王太子の教育係
里海慧
第1話 理不尽な世界
いつだって世界は理不尽であふれている。
立場や年齢なんて関係ない。
どんな人間にも平等に理不尽は降り注ぎ、あっという間に幸せな時間も場所も大切な人も簡単に奪っていく。
それがアマリリスの身に起きたのは十二歳の時だった。
アマリリスの両親であるクレバリー侯爵夫妻が不慮の事故で亡くなり、新しい後継者が必要になった。
クレバリー侯爵には双子の男児と女児がひとりいて、いずれも一芸に秀でて教育も十分受けており優秀だ。
だが嫡男テオドールがわずか十四歳の未成年であったため、家督を継ぐことが許されなかった。
祖父母はすでに他界し中継ぎを頼めない。他に頼れる血縁は父の兄であるエイドリックしかいなかった。
しかしエイドリックは、自分より優秀だった弟に家督を譲ったことから、祖父母はもとよりアマリリスの一家を怨んでいた。
「今日からこのクレバリー家の当主は私だ。これからは私の命令が絶対だ、わかったな?」
「はい……承知しました」
エイドリックの憎しみは子供ながらに感じ取れるほどはっきりと表に出ており、双子の兄たちはアマリリスを守るように背中に隠す。
「返事をしたのはひとりだけか? 生意気だな」
その言葉とともに、エイドリックの右手が振り下ろされる。
パアンとなにかが破裂したような音を立てて、次兄のユアンが廊下に崩れた。
「ユアン兄様っ!」
アマリリスは驚いてユアンに寄り添おうとしたところで、頭部に突然痛みが走り、強い力で顔を引き上げられる。
頭頂部の髪の毛を思いっ切り掴まれ、痛みに歪めた目を開くとエイドリックの侮蔑と恨みのこもった琥珀色の瞳が目の前にあった。
「お前も生意気だな。……まあ、女なら使い道はあるか」
「エイドリック伯父様! お願いです、リリスは女の子です!
エイドリックがしがみついてきたテオドールを右手で振り払うと、今度はガンッと大きな音がして十四歳の少年が壁際で倒れ込む。耳を打たれたのか赤くなっていた。
「テオ兄様……!」
アマリリスはこらえきれなくなって、ボロボロと涙をこぼした。頬を伝って落ちる雫が、ユアンの上着を濡らしていく。
「いいか、私の命令は絶対だ。返事は常にイエスしかないと心得ておけ」
「……はい、わかりまし……た」
アマリリスの返答に満足したのか、エイドリックはふんっと鼻を鳴らして手を放し去っていった。その後に続く夫人と従兄妹たちは、蔑むような視線をアマリリスたちに向けてその横を通り過ぎていく。
「うっ……リリス、大丈夫か?」
「大丈夫……それより兄様たちが……」
ユアンは身体を起こして口元ににじんだ血を手の甲で拭った。反対の手でアマリリスの大粒の涙を拭くと、双子の片割れに声をかける。
「テオ、起きろよ。リリスが泣いてる」
「ってー……悪い、ちょっと耳鳴りがひどくて起きれなかった。あー、鼓膜がやられたみたいだ」
「テオ兄様、耳が聞こえないの……?」
とまりかけた涙がアマリリスの琥珀色の瞳からブワッとあふれた。テオドールは困ったように眉を八の字にして、かわいい妹の頬を包み込む。
「大丈夫、反対の耳もあるし聞こえるよ。リリスは? 痛いところはないか?」
「私は兄様たちに比べたら……」
アマリリスの瞳にじわりと真珠のような涙がたまる。慌てたテオドールとユアンは立ち上がり、アマリリスの大好きなお菓子を食べさせようと厨房へ向かった。
ところが、厨房へ入りユアンがお菓子を出してほしいと言うと、突然料理長が頭を下げてきた。
「え……? お菓子が出せないってどういうことだ?」
「それが……旦那様のご命令で、許可なく坊っちゃんたちに与えるなと……」
料理長が申し訳なさそうに、眉尻を下げる。旦那様とは、今日からクレバリー侯爵家の当主になったエイドリックのことだ。当主命令では使用人である料理長にはどうにもできない。
三人は仕方なくアマリリスの部屋に戻った。
自分たちを疎ましく思う伯父が当主となれば、今後はあたりが強くなる一方だろう。
それでもアマリリスにはふたりの心強い兄たちがいる。兄たちがいてくれれば、この苦境も乗り越えられる——そう思っていた。
だが理不尽の嵐はこれだけでおさまらない。
一週間後には長兄のテオドールが、その三日後には次兄のユアンが養子に出された。エイドリックには後継者となる嫡男エミリオがいたからだ。
それからアマリリスの生活はガラリと様子が変わる。
屋敷で一番日当たりのよかった部屋から、使用人でも使わないような物置小屋へ移され、朝から晩まで屋敷の仕事をしろと命じられた。
屋敷中の掃除や庭の手入れも手伝い、計算ができると知られればエイドリックの政務を手伝うように命じられた。
面倒な計算のある帳簿の仕事を任され、アマリリスは屋敷の仕事が終わりエイドリックが就寝してから事務仕事をこなした。
使用人たちはアマリリスを憐れに思い、仕事を軽くしたりこっそりおやつを渡したりして、残された少女を助けた。
誕生日にはささやかだがお祝いもして、笑顔を浮かべるアマリリスに使用人たちは陰ながら涙する。
図書室の鍵を管理している家令のケヴィンはこっそりスペアキーを渡して、本が好きなアマリリスのためにいつでも使えるようにしていた。
兄たちとは離れ離れになったけれど、アマリリスの周りには気にかけてくれる使用人たちがいたから、なんとかやってこれた。
伯父一家からの扱いは年々ひどくなっていくけれど、その分アマリリスの心と身体も成長していく。
大粒の涙をこぼしていた少女は、多少のことでは揺れない鋼の心を手に入れ、図書室で知識を深めた。特に好んで読んだのは、心理学や行動学の本だ。
(この本で学べば、伯父様たちから怒られなくなるかも……そうしたら、ケヴィンの負担が減るかしら? 伯父様たちのご機嫌を取れば、きっと今より働きやすくなるわよね……)
そんな理由だったが、アマリリスは関連する本を読み漁り日々の生活で実践を繰り返した。
母から受け継いだ真紅の髪は咲き誇る薔薇のようで、父親譲りの琥珀の瞳は真実を見抜く。
たとえお仕着せをまとっていても内からあふれ出る気品と知性は隠しきれない。
そんなアマリリスに劣等感を刺激されるエイドリックは、よりアマリリスに厳しく当たった。
「アマリリス! お前の計算が間違っていたぞ! この書類は全部やり直しだ!!」
「……申し訳ありません。すぐにやり直します」
間違っていたのはエイドリックが書き記した数字だったが、そんなことはこの場では関係ない。劣等感の塊であるエイドリックには自尊心を満たすよう、こちらが下手に出るのが正解だ。
アマリリスは命じた仕事をどんどんこなすので、エイドリックの妻であるフランシルも侯爵夫人の仕事を押し付けていた。
茶会の準備やお礼状など面倒なことはすべてアマリリスにやらせて、よく外出している。
ある日、お茶会が終わりフランシルはアマリリスのもとにやってきた。手に持っていた扇子をアマリリスの頬に叩きつける。
「ちょっと! どうしてあの花を用意したのよ! お前は茶会の準備もまともにできないの!?」
「……申し訳ありません」
アマリリスはいつものようにお茶会の準備を整えたが、名簿にないご婦人が飛び入りで参加しアレルギー症状が出たと騒ぎになっていた。
お茶会の最中は姿を見せるなと言われているので、屋敷の仕事をこなしていたアマリリスはそんな騒ぎに気が付くことができず叱責を受けている。
(いつものヒステリーは早々に立ち去るのが一番だわ)
だけど、こんなことは日常茶飯事だ。
アマリリスは「屋敷中の花を差し替えてきます」と言ってその場を離れた。まずはジンジンと痛む頬を冷やそうと厨房へ向かって歩いていると、階段の手前でエミリオが立っている。
「なあ、アマリリス。お前が俺の女になれば、もう少しマシな暮らしができるってわかるだろう?」
「私には婚約者がおりますので遠慮いたします」
アマリリスが成長して女性らしくなるにつれ、エミリオの態度はより不快なものへ変わっていた。舐め回すような視線でアマリリスの肢体を見つめてくる。
「はっ、公爵家のダーレンか。あいつはそのうちロベリアのものになる。だからお前は俺の愛人になればいいんだよ」
「それ以上おっしゃるなら公爵家に助けを求めますわ。公爵夫人は厳しいお方だとご存じですよね?」
ダーレンは格上の公爵家嫡男だから、今のところエミリオはアマリリスに手を出せない。
だからこそ、いつもキッパリと強気な発言で退けていた。ダーレンは頼りにならないが、公爵夫人には可愛がってもらっている。エミリオもそれはわかっているから、こう言えば引き下がるしかない。
文句を言うエミリオを無視して厨房へ入り、赤くなった頬を冷やしながらアマリリスはぼんやりと考えた。
兄たちが屋敷から追い出されて八年経った。三人ともとっくに成人しているが、兄たちが戻ってこないのは幸せに暮らしているからなのか、戻ってくる余裕がないからなのかわからない。
(もういいかな。お兄様たちも戻ってくる気配がないし、伯父様たちの散財で領地の経営状況も改善しない。クレバリー侯爵家には見切りをつけた方がいいかもしれない)
ひとり残されてから、アマリリスはどうにかできないかと必死に努力してきた。
別に侯爵家にこだわりがあるわけではない。ただ両親と兄たちが大切にしていたから、アマリリスも大切にしたかっただけだ。
だから伯父一家がきちんとクレバリー侯爵家を盛り立ててくれるなら、それでもよかった。そうでない場合は爵位を取り戻し、兄たちを迎えにいこうとも考えたが肝心の兄たちとは音信不通だ。
爵位を取り戻すだけなら今のアマリリスだけでもどうにかなるが、女児は家督を継げない。婚約者のダーレンが信頼できればさっさと結婚して奪い返せばいいが、従妹であるロベリアに夢中になっている。
(それなら、今、私がやるべきことは——)
アマリリスは泥舟から逃げ出すべく、思考を巡らせた。
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