夜と毒蛇と詠春拳
其日庵
襤褸を着ても心は錦といきたいものだ。
第1話
そこは市内の失われた区域。
外壁のはがれたビルや、骨組みだけになった住宅が何ブロックもつづく。
ホームレスたちが寝ぐらを求めて引き寄せられ、家出少年たちが密造ウイスキーをあおり飲み、ヘロイン中毒者どもが瘧にかかったように震える手で数時間の天国である小さなパケ袋を購う。
ぼくは、夜を待った。
娼婦が街角にぽつぽつと立ちはじめ、賄賂めあての警官たちがパトロールに回りだすのをじっと待つ。
冷たいコンクリの地べたに腰をおろして壁に背をもたれ、大通りにしだいに人影が増えていくのを眺めていた。
両脚を人形みたいに放り出し、酔っ払いかホームレスかあるいはその両方かのようにだらしなく座っている。
ぼさぼさの蓬髪。
くたびれたジャケット。
お洒落のそれではなく、路上生活でただ傷み穴だらけになったダメージジーンズ。
ホームレスのような、というよりぼくはホームレスそのものである。
道行くひとびとは、ぼくを跨いだり避けたりするためだけに一瞥をくれるが、二度は目を向けない。
加奈子が現れるまでは。
彼女は足をとめた。
ぼくの目の前でしゃがむ。
見下ろさない。
ぼくは加奈子に目線をあげる。
こんな時刻のこんな界隈には似つかわしくない身なり。
健康で、清潔な女性。
「お腹すいてない?」加奈子はいった。
「なんぞ恵んでいただけるんですかい、お姉さん」ぼくはいった。
「こんなホームレスになんぞかまうもんじゃありませんぜ。きょうび見ず知らずの赤の他人に親切したって危険をみるだけでさあ」
「見ず知らずってことはないかな。あなた、
むろん彼女のことは覚えていた。
でも、彼女にはぼくのことを覚えていてほしくなかった。
「――どうか、恥ずかしがらないで」加奈子はいった。
「江島くんは、ちょっと運が悪かっただけなんだよね?」
ぼくがなにも応えないでいると、彼女はつけくわえた。
「だってそうでしょ? 私たち、同じ教育を受けたんだもの――あとは運があるだけじゃない」
ぼくは小さく笑った。
「
彼女も笑った。
「ね、なにかご馳走させてよ。いいでしょ? 江島くん」
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