Bar180ートンエイテイー

綴。

第1話 拾われた日

 Bar 180(トンエイテイ)。

 とある小さな街の片隅にそのお店はあった。


 カウンター席が八席と、テーブル席が三つ。

 ソファータイプのテーブル席が二つ。

 奧に古いタイプのダーツが二台並んでいる。


 カウンターの後ろには、マスターの趣味やお客さんの好みのお酒がライトアップされて美しく並べられている。ボトルには埃もなく、綺麗に整理されていて、とても素敵なお店だ。



 近所には居酒屋『ちんどん』、スナック『BABY ROSE』があり、そこからたまに流れてくるお客もいたが、マスターが断る事が多いそうだ。

あまりにも酔っ払ったお客や揉め事を起こしそうな人は店に入れないようにしているそうだ。



 マスターの黒木さんは、

「はい、どーぞ」

 と私の前にホットココアが入ったカップをそっと置いてくれた。

「いただきます」

 私は両手でマグカップを握りしめて、ふぅーと冷ましながら一口飲んだ。


 甘くて優しい香りが私を包んだ。


「落ち着いた?」

「はい」

「それは良かった」

 と、黒木さんは美しい笑顔で微笑んでくれた。

 特に何を話すわけでもなく、カウンターで作業をしながら私が落ち着くのを待っていてくれた。



 私はこの店のマスターである黒木さんに、ついさっき拾われたのだ。


 私は駅前のロータリーのベンチで途方に暮れて座り込んでいたのだ。

 駅から自転車で10分もかからない自宅に帰る気力もなくして、泣いていた。

 見て見ぬふりをしながら通りすぎていく人々の足元の中から、一人だけこちらに近づいてくる黒い革靴が視界に入ってきた。


「大丈夫じゃないよね?」

 と突然、声をかけてきたのが黒木さんだった。

 普通は『大丈夫?』と声をかけるだろう。だが、黒木さんは違った。

「大丈夫じゃないよね?」


 私は思わず手で顔を覆って泣き出してしまったのだ。


 私には二年間付き合っている彼氏がいた。

 会社に出入りする営業マンだった。だが、その彼氏は実は既婚者だったのだ。時々私の家にも泊まっていたし、旅行も一緒に行った事もある。

 結婚指輪だってしていなかった。


 だけど今日、会社に彼の奥さんがやってきたのだ。

「この泥棒猫!!! あんた最低ね!! 二人して私の事を二年間も騙していたのね! 信じられない! あんたも旦那と一緒に訴えてやるから、覚悟しときなさい!」


 そんなに大きくない会社だが、

「やはり不倫はまずいだろう。知らなかったとはいえ、訴えられて噂にでもなってしまったら困る」

 と社長からお叱りを受けてしまった。


 迷惑をかけたくない私は、残っている有給を使って明日から休む事にした。

 そして、有給消化が終わったら辞表を出して会社を去るのだ。


 彼氏の奥さんは看護師をしていた為、休みはバラバラだし夜勤もあった。

 だから外泊も出来たのだろう。


 信じていた彼氏と職場を同時に失った日。

 家への最寄り駅までたどり着いたのだが、現実を受け入れる事が出来ずにロータリーで泣いていたのだ。




 こんなBarが近くにあったなんて知らなかった。

 私は暖かいココアを少しずつ飲みながら、お店の中を眺めていた。

「今日は定休日だから、気にしないでいいよ」

 黒木さんの優しい声に甘えて、のんびりとさせてもらった。



 お酒のボトルも綺麗に手入れがしてあって、壁に掛けてあるコルクボードにはお客さんの写真がたくさん貼ってある。


「おいくらですか?」

 ココアを飲み終えた私は、黒木さんに声をかけた。

「今日は定休日だってば」

 黒木さんは笑顔で言ってくれる。

「でも……」

「また来てよ!」

 優しい声で言うだけで、お金は受け取らなかった。

「じゃあ、また来ます」

 私は微笑んだ。


 お店の扉を開けて外に出る。

 見送りに黒木さんは表まで来てくれた。

「ホントにまた来てね」

「はい」


 お店の扉にかけられた『close』のプレートの横にある張り紙が目に入った。


【お料理できる方募集中!】


「黒木さん、これ……」

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