第22話 人でなし【機関制御室直通エレベーター】

太好了やった…」


 後ろから後頭部と首の間辺りを鉄パイプでえぐられて絶命した葵衣は、朱音に被さるように崩れ落ちた。葵衣の首から溢れ出した鮮血がジワジワと朱音の茶色いブレザーに濃い色の染みを作り、面積を広げていく。おびただしく流れ出る葵衣の血の放つ胸が悪くなりそうな甘ったるい香りが機関制御室に充満していた。


不要紧吗だいじょうぶか?生きてっか?おい」


「し、死んじゃった…葵衣ちゃんが…」


 ブレザーが血塗れになった朱音は目の前に横たわる鉄パイプが刺さったままの葵衣を見て、真っ青な顔で唇を震わせていた。


「なんで、なんで殺すのよ!酷いよ…人でなし!」


「は?俺はお前を助けてやったんだろうが!」


 カッとなった赤城はパイプを引き抜くと、反対の手で朱音の縛られた腕を掴んで無理やり立たせた。そのまま引きるようにして、乗組員の休憩室に向かう。乱暴にドアを蹴りつけて開け、朱音に室内の血みどろの惨劇の跡を見せる。

 そこには先程見たままの光景…無惨な青山の遺体と血の海が広がっていた。


「あ…青山くんが…」


 室内を目の当たりにした朱音はブルブルと身を震わせ、恐怖の色と涙を浮かべた瞳で赤城を見上げた。怯えるのも無理ない。先程に引き続き、卒倒しなかっただけでも褒めるに値する。


「これ…葵衣ちゃんが…?」


「葵衣は一度も血肉を食らってなかったから認知の歪みが進んでたんだろな。助けを呼ばせないようにずっと猿轡させてたし。俺を噛まれるのは御免だかんな」


 感染初期に同種のタンパク質…つまり、罹患した者は他人の血や肉を取り込み続けなければ、不夜病ウィルスが脳の視床下部に進行し、認知が歪んでいく。感染症研究所でヒトを研究対象としていた茉白に口を割らせたところでは、体質や体格等の個人差によって進行の速いケースが稀にあり、正確な感染時期も不明なので3日目に入るまでに血を口にしていなければ、おそらく認知が大きく歪み、食人鬼化は避けられないだろうと言っていた。食人鬼化した身体は限界を越えて過剰に動き、眠れないまま狂ったように周囲の同種を襲い、同種のタンパク以外は口に出来ず、抵抗されたり反撃されているうちに力尽きて死ぬ。


「お前もアイツの狂った笑いを見たろ?何も訓練されていない女が素手で格闘技経験者の青山を殺すなんて、普通ならあり得ねぇよ。もう手遅れだったってこと。現時点で一度も血を飲んでいない葵衣はワクチンを打っても食人衝動は改善しない。狂笑症が出るまで進行したら食人鬼化は不可逆的なんだとさ」


 朱音は赤城の言葉に反応することなく、青ざめた顔で茫然としている。


「青山は死んだ。エンジンはお前が何とかしろ。部品の修繕や交換はあらかた済んでる。床に出ている部品を所定の位置に戻すだけだ」


「そんな…あたしは…」


「やれ。やれないなら当初の計画通り、お前と要らない奴らを殺して、俺が生き残るまでだ」


 激しい言葉で脅しながらも赤城は実際のところ、朱音を殺す気はなくなっていた。和邇士郎は【期待する生存者は一名のみ】としつつも【他は全員死ね】とは書いていない。しかし、後継者を告げる一枚目の方に【終了時は一若しくは零】と書いてあったのが懸念ではある。


 おそらく和邇士郎の見立てでは、不夜病はDr.天と白石博士が揃っている時点でどうにかなる見込みだったのではないか。操舵室とエンジンも修理不可能な状態ではなく、機械工学専門の技術者が乗っているなら何とかなるという算段だったのかもしれない。ここで、青山を失ったのは大きな痛手だった。

 和邇士郎が子供達に後継者としての力量を試しているというのは本当なのかもしれない。しかし、最後の一人になって生き残っても選ばれない…助けてもらえない可能性があるのなら、自力で船から降りられる方法を見つけておくに越したことはない。


 そして、子供らが十七になるまで待った和邇士郎の目的が、彼の執着してやまない【あの人物】を見返してやりたいということなのはわかっている。勝ちたいのか?それとも手に入れたいのか?どちらにせよ、和邇士郎が欲しいのは一名だけだ。この船の【生存を期待する一名】とは、いったい【どっち】のことを言っているのだろうか?


 ――――【今は亡き優秀な遺伝子】か【その遺伝子を超える自分の作り上げた子供デザイナーベイビー】か…


 和邇士郎が【彼の遺伝子】を欲しているのなら、その人物を人質にして交渉するつもりだった。容姿も頭脳も抜きん出ていて、他と比較にならない。間違えようがない。しかし、和邇士郎が自分自身の代理である我が子を用いて【彼の遺児】に勝利することが望みであるならば…生き延びて選ばれれば、まさに赤城がSANDORAの支配者となれる理想の大団円だ。


「おい、今からここを出て研究室に向かうぞ。俺達は何としてでもワクチンを打たねぇと。研究室なら翠公主プリンセスもいるし、懦夫チキンとはいえ男の白石もいる。味方は多い方が有利だろ。ここにいてお前が食人鬼化して暴れても、食人鬼化した茉白が来ても俺だけでは対処できねぇ。食人鬼は死肉は食わねぇし、葵衣なんかよりも、知恵が回って覚悟もできてる茉白の方がはるかに厄介だ」


「石黒くんは…?」


「待ってられっかよ。日没までまだ間があるってのに何で葵衣が食人鬼化したのかもわかんねぇし、ところでお前は大丈夫なのか?」


 朱音はちょっと考えた後「今のところ、おかしなことはないみたい」と答えた。葵衣と違って、朱音は昨日の朝に草野の血を摂取している。そのことも関係しているのかもしれない。


「船が動くまでは、赤城くんはあたしのこと殺さないんだよね?」


当然了あたりめぇだ。俺がお前を守る」


「わかった。時間ないよ。急ごう、赤城くん」


 朱音は歩こうとして、すぐに転び、「ねぇ、足だけ外してよ」と困ったように言った。


 朱音と赤城が機関制御室のドアを開けると、目の前の廊下には今まで見たことのない静寂と暗闇が広がっている。電力温存のために、停電した廊下は今までに感じたことのない不気味さがあった。


「エレベーターが使えないとなると、2階に上がるには外の避難用タラップで登るしかねぇぞ。2階からはっがい廊下と外れの階段か…隠れ場所も逃げ場も何もねぇな。4階に着くまでに茉白に襲われなきゃいいけど」


「あたし、エレベーターは止めてないよ。移動手段はいると思って」


ナイス!とりあえず、こっから2階までの直通エレベーターは目の前だ」


「2階からは、セレモニーホールのトイレから直通で研究室に行けるよ」


什么なに?あの趣味悪ぃトイレのエレベーターはあの部屋に繋がってたのか?何回も用足ししてたのに全然気づかなかったぜ…」


「あたしもビックリした。トイレ使ってる人がいたら、お互いに気まずいよね。音や匂いも気になるし」


「お前、エレベーターのパスワード知ってんのか?」


「石黒くんから教えてもらった。ほんとは赤城くんには知られたくないんだけど…」


喔喔おおー!」


 朱音のもたらした情報に赤城は思わず声を上げた。ここに来て、今更のようだがツキが巡ってきたことに安堵する。幸運の女神はまだ赤城達を見放してはいないらしい。二人は警戒しながら、2階に通じるエレベーターを目指す。エレベーターの△印のボタンが闇の中で目のように光ってぽっかり浮かび上がって見えた。


「変な船だよね」


 乗り込んだエレベーター内の明かりにホッとしたのか、黙りこくっていた朱音がぽつりと呟いた。


「何が?」


「トイレのエレベーターも変だけど、ここのエレベーターも2階から1階の機関制御室に行くためだけに設置されてる。それもこんなに目立たないように巧妙に隠して設置されてる。水密扉を開けてるとエレベーターへの通路が塞がれるって、何のため?扉を閉めてみなきゃわかんないよね?よく見つけたね」


 それは青山も赤城も思っていたことだった。その水密扉は普段は通路として使うために開きっぱなしで、浸水を食い止める時にのみ閉めるようになっている。しかし、開いた状態では水密扉の裏側にあるエレベーターの通路は扉で隠されてしまう。これは知っている者でないと、見つけることなど不可能に近い。


「最初に機関制御室に青山を案内したのは石黒だ。俺は青山から聞いた」


「石黒くん…?じゃ、石黒くんが見つけたの?そう言えば、トイレのエレベーターも石黒くんが教えてくれた」


「悔しいけど、双子鴉フギンとムニンはスパイとしては超一流だからな。あちこち嗅ぎ回ったんだろ」


「もし、エレベーターを見つけてなければ、エンジンの故障はわからないままだったかも。それに、研究室があるって気づかなかったら、ワクチンは作れない。あたしたち、石黒くんがいなかったら…とっくに詰んでるよ」


「まぁな」


「石黒くんは【みんなで助かる】って言ったの。だから、赤城くん達が怖かったけど、あたしは機関室に戻った。あたしもあたしのできることをしようと思って。赤城くんも殺すんじゃなくて、みんなで助かる方向で考えてくれない?」


「…考えとく。おい、着いたぞ」


 エレベーターの扉が開くと、2階の廊下の壁に並んだ丸い窓からまるで太陽が沈んだ直後のような紺色の空が見える。窓のない1階機関制御室フロアのような真っ暗闇ではなかったが、思いがけない薄暗さが不安を掻き立てる。ちらりと朱音の様子を窺うが、食人鬼化した様子は見られなかった。


 …まだ日没には早いだろが。なんで、こんなに暗い?


 妙に嫌な感じが頭をよぎるが、躊躇する暇はなく、二人は赤い絨毯を敷かれた廊下に踏み出す。幸い、見通しのいい海に面した廊下に人影はなく、セレモニーホールⅡの部屋に無事に辿り着くことができた。

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