真島 タカシ

1.散歩

「こら!こっちやで」

どうしても、土手の草叢へ入って行く。

龍治には、従順に付いて歩くそうだ。

月に一度、三日間、犬を預かつている。

弘は、何でも屋の「何でもするゾウ」を手伝っている。


六年前、今と同じ、暑い夏の日。

土手に深緑の雑草が蔓延っている。

弘は、「何でもするゾウ」のチラシを配る地域へ向かっていた。

作業の無い日は、地域を決めて、チラシを配っている。

今日は、中古川の西の地域へ向かっていた。

中古川は、「ナカフルカワ」という。

決して、「チュウコ」川とは、云わない。

中古川は、中新川の支流になる。

中新川と合流する手前に、一号橋が架かっている。

中新川との合流場所から、県道の橋までに、四つの橋が架かっている。


弘は、県道に架かる橋の袂から、土手道を通っていた。

三号橋に差し掛った時、前方に男が見えた。

二号橋の辺りに、犬の散歩をしている男がいる。

飼主と犬が、何か揉めているのか、引張り合っている。


あっ。首輪が外れた。

犬が逃げた。

犬が弘の方へ走って来る。

弘は、咄嗟に手を広げ、犬を捕まえようとした。

犬は、素早く身を躱し、四号橋の方へ向かって、走り去った。

弘は、追い掛けた。

犬が逃げる。

追い付かない。


そうだ。

弘は、逃げ足は早いのだが、追い掛けるのは苦手だった。


突然、犬が、方向転換して、弘に向かって来た。

弘は、両手を広げ、また、捕まえようとした。

ああ!

あっさり、胴をくねらせて、犬は、弘から逃れた。

逃げた方を見ると、飼主は、犬を背にして、川下へ歩いている。

首輪とリードを持って、歩いている。


今度は、犬が、飼主を追い掛けた。

犬は、飼主の元へ戻った。

と、思ったが、犬は、飼主を追い抜き、土手道を川下へ一号橋に向かって、走り去った。


弘は、飼主の男に声を掛けた。

「捕まらんですね」

「うん。走りたいんやろなあ」

男が云った。

暫く走ると、戻って来る筈だと云う。


遠くで、犬が、こちらを見ている。

飼主は、また、方向転換して、土手道を川上に三号橋に向かって、歩き始めた。

慌てて、弘も飼主に並んで、川上に向かって歩いた。

弘は、後方の犬を見た。

犬が、走っている。追い掛けて来る。

「こっちに来てますよ」

弘は、飼主に伝えた。

犬は、一号橋から二号橋に向かって走って近付いて来た。

二号橋の手前で、また、飼主を追い抜き、走り去った。

橋の袂で、犬が飼主を待っている。

追い掛けると、また逃げるのだそうだ。


その時、女性が、橋を渡って来た。

「あっ。いかん」

飼主が、慌てた。

「ジャック。こっち。ジャック」

飼主が、懸命に、犬の名を呼んでいる。

柴犬なのに、「ジャック」なのか。

タロとかジロとか、日本らしい名じゃないのか。


犬は、飼主を見ている。

人に、咬み付くような犬では、ないそうだ。

だけど、犬だから、予想外の動きをするかもしれない。

万一の事を考えて、犬の気を惹いているそうだ。

飼主の、必死の呼び掛けが、功を奏したのか。

ジャックは、ゆっくり、こちらへ向かって歩いて来る。

良かった。

しかし、ジャックは、飼主に捕まるのを用心しているようだ。


ふと、ジャックが橋の方を見た。

突然、橋に向かって走った。


女性が一人、橋を渡り、袂に来ている。

ジャックは、女性に走り寄った。

女性が驚いている。

「ごめんなさい」

飼主が謝っている。

ジャックが、女性に甘えて、戯れている。

「首輪、外れたんですか」

女性がジャックを撫でながら、飼主に尋ねた。

「ごめんなさい」

飼主が、女性に謝った。


弘は、驚いた。

飼主を差し置いて、見知らぬ女性へ懐いて、戯れている。

「人懐っこいですね。誰にでも寄って、行くんですか?」

女性は、怒っていなかった。

「いえ。誰にでも、じゃないんです。優しい人には、すぐ、付いて行くんです」

飼主は、面目無さそうに、女性に謝った。

「そうですか」

嬉しそうに、女性が云った。

飼主が、ジャックに首輪を嵌めた。

やっと捕まえた。


女性は、土手道を横切り、田圃の広がる農業用道路を国道へ向かって立ち去った。

見ていると、女性が振り返り、手を振っている。


「ジャックは、優しい人が分かるんですか」

弘は、感心して尋ねた。

「いいや。あの人が、気い悪う、せんように、言うたんや」

飼主が、申し訳なさそうに云った。

以前にも、何度か首輪が、外れたそうだ。

その時、自転車に乗って、二匹の犬を連れた男と、トラブルになったそうだ。

ジャックは、大人しく伏せていたが、男の犬が吠え立てた。

一匹が、ジャックに飛び掛かり、咬み付いた。

大人しいジャックも反撃して、その犬を撃退した。

まあ、離した飼主も悪いが、自転車に乗って、二匹の犬を散歩させるのも、どうかと思う。

飼主は、一応、謝った。

そして、今度、自転車で犬の散歩しているのを見掛けたら、警察に通報する。と云ったそうだ。


それ以降、自転車に乗って、二匹の犬と散歩する男とは、遭っていない。

散歩の時間を変えたのかもしれない。


弘もジャックと飼主の散歩から別れ、チラシ配りの目的地へ向かった。


翌日、事務所へ、ある相談があった。

三日間、犬を預かってほしいという依頼だった。

月の最終週の金曜日の午後から、月曜日の午前中までだ。


依頼主は、当時、七十二歳だった鈴木さんだ。

定年退職後、鈴木さんの妻が亡くなった。

何もする事が無かった。

一年前、娘に勧められて、犬を飼い始めた。

犬の散歩が日課になっていた。


この春、鈴木さんの孫が、隣県の石鎚山高専に入学した。

孫の母親は、鈴木さんの娘だ。

娘の夫は、建材会社の栗林営業所に務めている。

夫の実家は大阪で、両親は夫の兄と住んでいる。

夫が、栗林営業所に配属になったのを期に、鈴木さんと同居するようになった。

娘の夫が、東京へ転勤になったが、単身赴任する事にした。

孫は、長く住んでいる栗林市を離れたくなかった。


寺井社長は、随分と立入った事まて聞かされたようだ。


月に一度、娘は、孫の所へ会いに行っている。

犬を連れては行けないので、鈴木さんは留守番をしている。

鈴木さんは、一緒に行けず、面白くなかった。

そして、「何でもするゾウ」の存在を知り、思い切って相談した。

すると、鈴木さんも、娘と一緒に、孫の所へ行けるようになった。


学寮へは立入れないが、金曜日の夜から土曜、日曜日と門限まで過している。

今では、娘と一緒に孫に会いに行くのを楽しみにしている。


犬は、当時二歳の赤柴で、名は、「ジャック」という。


必ず、朝と夕方の二度、散歩へ行く事になっている。

今日が、月曜日で、弘は、午前のジャックの散歩を担当していた。

ジャックの散歩は、時間が読めない。

三十分で終わる事もあれば、二時間近く終らない時もある。

午後には、鈴木さんが、ジャックを迎えに来る。

今日は、一時間でジャックの散歩が終わった。


ところが、午後四時になってもジャックを迎えに来ない。

鈴木さんから連絡も無い。


弘は、鈴木さんの携帯に、連絡を入れた。

電源が入っていないという案内だった。

娘さんの携帯に連絡を入れた。

応答があった。

「お世話になります。何でもするゾウの秋山です」

弘が、鈴木さんの娘に、ジャックの迎えが無いと伝えた。

「えっ?」

娘さんが驚いた。

鈴木さんは、午後一時過ぎに、ジャックを迎えに行った。という事だ。


今、鈴木さんは、七十八歳。

何か、事が有ってからでは遅い。

警察に通報するのは当然だが、自分達も心当たりを探すと云う。


そして、娘さんから、鈴木さんを探すように依頼された。

しかし、これは仕事では無い。

寺井社長は、全面的に協力する。と宣言した。

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