現想師アルカーナ

梅津裕一

第一章

第1話  キシュススの悦楽亭

 狭い戸口をくぐって、俺は「キシュススの悦楽亭」へと足を踏み入れた。

 店内は恐ろしく賑わっている。


 照明は壁にかけられたランプだけで、太陽星シャムラーンの力を借りた魔術照明は使われていない古風な店だ。ひどく薄暗い店内では、何人もの客がひしめきあっていた。凄まじい喧噪と熱気に、こっちまで頭がくらくらしてきそうだ。


 あちこちで安い麦酒や葡萄酒を注がれた杯が打ち合わされ、乾杯の音頭と商売女どもの嬌声が鳴り響く。この店の客筋のほとんどは、下層階級の労働者や、犯罪者まがいのごろつきどもだ。


 ジャルーシド河で働く水夫が水夫歌をがなりたてている。筋骨隆々とした沖仲仕に、今日のぶんの仕事を終えた職人連中。顔に傷のある、どこか物騒な気配を放つ剣呑そうな連中は、あるいはどこかの商人の護衛をつとめる傭兵といったところか。ハルザードと呼ばれる黒い羊毛の外套に身を包んでいるのは、あるいは俺の「同業者」かもしれない。


 なにしろキシュススの悦楽亭といえば、安酒場としてはそれなりにこの「勇敢なる乞食通り」界隈で名の知られた店である。値段のわりに酒も食い物もそれなりのものを出すらしい。さらに食後のお楽しみを求める連中のために、ちゃんとその手の女性たちも控えている。


 酒と人の汗の臭い、それとかすかに吐瀉物と商売女たちのつける香の匂いが混じり合った独特の臭気が鼻腔を刺激する。俺は混み合った店内を他の連中にぶつからないようにするりと移動しながら、目指す相手を捜していた。


 俺の「標的」は、この店にいるはずなのだ。


 だが、なにぶんあたりが薄暗いので人の顔がはっきりと判別できない。幾つもの頭が揺れるなか、俺は標的を探し続けた。


 俺が捜しているのは、幻月星メレンマーシャーを守護星に頂く幻術師だ。幻術師は実在しないさまざまなものをそこにあるかのように見せかける、幻影魔術の専門家である。彼らが守護星として頂く赤の月にならい、赤い衣装をまとっていることが多い、とされている。


 幻術師は、みなどこか神秘的な雰囲気をまとっているという。魔術師といえばたいていが得体のしれないものだが、なかでも幻術師は存在そのものが、どこか浮き世離れしていた。


 しかも相手は女なのだ。俺の脳裏ではいつしか、「標的」の幻術師はひどく不可思議な空気をまとった絶世の美女、ということになっていた。あるいは幻術で少しくらい、実物よりも美人に見せているかもしれないが、それでもひどく大人びた女性……。


 だから、その声が聞こえてきたときも、最初はただの喧噪の一部としてしか認識できなかった。


「ハリムド! 羊肉のガフル風煮込みをたのんでからどれだけたったと思っている!」


 まだどこか幼さを残した、男の子のような声だ。


「それと山羊の乳のおかわりもきていないんだぞ! まったく……」


 山羊の乳、と聞いて俺は危うく噴き出しそうになった。

 こんな酒場で山羊の乳を頼むなど、まさにお子様としかいいようがない。一体、どんなガキが本来、大人のためのこんな酒場に紛れ込んでいるというのだ?

 声の聞こえてきたほうを見ると、一人の少年がカウンターの止まり木に腰掛けていた。


 まるで商売女のような赤い薄紗をまとっているが、胸や腰の線を強調するきわどい着方ではない。ぐるぐると長い薄紗を体に巻き付けているさまは、子供が大人の真似をしているようでどこか滑稽ですらあった。


 手足は薄紗からむきだしになっているが、その肌の色はごく淡い、ほとんど白いに近い褐色だ。純血のゾンキア人はたいてい濃い褐色の肌をしている。あるいは白い肌の、南の蛮族の地でも混じっているのかもしれない。


 よく見ると、横顔はそれなりに整っている。年の頃はおそらく十二、三といったところだろう。美少年といってもいいほどだ。ひょっとすると男娼かもしれない、と俺は思った。


 なにしろこのウル・ゾンキムの都では、ありとあらゆる悪徳と退廃が横行しているのだ。同性愛などはまだ穏当なほうで、貴族連中は金にあかせてもっと過激な趣味嗜好に財産を蕩尽している。


 だが、もし男娼だとしてもかなり特殊な趣味でなければこの少年を買う奴はいないだろう、とふと思った。少年の瞳は、わずかに緑がかった灰色をしていたのだ。彼が南の蛮地、セルナーダ人との混血である証である。


 一般にウル・ゾンキムではセルナーダ系の奴らが一番、社会的立場が低い。俺のような、つまり黒い肌を持つメーベナン系も純血のゾンキア人からすれば蛮族扱いされるが、それでも白い肌のセルナーダ人よりはましというものだ。


 それにしてもなんだか、不思議な瞳だった。いままでこんな色の目をした奴を、見たことがない。まるで……。


 そのとき、カウンターの向こうにいた小太りの大男が、やけにつるりとした顎をかきながら言った。


「羊肉のガフル風煮込みは時間がかかるんだ……アルカーナ、あんただってそんなことはわかっているはずだがな」


 その瞬間、俺は思わず耳を疑った。


 アルカーナ。


 そうよくある名ではない。ということは、まさかこの少年が、あのアルカーナ……「現想師」の名を継ぐ、稀代の幻術師だというのか?

 だが、おかしい。アルカーナは女だったはずだ。

 いや、待て。

 よくよく見れば、単に体の発育が悪いだけで、この少年だと思っていた相手は実は少女、ということもありうるのではないか?

 だがそのわりには胸はいくら薄紗をぐるぐる巻きにしているとは平坦すぎるし、尻も小さい。

 その瞬間、俺の気配に気づいたのか少年とも少女ともつかぬ相手が、こちらにむかって振り向いた。


 俺を上から下まで眺め回すと、どういうわけか、どこか満足げな笑みを一瞬だけ浮かべる。まるで旧知の相手と再会でもしたかのように。

 だが、おかしい。俺は、こんな奴といままで出会ったこともないはずだ。

 むこうも、すぐにもとの冷ややかな表情を取り戻した。いまのは、あるいは見間違いかなにかだったのだろうか。


「おい……そこの小僧」


 いきなり灰色の瞳をもつ、少女か少年かも判然としない相手が言った。


「なんだ、ぶしつけに人の胸をじろじろと見て。あいにくと、私は『そういう商売』はやってないんだ」


 その声もよく聞けばどこか女性的なものが混じっている。口ぶりは男のものだが、やはり少女ということか。

 だが、それにしてもこの俺を小僧呼ばわりするとはどういうことだ?

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