第五章:暗夜に灯火を失う(石黒奏汰)

第24話 らしくねぇな【研究室】

 …やけに暗いな。


 茉白を探して、船内を捜索していた【石黒いしぐろ奏汰かなた】は、ふいに周囲の明度が下がったことに気づき、立ち止まった。電力温存のために船内の殆どの場所を停電させていることで、窓のない部屋や1階廊下などの閉鎖空間は真っ暗になっている。

 しかし、窓からの明かりが差し込む場所はまだ明るく、日が落ちるまでは何ら問題はなかったはずだった。それなのに…


 吹き抜けの中央階段を降りて、丸い窓の並ぶ明るい2階廊下に出ていたので、周囲が急激に薄暗くなっていくことに違和感を感じた。

 今日の天気は晴れ。雲は少なく、突然雨を降らせるような積乱雲も見当たらない。日が落ちるのはもう少し後だと思っていた。


 …いったい何が?


 窓に近づき、外を見回して、太陽に起こっている異変に気づく。


初虧しょきか…」


 丸い太陽の端がわずかに欠けている。かげりを帯び始めた空では日食の第一接触の部分食が始まっていた。光を司る綺麗な円形の太陽が闇に食われていく姿に、ゾワワと自分自身が侵食されるイメージが掻き立てられる。


 …嫌な予感がする。


 茉白と葵衣を見つけたら研究室に戻ると伝えていたが、翠と白石のことが何故か気になって仕方なかった。優れた頭脳を持つ科学者の二人ではあるが、一方で血腥ちなまぐさい戦場とは無縁で、石黒からすると仔猫と仔犬のように愛らしくて…か弱い。食人鬼やマフィアに襲われても力で抵抗する術を持たない。守ってやらなければならない。ワクチンという重要なカードを握っている今は、赤城達に危害を加えられることはなさそうだが、胸に去来した不安はどうしても拭えない。


 石黒は暗闇に埋没するような4階専用階段に向かい、上方に向かって駆け上がる。

 辿り着いた4階フロアの廊下は真っ暗だったが、操舵室の方へ、左の壁に沿って進むと、途中で自動扉が開き、内側から光が漏れ出した。

 暗闇から、突如として明るい部屋に入ったことで、一瞬視界が白くなったが、次第に目が慣れて見えるようになる。


「翠ちゃん、大丈夫?」


 急いで部屋との連絡用インターホンのボタンを押し、中に呼び掛けると「石黒か?」と、応答があった。二重ガラスドアの外側で待っていると、翠がすぐに姿を現した。


「戻ってくれて良かった…」


 ガラスドアが開くのを待ちきれず、もどかしそうに飛び出してきた翠は石黒の首筋に手を伸ばして抱きつくと、ホッとしたように耳元で囁いた。翠との思わぬ密着に一瞬嬉しくなりかけたが、思いがけず鼻をついた鉄臭い嫌な匂いに気づく…嗅ぎ慣れた【本来の血】の。


「その血、どうしたの?怪我してるの?」


 翠の着ていた白衣の前面にベットリと血液が付着しているのを見て、石黒は眉をひそめる。


「私じゃない。怪我したのは白石だ。石黒達が行ってから、茉白ちゃんが入って来て…」


 そうだった。白石だけは不夜病罹患者を惑わす甘い香りがしない。石黒は全部は聞かず、翠を抱えるようにして、研究室内に急ぐ。


 …白石は…白石は無事なのか?


「白石!」


「よォ」


 白石は石黒を認めて、左腕を挙げてみせた。白石の白シャツも血に塗れ、袖を捲った右前腕には雑な感じでグチャグチャと包帯が巻かれていたが、命に別状は無さそうでホッとする。


「マズッた。利き腕切られちった」


 白石は苦笑いしながら石黒に告げた。


「痛む?大丈夫?」


「痛み止め使ったから今は痛くないぜ…けど、ちょっと前から痺れちゃっててさ。石黒が戻ってくれて良かった」


 白石は腕の感覚が戻らずに、翠が食人鬼化しても拘束できなかったり、ワクチンが出来上がっても注射できなかったらどうしようか…と懸念していたらしい。石黒は白石の話を聞きながら、今にも外れそうな包帯を外すと巻き直してやることにする。包帯を下手くそに巻きつけたのはどうやら翠らしい。手早く巻き終えると、石黒は気になっていたことを尋ねた。


「それで、茉白ちゃんは?」


「それが…」


 翠と白石は、茉白が再びトイレから侵入して襲ってきたこと、オリジナルのフィロウィルスを含む培養液を被って逃げたことを話した。石黒は自分の判断ミスを知り、居ても立っても居られない気持ちになった。


「リスクはわかってたのに…非常電源のタイムリミットが気になって焦ってたよ。研究室への侵入防止対策を後回しにした僕のミスだ。そっちを優先すべきだった。ごめん」


 石黒が謝ると、翠は首を振り「誰のせいでもない。私達も油断していた。まさか、あんなにすぐに現れるとは思わなかったんだ。ずっと、エレベーターかトイレに隠れていたんだと思う」と、言った。


「…茉白ちゃん達は見つかりそうか?」


 翠が尋ねてきたが石黒は言葉に詰まった。茉白の居そうな場所は片っ端から立ち寄ってみた。

 朱音を機関制御室に送り届けた後、3階には対策をしておいた。3階の階段踊り場付近のフローリングの床に、機関室で見つけた潤滑用シリコンスプレーを罠の代わりに一缶分たっぷり吹きかけておいた。これで床が滑りやすくなったので、3階から唯一の出入りルートである階段に出ようとするとツルツル滑り、立ち上がるのも困難なはずだ。

 それから、2階に向かい、心当たりをくまなく探してみたが人の気配は感じられなかった。専用エレベーターのある機関制御室以外は、4階専用階段に行くにせよ、トイレエレベーターのある1階セレモニーホールⅠに向かうにせよ、他の階に行くためには一度は中央階段前を通る必要がある。吹き抜けの折り返し階段は暗くても階段を登り降りする音や気配を察知できる。階段は定期的に確認し、捜索中に何度も行き来していたので、通れば気づくと高を括っていた。トイレエレベーターに至っては、直前に朱音と共に往復したこともあって、近くにいたとはつゆ知らず、注意を向けていなかった。


 …まさか、研究室に潜んでたなんて…


 食人鬼になる前に身柄を確保しておきたかったが、性格や思考パターン等の情報が全くない茉白の動きは読みにくい。それは石黒の思っていた以上になかなか至難の業のように思えた。

 強いて言うなら、食人衝動に駆られて、人のいる…この研究室をまた襲うという可能性が高いように思うが、怪我をした白石や不安そうな翠にはとても言えなかった。


「茉白ちゃんが出血熱を発症する前にワクチンを打たないと…」


 翠は潜伏期間の2日間…つまり、明日中にワクチンを打たないと、急激に増殖するが重症化しない暁ワクチンによる事後予防接種の効果が得られず、オリジナルのフィロウィルスによる出血熱が発症してしまうという。


「そうか…」


 電力のこともある。ワクチンが完成した後はいっそ全員を機関制御室に集めて、茉白が襲ってくるのを迎え撃つ方がまだマシかもしれない。赤城の考えはわからないが、エンジンを直すのに人手はあった方がいいだろうし、出方のわからない食人鬼への対応も協力してあたった方が得策なはずだ。

 石黒は翠と白石に、現在の逼迫ひっぱくする電力の状況と船内の停電、どう影響するかわからない皆既日食について伝えることにした。話を聞いた二人は電力については顔色を変えて「ワクチンの完成が間に合って良かった…」と、呟いた。日食については、二人ともピンとこなかったようで、小学生の時にたまたま周期が重なり、理科の授業で観察したことがあるという白石は楽観的な見解だった。


「日食はだいたい2時間くらいで終わるだろ?ダイヤモンドリングは綺麗だぜ。俺は神秘的で好きだけどな。皆既日食自体はほんの数分だし、心配いらねって」


 翠は「私は日食を見たことがないんだ」と、多くの人を惹きつけてやまない美しい翡翠色の瞳で石黒をじぃっと見つめた。石黒は翠から目を離せないまま、懸念していたことを話す。


「日は欠けた後、再び満ちて戻る。でも、2時間も経過したら日食が終了しても日没になる。この船はそのまま夜の闇に包まれてしまう。女の子達の食人鬼化も始まる…どうすれば…」


「どうした?らしくねぇな、石黒。お前のモットーはポジティブなんだろ?」


 白石が重くなりかけた空気を考慮してか、石黒の背を左手でバシバシと叩き、あえて明るい口調で話し掛けてきた。不安なのは白石も同じ…弱気になって泣き言を言っても仕方がないということらしい。翠はちょっと首を傾げた後、白石の方を振り返った。


「白石、ちょっとだけ石黒と一緒に日食を見てきてもいいか?」


「翠ちゃん…今は…」


 とてもそんな心境になれない…と言い掛けて、石黒は驚いた。傍に寄ってきていた翠の細い指先が石黒の手に触れ、遠慮がちにそっと握ってくる。白石には見られていなかったが、妙な背徳感でドキドキしてしまう。


「外の空気を吸ったら戻る。駄目か?」


「駄目じゃないぜ。ここは血の匂いがするし、ずっと閉じこもってて息が詰まりそうだったもんな。俺が機械の番しててやるよ。すぐ上だし、声出せば届くだろ?行ってやれよ、石黒。お前も気持ち切り替えて来い」


 白石は続けて「でも、手は出すなよ」と、鼻に皺を寄せて釘を差し、翠は「行こう」と、石黒を見上げて微笑んだ。

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