戦況を伝える声とて、人の寄り付かぬ裏庭には遠い。

 周が如何にしているのかを知る事が出来ぬまま、花霞は物憂げな様子で幹によりかかり空を見上げていた。

 あれからどれくらい経ったのだろう。もう数十年にも、まだ幾日にも思う。

 自分が何故其処にあるのかも分からなくなりつつあるなか、それでも花霞は舞う。

 何時か帰る大切なひとを迎える為に、またここで二人共に在る為に。

 それだけをよすがに、まるで天へ祈りを捧げるように舞い続けた。

 舞う以外の時間は、周のいる場所と繋がっているであろう空を見る。

 こころが届けば良いのに、或いは飛んで行ければ良いのに。

 そんな事を願いながら、周が穏やかに笑いながらただいまという日を待ち続けた。

 

 俄かに複数の足音がしたような気がして花霞は伏せていた瞳をふと開いた。

 眼差しの先には母屋で下働きをしている男達が何やら物々しい様子で、一人また一人と増えていく。

 普段人の寄り付かぬ裏庭に、男達がぞろぞろと集まって来ている。

 其々、手には斧を手にしているところを見ると。


(成程、あの愚弟の差し金か)


 日頃から周を蔑ろにしてふんぞり返る愚か者は、周が家を空けている間に、花霞の本体である枝垂桜を切り倒そうという魂胆らしい。

 あまりにも分かりやすく愚かしい目論みに、花霞の顔には嘲笑が浮かぶ。

 少しばかり脅かしてやれば逃げ惑うだろう、そう思った花霞の意を受け満開の枝が意味ありげに騒めき始める。

 それを見た下男たちに怯えが色濃く見え始める。

 何時からそこにあるのか分からぬ程長い年月を経た古木である。

 近代化の波の只中にあれども、古い迷信は未だに払拭されはしない。古きものへの畏れは人々の中にまだ根強く残っている。

 鼻を鳴らした花霞がもう少し脅してやろうとした時、何かの臭いを感じ彼女は目を見開いた。


 それが何かを悟った次の瞬間には焼けつくような痛みを感じた。

 何者かが周囲に油を撒いたとおもえば、燃え盛る火が投じたのだ。


 舌打ちしてそちらを見れば、醜悪な笑みを浮かべた健人の姿がある。

 手にはもう一つ松明があり、制止の声もふりきって、けたたましく笑いながら更にそれを樹へと投げつけた。

 焔は油を伝って裏庭に瞬く間に燃え広がり、花霞を焼こうと徐々に勢いを増していく。

 流石にこれはと思い、裏庭の古池の水を導こうとしても思いの外、炎の周りが強い。慣れぬ術を使うには、この負荷は辛い。

 文字通り身を焼く苦痛に顔を顰める花霞の耳に、憎しみに満ちた声が響いた。

 

「ずっと目ざわりだったんだよ、この庭も桜も、あいつも! 全部消えてしまえ!」


 あまりの火の勢いに諫める者も現れ始めたが、健人は聞き入れない。

 何かにとりつかれたように枝垂桜を焼く焔を見ては笑い声をあげている。

 数名が母屋に火が飛び火しないようにと立ち回るが、嗤う男は気付かない。


 痛みに唇を噛みしめる花霞の脳裏に、哄笑にのってある思念が伝わってきた。

 それは、目の前の愚かなこの男が抱いた暗い執念と薄汚い思惑だった。


 跡継ぎである兄が、どれ程疎ましかったか。

 脆弱である癖に、優秀であると褒めそやされた目障りな兄。

 何処へいっても公の評価に『相神 周の弟』という言葉がついて回るのがどれほど厭わしかった事か。

 病がちであるというのに、文武だけではなく全てにおいて自分は兄の風下に経たされていた。

 ある日、兄の予備役編入という事態が起きた。

 父は兄を怒鳴りつけながらも、もう少し正当な理由さえつけば跡継ぎを変えてやろうと言ってくれた。

 曖昧な立場のまま離れに閉じ込められる兄を見て笑いが止まらなかった。使用人達が兄を蔑ろにするのを見て留飲の下がる思いだった。

 自分の方が優れている筈なのに、何時までもどこまでも、あの言葉はついてきた。

 目ざわりだった、居なければいいのにと何度思ったかしれない。

 母は囁いた、それならば消してしまえばいいと。

 戦の動乱に紛れててしまえば、何か『不幸な出来事』があろうとわからぬからと……。

 手は打った。兄が戦争に行くように仕向けて人に金を渡して、兄は帰らぬ手筈だ。

 それだけでは気が済まない。

 兄は下らない事に、寂れた庭の桜の為に出征する事を承諾したという。

 ならば、それを奪ってやれば良い。

 万が一にも兄が帰って来た時、よすがと思っていたものが奪われていたとしたら、どれ程胸のすく思いがするだろう――。


 思念はそれで終わった。

 驚愕に目を瞬いた花霞は、信じられぬものを見るように健人を見つめると、呻くように言葉を絞り出した。


「貴様、兄を……周を……!?」


 伝い来た思念が健人のものであるならば、この男は兄が戦争の動乱に紛れて死ぬように仕組んだという。

 例え片親は違うと言えど、兄であり弟である筈だ。

 それなのに、弟は兄を妬み疎み、果ては殺そうとしている。

 暗い劣等感と、薄汚い欲の為に。花霞の愛する周を、亡き者にしようと。

 

(許さぬ)


 許せるわけがない。 

 もはや痛みは感じない。それよりも激しく裡から突き上げるような何かがある。

 花霞が身を焼く焔よりも尚熱く激しい憎しみの情念に身を焼きかけた、その時だった。

 

 突如として何か大きな黒い塊が飛来したかと思えば、炎を前に笑い続けていた健人を地面に押し倒した。

 花霞は思わず息を飲む。吹き出しかけた憎しみの行き場が逸らされる。

 何が起きたのかわからない。

 茫然とする花霞の前で、耳をふさぎたくなるほどの絶叫と共に血飛沫があがる。

 黒い何かが、健人の喉に喰いつき、喰いちぎったのだ。

 言葉を発する事も出来ぬまま、信じられないと驚愕の表情を浮かべたまま、健人はそれから逃れようともがいた。

 しかし、それは叶わない。

 緋を失いすぎて力を失った身体は、一度二度痙攣したかと思えば、動かなくなった。

 あまりにも呆気ない最期だだと、理解が追いつかぬ脳裏にぼんやりと思う。

 衝撃的な出来事に凍り付いていた人々が、何が起きたのかを理解して漸く動き出す。

 

 琥珀の一対の先と、恐怖に歪んだ複数の黒の先に在ったのは、黒い大きな獣だった。

 犬かと思えどもそうではなく、狼と呼ぶにも些か違う。

 あらゆる情念を飲み込んで黒く染まった澱みの体毛に覆われた、余りにも禍々しい一体の獣。

 獣はゆるりと人間達に目を向ける。

 どう見てもこの世のものではない恐ろしい存在の注意が自分達に向いたと悟るや否や、男達は火を消す事も放棄して蜘蛛の子散らすように逃げていった。

 打ち捨てられた主の屍を抱えていこうとするものは居なかった。

 当然の報いと口元を歪めた花霞と、その獣の目があった。

 おどろおどろしい外見でありながら、その瞳は不思議な程に澄んでいて、穏やかだった。


 獣が秘める魂は、とても美しかった。


 口がからからと乾いて、喉が張り付くような気がする。

 有り得ない、そんな事は有り得ない。

 けれども花霞は知っている。

 この穏やかな眼差しの主を。

 この、うつくしい魂の持ち主を。

 有り得ない、その言葉が花霞の中を埋めつくし、駆け巡る。

 信じられない、信じたくない。

 けれども、その事実を拒絶する事は出来ない。

 花霞の口から、掠れた呻きが零れるた。


「あまね……?」


 黒い澱みの獣は、それを肯定するかのように沈黙していた……。


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