第25話 お付き合いは取り引きじゃないんだ【5F甲板デッキ】

 研究室を出て、翠と手を繋いだまま暗い廊下を抜け、操舵室横の階段を上がって5階の甲板に出ると、先程より深くなった濃紺色の闇が空を覆っていた。


「夜みたいだ…あれが太陽か?」


 繋いでいない方の手で空の一点を差して、翠が石黒を見上げた。薄暗いので表情はわからないが、翠の声音は微かな驚きを含んでいた。


「僕がさっき見た時よりも随分欠けてるよ。もうすぐ全部が隠れちゃうね」


 話しながら翠の手を引き、デッキを歩く。もう殆どが影となりつつある太陽の方角に向いたベンチに翠を座らせると、石黒もその隣に腰掛けた。


「怖くないの?」


「ちょっと怖い。でも、石黒がいるから平気」


 翠の言葉に心が浮き立つ。翠に心を許してもらえていたことが嬉しかった。翠はそのまま話を続けた。


「石黒はすごい。あなたには本当に感謝している。私の気持ちを一度ちゃんと伝えておきたかった」


「え?どうしたの、急に?」


 思いがけない翠の言葉に石黒は戸惑った。


「あなたがいるとホッとする。茉白ちゃんが白石を襲った時、私は何もできなかった。怖くて動けなかったんだ。その後もオロオロするだけで役立たずだった。何もかもが不安で仕方なかった」


「僕も咄嗟に動けなかったことはあるよ。ある人に命を救われて僕は生き残った…」


 石黒は躊躇ためらいながらも、思いきって当時のことを翠に伝えることにした。

 その命の恩人とは、石黒が13歳の時に引き受けた国際テロ組織の潜入任務中に知り合い、手を組むことになった連合国特別捜査当局Allies Bureau of investigation【ABI】所属の若い女性捜査官だった。その任務自体が潜入した諜報員エージェントや捜査官を一網打尽にし、諜報活動を行う者への見せしめと、残酷な殺人遊戯デスゲームを楽しむ金持ちの娯楽とを兼ねた罠だったと知った時には、何もかもが後の祭りだった。

 集められたのは10代から20代の若者ばかり五人。石黒は最も年下で10代前半はただ一人だった。翠に話して聞かせながら、苦くやるせない感情が胸の奥に湧き上がってくる。


 …僕だけが皆を犠牲にして逃げ延びた。


 殺された諜報員エージェントの二人は石黒の母であるA級諜報員【レイヴン】の子飼いの部下であり、石黒と切磋琢磨してきた兄弟子でもあった。残る犠牲者二人は石黒の恩人の女性捜査官とその同僚の男性である。


 このことは今まで胸の奥にしまったまま、母にも誰にも話したことのない昏い過去だったが、翠には知ってもらいたかった。翠を前に懺悔したくなった。それで嫌われてしまうなら仕方がないとさえ思った。


 …全て知った上で受け入れて欲しいなんて…そんな虫のいいこと…


 誰かにここまでの話をしたのは初めてだった。素知らぬ顔で完璧な人間を演じ続け、優秀なスパイとして成功した自分の情けない本性を他人に知られるのが怖くてたまらなかった。


「僕は臆病な卑怯者なんだ。皆を見捨てて一人で逃げた。テロ組織は今も存続しているし、あの時の殺人動画スナッフフィルムも回収できないままだ。僕は完璧じゃない。また判断を間違ってしまうのが怖い」


 石黒は翠の反応が気になっていたが、翠の気持ちを知ることはもっと怖かった。翠は黙ったまま、石黒の言葉を待っている。仕方なく話を続ける。


「…翠ちゃんはあの人にちょっと似てる。高潔で凛とした感じが。自己満足の贖罪かもしれないけど、今度こそ、僕は皆を…君を守りたい。生きて欲しい」


「石黒はその人のことが好きだったのか?」


「そうだね。恋愛感情とは違うけど、尊敬はしているよ、今も」


 翠は小さく「そうか」と呟いた。


「こんな奴で…幻滅した?」


「いや、しない。石黒が私の希望で心の支えになっていることは変わらない。あなたが判断を間違えても、誰かがあなたを責めても、私はあなたの味方でいる。もう、一人で何もかも背負うな。私がいる」


 翠はキッパリした口調で告げて、石黒の膝に手を置いた。石黒は翠に嫌われなかったことに心の底から安堵する。本当に欲しかったのは…失敗や過ちを犯し、完璧ではない自分を知っても受け入れてくれる存在だった。それが今ここに…傍にいる。翠の手の温かさに、じわじわと心の中で冷たく固まった黒い記憶が溶け出し、薄れていくような気がしていた。しかし、石黒の気持ちとは裏腹に翠の方は小さなため息をついた。


「批難されるべきは私達の方だ。私達は石黒や白石…遺伝子操作された者全てに謝らなければならない。本来意図していた使い方ではなかったが、この技術を開発したことは多くの子供達の不幸を生み出すことに繋がった。もっと慎重になるべきだったんだ…は」


「翠ちゃん…?」


「私が今言えるのはここまでだ。すまない」


 翠はそう言うと、うつむいて言葉を止めた。そして、しばらくの沈黙の後、顔を上げた気配がして、翠が小さく声を上げた。


「あ」


 見ると、皆既日食は食既しょっきの直前になっていた。太陽のほとんど全てが月の後ろに隠れ、黒く丸い影になった太陽の周りに僅かな細い光の輪が残るだけになっている。しかし、ただ一点だけは光が漏れて強くしろく輝き、まるで煌めくダイヤモンドをめた指輪のように見えた。


「綺麗…」


 翠の呟きに石黒も頷く。少しクサい台詞と思いながら、神秘的でロマンチックな状況に乗っからせてもらう。今までになく翠に近づけた気がしていた。


「指輪みたいだね。僕も船を降りたらあんなのを君に贈るよ。えぇと…つまり…」


 プロポーズを匂わせるつもりで言い掛けて、急に照れくさくなって、言葉を濁した。


 …まだ早いか。


 次第にダイヤモンドの輝きは小さくなっていき、太陽は光のもやを伴う黒い円になった。

 翠がピタと身を寄せてきたので、少女の仄かな体温が服越しに伝わってくる。細く柔く頼りない身体は理性が崩れ落ちそうなくらいに魅惑的だった。思わず石黒が翠を抱き寄せた時、翠は一瞬驚いたように固まったが抵抗はしなかった。やがて、自ら腕を伸ばして石黒の首を抱き、首筋に顔をうずめた。


 …え…ちょっと…そんなことされたら…


 翠の吐き出した息が石黒の肌をくすぐり、ドキッとなる。しかし、次に翠が言った言葉は行動とは全く違っていた。


「駄目だ、石黒…」


「どうして?僕はこんなに君が好きなのに」


「いや…駄目なんだ」


「僕は君じゃなきゃ駄目なんだ」


 石黒は翠をとらえた腕に力を込める。翠の何とも言えぬ甘い香りはとても抗い難く頭がクラクラする。絶対に翠を諦める気はなかった。出会って数日とはいえ、真っ直ぐに生きる翠に惚れていた。今までになく本気で手に入れたいと思った初めての人だった。


「たとえ、君が白石を好きでも、僕と君が異母兄妹だったとしても、僕は君が好きだ」


「バカ。どっちも違う。それに今言いたいのはそういうことじゃない」


 翠は石黒の腕の中で身をよじり、焦れったそうに否定する。しかし、言葉とは裏腹に翠の手は石黒の髪を優しくまさぐり、愛おしそうに石黒の頬に唇を押し当てた。柔らかな唇がゆっくりと移動し、首筋を、胸元をかすめ、優しくむ。


 …これって…脈アリだよね…?


 石黒は思いきって、翠に問う。


「僕のこと、好き?」


「好きだ!逃げろ、石黒!」


 次の瞬間、首筋にガッと歯を立てられてハッとなった。思わず、翠を突き飛ばす。


 …食人衝動…!


 翠は今までにない敏捷な身のこなしで跳ねると、全く音をさせずにデッキの床に降り立った。


「なんで…」


 噛まれた首に手をやった血はつかなかった。食い破られてはおらず流血はなさそうだ。おそらく歯型はくっきりと残っているだろう。容赦ない力で噛みつかれた。

 油断していたとはいえ、日没にはまだ1時間以上あったはずだ。翠の言動にも妙なところはなかった。


「わ、私…どうして…」


 翠の混乱したような声が聞こえる。どうやら、理性は少し残っているが、行動の方は食人衝動に支配されているらしい。


 …身体能力が上がってる。今逃がすとマズいな。


 さりげなく移動し、出入り口である階段を背にして、翠と対峙する。すでに目は暗がりに慣れて、周囲はうっすら見えているが、翠の表情まではうかがえない。


「翠ちゃん…僕の血、欲しい?」


「欲しい!」


 翠が即答する。血の味を思い出したのか、そわそわと落ち着きがなくなった気配が伝わってきた。


「そっか。血をあげたら…僕と付き合ってくれる?」


 ズボンの尻ポケットから、自分が採血された時に使っていた使用済みの注射針を取り出す。持ち歩ける武器がないので、小さい物ではあったがコッソリとっておいたのが役に立ちそうだった。翠の返事を待つが、翠はこの質問には答えないつもりらしい。


「翠ちゃん、僕のものになってよ」


「断る。お付き合いは取り引きじゃないんだ。告白はシチュエーションを考えろ。それから、もっと気の利いたことを言え、バカ」


 翠は食人鬼化しかけているのに、本能に抗ってキッパリと石黒をフッた。こんな状況でも我を忘れない生真面目な翠らしい言い回しに思わず笑ってしまう。


「さすが翠ちゃん。やっぱり最高だ」


 石黒は袖をくると注射針で左腕を切り裂く。小さく鋭い針の痛みは一瞬だった。直後に飛んできて噛みついた翠の歯の方がよほど痛かった。


「痛っ。ちょっとは手加減してってば。前はエロ可愛く吸ってくれたのに…」


 夢中で左腕をかじる翠のこめかみに頭突きをくらわすと同時に腕を首に回し、絞め技で頸部を圧迫する。翠は頸動脈反射で簡単に落ちて…あっけなく意識を失ってしまった。


 …僕、絞め技って得意なんだよね。気絶するのが趣味の奴と付き合ってた時に散々レクチャーされたからさ。後遺症残らないかとか、いつか傷害致死の犯罪者になっちゃうんじゃないかって、ほんと怖かったけど…


 気絶した翠が意識を取り戻す前に、着ていたジャージを脱がせて素早く後ろ手に縛る。当然というか、残念というか、翠はジャージの下に学校指定のような体操着(上)を着込んでいた。

 翠が手首を動かせないよう、慎重にジャージを捻ったり巻き付けたりしながら、気絶フェチとか緊縛フェチとか、妙な性癖の相手役パートナーを嫌々つとめていたのが、まさか役に立つってこともあるんだなと思う。もはや黒歴史でしかないお付き合いの数々を思い出した石黒はため息をついた。

 石黒が翠を抱き上げて、研究室に戻ろうとした時、微かに人の声が聞こえたような気がして、立ち止まった。


 …クゥアィラァィ?快来さぁ来い?烈か?


渣女クソアマ


 次に発せられた声は怒鳴るような感じの大声だったので、ハッキリと認識できた。間違いなく赤城がいる。急いで声のする方を見下ろすと、2階のプールデッキに人の動く気配があった。


 …烈と…女?


 翠が食人鬼化しているということは、機関制御室に預けていた朱音も予定より早く変化があったのかもしれない。女の子が誰かはわからないが、赤城は歯向かう者には容赦しない。相手の女の子の命が危ない。


「何なんだ、いったい…」


 石黒は恨みがましく、不気味な黒い円になった太陽を睨みつけると、翠を抱えたまま、4階に降りるために階段を目指して駆け出した。

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