第六章:夜明け前が一番暗い(石黒奏汰)

第28話 怖くないわけねぇだろ【研究室】

 気を失っていた赤城を背負い、鉄パイプを手にして、石黒は階段で4階に向かうことにする。プールデッキからならば、4階専用階段と中央階段との距離は変わらない。さすがに今しがた去って行った所で、茉白がすぐに襲ってくることはないと思うが、潜むことのできる部屋が多く、隠れる場所の多いルートは心理的に避けたかった。


 …朱音ちゃんは…もう…


 茉白の…朱音の行方は全く見当がつかない。救う手立ては残されていない。どう考えても意識のない無防備な朱音が腹を空かせた食人鬼に捕えられて無事でいる可能性は皆無だった。目の前で起った信じ難い事実に思考が止まったまま動かない。とりあえず今、石黒にできることは、赤城を連れて研究室に戻ることだけだった。

 どこをどう通ったのかすら覚えていないまま、石黒はいつの間にか研究室に着いていた。


「…白石」


 研究室のインターホンを鳴らすと、「石黒!」と白石が飛び出して来て、背中でぐったりしている赤城を見て驚きの声を上げた。


「それは赤城?」


「うん」


「怪我してるのか?」


「うん」


「石黒は大丈夫か?顔色真っ青だぞ」


「うん」


 白石は「ワクチンはほぼ完成。あとは機械に任せて完了のアラームを待つだけだから、もう研究室を離れても問題ないぜ」と言うと、赤城を背負って突っ立ったまま、動けずにいた石黒を引っ張って医療室に連れて行ってくれた。

 石黒が赤城を背中から下ろして、ベッドに寝かせると、途端に白いシーツがジワジワと真っ赤に侵食されていくのが見え、思った以上に赤城が血を流していたことに気づく。まだ利き手が使いにくい白石の指示で、石黒は、濡れて肌に張り付いていた赤城のシャツと脱がせにくかったスリムパンツをハサミで切り裂く。赤城の白く滑らかな肌には無惨な切り傷がいくつも走っていた。


「うわ…凄い血の匂い。服が赤いからわかりにくかったけど、あちこち血塗ちまみれじゃん」


 白石は不快だと言わんばかりに顔をしかめているが、石黒には美味しそうな甘ったるい匂いとしか思えなかった。嗅覚だか認識だかが狂っているのは石黒の方であって、目の前の凄惨な光景とのギャップに戸惑ってしまう。


 …ゾッとするべきなのか、でも…


「傷口はスパッと切れて綺麗だな。これって…メスでつけられたのか?まさか、茉白ちゃん?」


 白石は思い当たったようで、ハッとしたように石黒を見た。


「そう。赤城は怪我を負わされて、朱音ちゃんは連れて行かれた。僕は何もできなかった…」


「朱音ちゃんが…そんな…」と、微かに白石の唇が動く。石黒はもう何も言えなかった。白石も石黒の苦しい気持ちを察してか、それ以上の説明は求めなかった。

 翠に手当てしてもらった白石が、その時の翠の見様見真似で指示を出すので、石黒はその通りに傷を消毒し、止血剤のスプレーをかけ、抗菌薬を塗ったガーゼで覆って、包帯を巻いた。適当に刺していいと言われて、右手のひらには痛み止めの局所麻酔薬を注射した。

 赤城の体幹と上腕の傷は、数こそ多かったものの浅い傷ばかりだった。白石の腕と同じような感じで、血が止まり、傷が塞がれば治りそうに思えた。問題は噛まれた右手だ。


 …ここまで押し潰されたら、もう駄目だ。


 右手の親指と人差し指の付け根は骨が砕け、腱が切れ、かろうじて繋がっているだけのように見えた。おまけにメスで切られた右手首の方はどうやら動脈を傷つけていたらしく、血の止まりが悪い。白石の時と同様に右腕の肩に近い部分を縛って止血してみたが、白石が言うには、あまり締め過ぎると血が流れなくなって痺れるらしい。加減しているせいか、出血はなかなかおさまる気配がなかった。


 …赤城の右手はたぶん…もう使えない。


 絶望的な気分だったが、石黒と白石が全ての処置を終えた頃には、それでも新たな出血は止まっていた。


「いったん、研究室に戻ろうぜ。そろそろワクチンが完成してるかもしれねぇし」


 白石の言葉でかなりの時間が経過していたことに気づく。今となっては、ワクチンだけが唯一の希望の光となってしまった。

 医療室のベッドの一つにはすっぽりと白いシーツで覆われた草野の遺体が今も寝かされている。眠っているとはいえ、赤城一人をここに置いて行くわけにも行かず、石黒は浴衣に似た病衣を着せた赤城を抱き上げ、白石と一緒に研究室に戻ることにする。

 赤城が男にしてはスリムな体型で、身長も翠と同じ位だったことで、操舵室に閉じ込めた翠のことを思い出す。


 …翠ちゃんには…何と伝えたらいいのだろう…


 全ては最悪の事態になっていた。女の子達は確保できず、青山は死に、朱音も失った。俊敏で獰猛な鬼と化した茉白を捕らえるのは…今の石黒達にとってはリスクが大きすぎる。もう諦めるしかないように思えた。

 研究室に戻り、白石が医療室から抱えて来た綿毛布の上に赤城を寝かせると、白石が石黒の顔をしげしげと眺めながら問うてきた。


「ところでさ、お前、眼鏡どうしたんだ?」


「あれ?落としたのかな」


「眼鏡なくて、見えんのか?」


「大丈夫だよ」


 眼鏡を失くしていたことに全く気づかなかった。おそらく茉白に突き飛ばされた時に外れて飛んでいったのだろう。元々、度が入っていない伊達眼鏡だったので不都合はなかった。


「石黒、眼鏡ない方が男っぽいぜ。色男がそんなしけた面すんなよ。俺が珍しく褒めてやってんのに」


 白石がニッと笑って肩を叩いた。石黒が答えるのを待っている様子なので、何か言わないわけにいかなかった。


「ありがと。白石は髪を伸ばして、ルージュ塗るといいよ。可愛い女の子にしか見えなくなる。翠ちゃんほどじゃないけど、僕的には結構タイプ」


「チキショー。嬉しかねぇよ。悪かったな、女顔で」


 白石の軽口に何とか答えているうちに、少しずつ石黒の気持ちも浮上してくる。一人じゃないということが、白石という友人がいたことが、これ程有り難いと思ったことは今までになかった。ふと気付くと白石は真剣な顔でじっと石黒を見つめていた。


「勝手にり所にして悪いけどさ、石黒は俺の希望なんだ。お前がいるから俺はこうして不安と戦っていられる。たとえ先が見えなくても」


「そうだったね。夜明けの来ない夜は長いんだよ、とても。覚悟しないといけなかったのは僕の方だ。僕は君と翠ちゃんを守る。赤城も。茉白ちゃんと…出来れば…朱音ちゃんも…」


 話しているうちに我知らず声が小さくなっていった。赤城は酷い大怪我を負っているので何とかしたいと思えた。共に戦ったことで距離が近くなったようにも感じていた。しかし、茉白に関して消極的になってしまったのは致し方ないと思って欲しい。何の罪もない草野を殺し、朱音の命までも奪っていったならば、茉白を許すことができそうになかった。


 …でも、茉白ちゃんにワクチンの存在を伝えることが出来ていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない…


 いくら、たらればの仮定を繰り返しても現実は変わらない。押し寄せる後悔と懺悔の波を振り切って、前にし進むしかなかった。


 それから、どのくらいの時間が経過したのだろうか。突然、耳慣れない車の防犯ブザーのような大音量アラーム音が静まり返っていた部屋に鳴り響き、石黒は貸してやっていた肩にもたれてウトウトしていた白石を慌てて揺さぶった。


 ピイッ、ピイッ、ピイッ、ピィ…


「白石、白石。あの音は何?防犯システム?」


「んあ…?違う違う」


 白石は眠り足りないように男にしては長い睫毛を上下し、目をまたたかせた後、アラーム音に気づき、破顔して首を振った。


「喜べ、石黒。ワクチンが完成したぞ!」


「暁ワクチンが…!」


「おう。やっと長かった夜が明けるぜ」


 目を合わせた二人は歓声をあげてガッツポーズをとった。そして、どちらからともなく腕を伸ばし、ぶつかるように抱き合った。暁ワクチンの完成は石黒にとって、まるで暗闇を払拭する朝の光のように思えた。


 白石の腕の痺れは局所麻酔薬の影響だったようで、麻酔の効果が切れた白石の利き手は使えるようになっていた。白石は出来上がったワクチンを予防接種用の注射器に吸い上げた。


「…十人分あるんだけどな」


 ワクチン入りの注射器4本だけを金属製のトレーに載せて、残りを冷蔵庫に仕舞った白石はポツリと呟いた。このワクチンの恩恵を得られるのは生者だけだ。そして、今、接種可能なのは白石、石黒、翠、赤城の4人だけだ。生きていれば、朱音も。運良く捉えらるか、説得できれば…茉白にも。


「さぁ腕を出せ、石黒。お前が第一号だ。翠ちゃんと話して、最初はお前って決めてたんだよ」


 白石は嬉しそうに笑いながら、消毒用らしいアルコール綿をつまみ上げて言った。


「光栄だよ。でも、痛くしないでね」


「何言ってんだ。注射は痛いもんなんだって」


「でも、赤城は痛くしないで注射できるらしいよ」


「うるせぇ。でも、俺の方が翠ちゃんよりは痛くないぜ、たぶん」


「うん。翠ちゃんの採血は死ぬかと思う程痛かった。翠ちゃん、ああ見えてかなり不器用だもんね。食人鬼になっても急所は微妙に外してたし、あれって、手加減じゃなかったのかも。助かったけど」


「俺さ、包帯巻いたの見た時、ヤベぇと思ったよ。いつまでも同じ所で包帯がクルクル回ってんだ。挙句の果てに巻き終わった直後なのに緩んで外れた…あり得ねぇ。ちなみに翠ちゃんは後ろ手でエプロンの紐が結べねぇぜ。下手すると前でも蝶々結び出来ねぇかも」


「それは酷い」


「だろ。交際は見直せよ」


「いいんだよ、僕が結ぶから」


「あーもう。お前にはかなわねぇわ」


 大きくため息をついた白石は手際よく、石黒に注射した。交代し、今度は石黒が白石の指示で、肩の少し下辺りの腕に暁ワクチンを打つ。その後、白石はまだ目覚めない赤城にもワクチン接種を行った。


「あとは…翠ちゃんか」


 白石はそう言うと、一人分の注射器と消毒綿の入ったトレーを石黒に押し付けた。


「石黒、行って来いよ」


「え?白石は一緒に行かないの?」


「俺さ、ビビリなんだ。ヒトでなくなった翠ちゃんに会うのは正直怖い」


 白石は困ったような苦しいような…二つの想いがい交ぜになった顔で笑った。


「それにさ、朱音ちゃんのこととか…赤城がこんなになったのとか…他にも何かあったんだろ?でも、俺は怖くて、お前の話すら聞いてやれねぇ。お前に負担かけてるのはわかってても、俺じゃ駄目なんだ。情けねぇよ」


「白石がいてくれることが僕の原動力になってる。白石は僕を支えてくれてる」


「俺はそれしかできねぇからな。でも、翠ちゃんは違う。翠ちゃんは強い」


「どうして、そう思うの?」


「翠ちゃんは暁ワクチン計画の立案者で責任者だ。これは苦肉の策なんだぜ。絶対に成功する保証はない。あんなに自信満々に見せてるけど、怖くないわけねぇだろ」


「…そう。そうだよね…」


「知れば知るほど不安になっていく俺に、翠ちゃんは【これしか方法がない】とは言わなかった。【私を信じろ】って言った。俺は翠ちゃんを信じる。翠ちゃんの作ったウィルスは必ず不夜病と拮抗するはずだ」


「うん。そうだね。翠ちゃんは嘘は言わない。絶対に」


 翠は強い。今さらながらに、翠の背負っていた責任の重さに気づく。翠はこの暁ワクチンについては、泣き言は言わず、誰にも不安を見せなかった。いつも堂々としていた。それが、どんなに心強く、希望を与えてくれていたことか。そのことの大きさと重さを改めて知る。


「翠ちゃんなら、きっとお前の背負ってる重荷もわかってくれる。翠ちゃんを救うのはお前だ。お前しかいない。行け、石黒。俺はここで待つ」


 白石は石黒の苦悩を察した上で、翠と二人きりになる機会を与えようとしてくれているのだろう。確かに…心の内にある全てを伝えた上で、共に支え合えるのは翠しかいなかった。石黒は手の中のトレーに目を落とし、「翠ちゃんに注射したら戻るよ」と白石に告げた。

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