第9話 殺せてはいなかった
「勝負、あったな」
リバーロはつぶやき、太刀を頭上に掲げるように構えた。今度は刃を向けていた。その顔に笑みはない。
「今は別れてまた再戦、といきたかったがなァ。どうする」
ジョサイアは答えられなかった。指先から、肩から力が抜け落ちていた。目を見開き、口を開けていた。
どこか寂しげにリバーロはつぶやく。
「ここまで、か」
不意に、ジョサイアの口にぬるりとしたものが触れる。指で触れてみると、それは血だった。先ほどの頭突きで鼻血を吹いたのか。
力のこもらない手で無意識に鼻血を拭う。その瞬間に思い出した。
サリアが殺されたあの日のことを。涙と鼻水に濡れた顔を、拭ってくれた柔らかい指。
そしてまた思い出した。婚約の日に鼻をつまんできた、あの温かい指。あのときサリアは言ったのだ。今度はあたしが守ってあげる、と。ずーっと、と。温かい言葉、柔らかい言葉、懐かしい匂い。
鼻血を拭い、柔らかく鼻をつまむ。
胸の中に温かいものがにじむ。その感覚は傷口に触れるような痛みを伴っていた。けれどその後、それ以上に胸に甘い。
ジョサイアは息をついた。体の奥につかえていたものが、息と一緒に抜け落ちた感覚。
笑っていた。肩を震わせ、息を吹き出して、全身で笑っていた。何年ぶりか分からなかった。胸の奥から湧き出る笑いだった。つぶやく。
「お前は、だ。殺せちゃいなかったんだな。ジョサイア・ロンドは殺せても」
胸の中でつぶやく。サリアが死んだあのときから、ジョサイア・ロンドは死んでいた。
だがサリアは言っていたのだ、『守ってあげる、ずーっと』と。ずーっと、は、死んでも、ずーっと、だ。いなくなってすら、あいつは俺を守ってくれる。
それでもサリアはもういない。笑うことも一緒に飯を食うことも抱き合うこともない。
せめて、奴を同じにしてやろう。いや、奴はそれより下だ。
ジョサイアは唇の端を吊り上げた。
「死んでもずーっと続く、なんて。お前にはねぇだろ。俺はあいつに守られてる。あの時も今も、この先も。ずーっと、だ」
音を立てて空気を吸い込む。腹の底から息を吐く。抜け落ちていた力が、体の芯から再び湧き出る。顔に腕に脚に、腹の底に力がこもる。
「なんだと……」
リバーロが歯をかみしめ、顔をこわばらせた。今にも斬りかかろうとするように、腕に力が込められたのが分かった。
ジョサイアは目で距離を測る。お互いの距離は鍔ぜり合いから下がったときのまま。手が届く距離ではないが、太刀の間合いよりやや近い。ならば、いけるか。
鼻血の混じった唾を、リバーロの目を狙って吐いた。同時に左右の手で、懐の短剣二本を抜く。身をかがめ、地を蹴って跳び込む。
唾は目に当たらなかった。が、気を取られたのかリバーロの太刀が遅れた。ほんの一瞬、しかし確実に。
頭を下げ、右手の短剣を掲げる。振り落とされる太刀がそこに当たり、火花を上げた。手の感覚が吹き飛ぶような硬い衝撃。押し込んでくる力に右腕がひじから曲がる。勢いを殺されながらも太刀は止まらず、肩にまで食い込んだ。引き裂かれる痛みを肌に感じたが、刃はそこで動きを止めた。
足を大きく踏み込み、左手の短剣を体ごと押し込む。がら空きの脇腹へ。服を貫き、弾力のある肌を、ぶちり、と貫き。堅い肉へ刺した感触。
勝った。
そう思ったとき。左肩と右脚に、後ろからの衝撃を感じた。足が止まり、短剣は刺さったものの浅かった。見れば、肩と脚に矢が突き立っていた。
ゆっくりとした拍手が辺りに響き、草むらの中から見覚えのある姿が現れた。白髪に白ひげ、壮年の男。バーレンの一角獣、その団長であった。
「やあ、お見事。死神をそこまで追い込むとはね。さすがのお手並みだ」
思い出したように矢傷が痛み出す。
白髪の男は胸に片手を当て、大げさな動作で礼をする。
「我らバーレンの一角獣、義によりて加勢いたす。と、ね」
それが合図だったかのように、草むらから傭兵らが姿を現した。数は三十名ほど、それぞれが弓や槍を手にしていた。
白髪の男はあごひげをしごきながら満面の笑みを浮かべた。
「さて。にっくき死神を討つのは我々だ、君はもういいだろう。その活躍は忘れないよ、我々だけの心に永遠に留めておこう」
男が手を上げると、兵は一斉に弓を引き絞った。
穏やかな口ぶり、しかしおどけるような笑みを浮かべて男は言った。
「安心したまえ、彼女の仇は我々が討とう。君はゆっくり休んでいたまえ。ゆっくりと、ね」
男が手を振り下ろす。風を切る音を立てて矢が放たれた。ぶづり、という感触と共に、足に一本、腕に二本が突き立つ。矢傷は熱く、しびれるようだった。リバーロの体にも矢が刺さっているのが見えた。
槍兵が殺到する。槍を頭に振り落とされた。その後のことは覚えていない。
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