唐揚げ

宇山雪丸

唐揚げ

「もう別れよう…?」


不意に彼女が口にしたその言葉には何か不思議な力があった。


先程まで喧騒に包まれていたフードコートが静まり返ったのである。厳密に言えば私一人が孤独な防音室に閉じ込められたかのごとく、周りの音が何も入ってこなくなった。


背中が冷たくなるのを感じる。

私の体は目の玉から足の爪に至るまで、すべて硬直していた。硬直した私の視線は、彼女を捉えて離さない。目をそらしたくてもそらせられない。

私の体は彼女の放った一言で完全に私のものではなくなった。


「私達…付き合ってもう3年目だけど、会うの今日で2回目だよ…?織姫と彦星でももう少し会ってるよ…。メールと電話だけの恋人関係だなんて本当に付き合ってるのかも怪しいし、こんな生活耐えられない…。」


彼女の声が私の鼓膜に飛び込んでくる。

周りの音は拾わないのに、彼女の声だけははっきりと聞こえる。私も口を動かし、声帯を震わそうとする。しかしまったく声が出ない。


「私が別れを切り出しても何も言ってくれないんだね…。サヨナラ。」


声にならない私の言葉たちは、遂に最後まで彼女の鼓膜に届くことはなく、彼女は席を立ち駆け出していった。


私だけがこの空虚な防音室に閉じ込められたままだった。


彼女が立ち去ってどれほど時間がたっただろうか。

ようやく周りの音が徐々に聞こえ始めた。

それと同時に私の視界はようやく自由を取り戻した。


目の前には揚げたての巨大な唐揚げが乗った皿が置かれていた。


私は飛び上がった。

か…唐揚げ!?


私の口から実に数時間ぶりに飛び出したであろう言葉だった。

周りを見渡すと、そこは私が先程まで彼女といたフードコートではなく、どこかの中華料理屋のようだった。


なぜ中華料理屋にいるのか、なぜ唐揚げが目の前に置かれているのか。

私の脳は今目の前に置かれた自分自身の状況を理解するために必死に情報処理をする。


そもそもここはどこなんだ??


メニュー表に書かれた店名に見覚えはない。

あるのは見覚えのある拳ほどの大きさの唐揚げ。


深呼吸をした私は一度状況を整理する。

おそらく別れ話をされた私は茫然自失のまま街を歩き、この中華料理屋に招かれた。そこで無意識に唐揚げを頼んだ、という仮説を立てた。

おそらくこの仮説は正しい。

でなければ目の前の状況を説明することができない。


唯一この仮説で弱点があるとすれば、「無意識に唐揚げを頼んだ」という点だ。


そもそもそのようなことが存在するのだろうか。


これがチャーハンであれば納得せざるを得ない。

ラーメンを頼んだら無意識にチャーハンセットにしてしまうという事は男であれば大いに有り得る。


しかし目の前にあるのは唐揚げである。

しかもライスなどの付け合せもない単品の唐揚げである。

ビールと唐揚げならわかる。

しかしビールは卓上にない。

卓上の隅に置かれた伝票にも「唐揚げ」としか書かれていない。

そんなことが起こり得るのだろうか。


私の脳内に違う仮説が浮かんだ。

店員が勝手に唐揚げを注文したのではないか。

ここの店員は唐揚げを作るのが好きで、お客に強制的に唐揚げを食べさせているのではないか。


しかしこの仮説は一瞬で崩れる。

他のお客さんの席には唐揚げがない。


いよいよ最初の仮説が正しい気がしてきた。

しかし唐揚げ単品で頼むことが果たして起こり得るのだろうか。


その時、私はある仮説を思いついた。

唐揚げが自ら私のもとに来たのではないか。

私に食べられるために唐揚げがやってきた。

そう考えるとすべてが繋がる。


私は唐揚げを見つめた。

お前は私に食べられるためにやってきたんだな。


私は箸を持ち上げ、手を合わせた。

いただきます。

そう呟き食べようとした瞬間、「あのー…」と後ろから声が聞こえた。


振り返ると中年のおじさんが立っていた。


「そこ…私の席です…」


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唐揚げ 宇山雪丸 @douganhoushi

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