される過労死寸前の日々が待っていた〜
奏千歌
第1話 報告書
侯爵夫人、ニナ・ギルメットの朝は早い。
朝四時に鳴らされる呼び鈴に対応しなければならないからだ。
呼び出す者は先先代の侯爵夫人。
メイドではなく、当然のようにニナを呼び付ける。
彼女は使い古されたメイド服を着ると、すぐに湯を沸かしに厨房に向かう。
何故メイド服を着ているのか。
これからの作業を考えるとドレスではとても活動はできず、また、本来彼女に与えられたはずのドレスが彼女の手には渡っていないからだ。
先先代の侯爵夫人の指示で、使用人達に分配されている。
だからニナは婚前から着まわしている服と、古いメイド服しか持っていない。
ニナの仕事は始まったばかりだ。
湯を張った重い桶を自ら運び、先先代侯爵夫人の足を洗う。
女性一人で行うにはかなりの重労働だが、他に手を貸す者はいない。
足先の冷えを嫌がる、ベッドに寝たままの義理の祖母の足を洗わなければならない。
それが終わると夫人は二度寝をするため、その間に着替えの手伝いを行うための準備が待っている。
朝の六時まで夫人の寝室で立ったまま待機させられ、時報を告げる鐘の音が聞こえてから、優しく起こさなければならない。
起こし方が不快だと、彼女には怒声が浴びせられる。
時には杖で殴られたこともあったと、確認している。
次に待っているのは夫人の朝食の手伝いである。
ベッドの上で済ます朝食の介助を行い、それから着替えを手伝い、庭の散歩に付き添う。
それが終わると、再び洗面器に湯を張って足を洗ってあげなければならない。
彼女の朝食は、祖母の昼食が終わった後にやっと許可され、手短にパンとスープを喉に流し込むと、すぐに夫人の元へと走らなければならない。
ここで、彼女に与えられる食事内容についても言及しなければならない。
彼女のパンは硬く、数日間わざと放置されたものだ。
スープも具など入ってはいない。
ほぼ水に近いものが与えられている。
侯爵家で働く使用人の方が遥かに良いものを口にしているのは、わざわざ書くことでもないかもしれない。
これが彼女に与えられるもので、昼と夕方の二食のみ。
内容も毎日、毎回、同じものだ。
彼女の一日はまだ終わらない。
夫人の午睡の時間が彼女の唯一の休憩時間だ。
その時間を使って、彼女は自身の身の回りのことをしなければならない。
彼女の洗濯物は誰も洗いはしない。
掃除洗濯、全て彼女自身の手でしなければならない。
彼女自身の用事が終わったところで、休憩する間など与えられない。
午後四時になると再び呼び鈴が鳴らされた。
夫人が昼寝から目覚めたのだ。
夫人の午後のお茶が終わると、再び散歩に付き添い、それが終わると足を洗うのは午前の流れと同じである。
夕食の時間まで夫人の細々とした指示に従い、忙しく動き回り、時には店への買い出しにまで走らされていたようだ。
定められた時間以内に戻って来れなかった場合、夫人の杖による暴力もあったと確認している。
そうして、夫人の夕食が終わると、そこでやっと彼女の夕食の時間である。
ここでもまた、スープとパンを急いで口に押し込み、時には使用人の嫌がらせでその食事すらも減らされていたことがあったようだが、彼女は逆らうこともできずに夫人の元に急ぐ。
夫人の入浴が終わると、眠りにつくまで延々と詩の朗読を強いられる。
彼女が眠りつくのは、日付けが変わってから。
それまでは、言いつけられた裁縫をしなければならないから。
これが、結婚したその日から今日まで続いているニナ・ギルメット侯爵夫人の日常であることを確認した。
なお、先先代の侯爵夫人の言い分として、何の価値もない嫁となった娘をこの家に置いてあげているのだからありがたく思いなさいとの発言もあわせて付け加える。
以上をもって、レアンドル・ベラクールの報告とし、全てのことが事実であると証言する。
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