Ⅸ.

「どうして……どうしてあんたが!」

 土光門の足先は、金庫室の天井から数センチ浮いた所で止まっていた。彼の背負ったバックパックが放つ赤い光。それは父が作ったあの気球や、たけまる信金を人型変形させたあの金属が、電気を帯びたときに生み出す輝きと、同じ色をしていた。

「お前まさか、それは……ぐっ!」

 目を見開き詰め寄ろうとするダディに土光門が返したのは、無言のまま勝ち誇った笑み、そして銃声と弾丸だった。不意を突かれ、翼を鎧に変化させる間も無く前脚と肩を撃ち抜かれ、倒れ伏すダディ。

「ダディ!」

「そう、ライブロンズだよダディ君。君も優秀だが、息子は輪をかけて優秀なようだ。物分りのいい所が特にね」

 凛子は全身から、さっと血の気が引くのを確かに感じた。ダディの息子、ジョン。まさか彼が、あの笑みの奥にそんな企みを秘めていたとは。

「あの……馬鹿息子が……!」

「なに。君のそれほど便利なものじゃない、自由に空を飛べる程度の、急ごしらえだそうだがね。それでも彼は君達の準備を手伝う裏でこれを作り上げ、私に売ってくれたよ。多少足元を見られたが、ね」

 ぎりと歯を食い縛り、激痛に耐えながら尚も立ち上がろうとするダディ。腰の警棒を抜き放った凛子の足元に、間髪入れず散る凶弾の火花。凛子の足がびくりと固まる。

「上武君も、大人しく敗北を認めた方がいい。勝負は私の勝ちだ、そのコントローラーを寄越したまえ」

 再びダディに照準をぴたりと合わせ、土光門は低く、諭すように凛子に言い渡す。

 まだ、負けるわけには行かない。凛子は左手のプロポを、腰のホルスターに強引に収める。そして最後に残された希望に縋るように、唇を結び、警棒を握る右手の力を懸命に保つ。

「しかし、いい絵が撮れた。まさかの巨大兵器同士による海上大決戦だ、ハリウッドだって仰天だろう。この短期間であそこまで素晴らしいものを作り上げるとは、本当に大したものだよ、君たちは」

 凛子とダディははっと気がつき、空を見上げる。上空高く、土光門が乗っていた戦闘ヘリが滞空している。土光門は戦いを見下ろしながら、その様をしっかりと映像記録としてビデオカメラに収めていたのだ。

「映像と開発サンプルが手元に揃った。君のお父さんの技術には素晴らしい値がつくだろう。今私達の足元にある資金全てを投じたとしても、数十倍は下らない額になって返ってくるさ!」

 狂気の滲んだ笑みを浮かべて語る土光門の傍らに、すとんと降り立つもう一つの影。土光門と同じく赤く光るバックパックを背負った、ジョンだった。

 その姿を目の当たりにして、凛子はようやく真実を理解した。明るい面白黒人だとばかり思い込んでいた彼は、強かな裏切り者だった。悲しさと怒りに満ちた凛子の眼差しが、ジョンを刺す。

「ジョン、あんた……っ!」

「凛子さん、ゴメナサイネ。でも、僕もダディも、早くオカサマーの所へ帰りたいのでス!」

 身を小さく縮めるようにしながら、弱々しい声とたどたどしい言葉で、ジョンは弁明する。

「ダディも! あんなビンボな信金じゃなくて、ツチミカさんとお付き合いしたほうが絶対いいヨ! お金がっぽりだヨ!」

「そういう事かジョン、なるほどな」

 痛みに擦れた声で、ダディは寂しげに、だが何かを納得したような様子で、呟いた。

「テンゴクはこれでもうすぐ直せるヨ……先に行ってるからね、ダディ!」

 済まなそうに目を伏せたまま、ジョンは上空のヘリに向かってゆっくりと上昇して行く。

 小さくなっていくジョンの姿を目で追いかけながら、凛子は必死に考えた。思考した。

 本当に、これで終わりなのだろうか。たけまる信金も、信頼してくれるお客様も、そして父の技術も全て盗まれて、私達は敗北してしまうのか。

 凛子の頭の中を、あらゆる映像が音を立てて巡る。笑顔の父。魚頭や羽村達上司、芳野先輩や同僚達。そして、尚も立ち上がろうとするダディ。

「うわああああああっ!」

 凛子は喉の奥底から叫び声を上げ、警棒を振りかざし、突進する。

 突きつけられた銃口。自分を捉える射線。左足をぐっと踏み込み、軸を逸らし、狙いを外す。連なる銃声。足を踏ん張り、よろめいた重心を強引に前へと運び、さらに駆ける。

 懐に入れば勝てる、勝てるんだ。心を脅かす絶望の闇に必死に抗いながら、凛子は天空の舞台を踏み締め、馳せる。そして渾身の力を込めて、敵の握る銃身を薙ぎ

「そこまでだよ、上武君」

 凛子の警棒を難なくいなす、土光門の左手。落ちた警棒が傾いた足元を転がり、海へと落ちて行く。

 勢い余って倒れこんだ凛子の目の前で、冷たく太陽を映す土光門の銃口。身動きの取れない凛子の身体を、土光門の手が無遠慮に弄る。為すすべも無く奪われる、ライブロンズカーゴのコントローラー。父の愛用のプロポ。

 せめてもの抵抗の終焉。その余りのあっけなさに、凛子の眼に熱い涙が満ちる。

「銀行は金融機関とは言え株式会社だ。では何故、代表取締役は社長と呼ばれず頭取という肩書きなのか、君は知っているかね?」

 こんな時に何を言っているのだろうか。ぼんやりとそう思い見上げた凛子の視界に映ったのは、にたり、と音のするような、理知的な人間の仮面を外した悪人の笑み。

 ぞっと総毛立った凛子の身体を、次の瞬間、重い激痛が襲う。

「戦いとはァ! 敵の頭を取った方が勝ちだって事をォ! 最もよく知り実践した人間の為のォ! 名なんだからなァ!」

 倒れ伏した凛子の脇腹を、一言吼える毎に蹴飛ばしながら、土光門は叫ぶ。

 豹変。唐突に変貌した土光門の様子と口調に、凛子は恐怖し、痛みと屈辱に耐えながら必死に身を縮める。

 声も出せず、何発蹴られたかも忘れた頃に、がくん、と変動した重力が凛子の身体を襲う。

「わ、わあっ!」

 金庫室の隅まで蹴り転がされ、一瞬何も無い空間へと投げ出された凛子の身体。だが反射的に伸ばした凛子の腕が、落下の寸前、天井の縁を辛うじて捉える。

「や、やめろ……彼女は!」

「るせぇ犬ゥ! おネンネしてろァ!」

 唾を撒き散らし激昂しながら、狙いも定めずトリガーを引く土光門。ばら撒かれた弾丸は足元の床を、そしてダディの身体を幾筋も掠める。

「ふうぅ……ま、君もそうだがあの彼も、どうせ地球の生き物じゃないのだろう。せいぜい上手くお付き合いさせてもらうさ、せっかくの〝機会〟なのだからね」

 トリガーから指を離した土光門の、口調だけは僅かに普段のそれを取り戻す。だが、その奥に潜む膨大な狂気は、微塵も揺るぐ気配を見せなかった。

 この男は味方につけたはずのジョンまでも、陥れようというのか。

 手が痛み、軋む。噛み締めた奥歯がぎりと鳴る。

「さあ終わらせようか、上武君。今の君の状況をお父上にお知らせすれば、きっと良い形で商談に応じてくれるだろう」

 プロポを持った片手で、器用に左耳のイヤホンマイクを操作する土光門。やめて、お父さんには。恐怖と嗚咽に震える喉が、凛子の嘆願をあえなく霧散する。

 もう駄目だ。凛子の全身から最後の闘志が消えかけた、その時。


「悪いが貴様の商談は無しだ、ハートマン」


 ダディの低く逞しい声が、土光門の手をぴたりと止めた。

 深々と肩をすくめ、溜息を吐きながら土光門は振り返る。

「ダディ君との取引はもう少し後にしたいのだが……何?」

 土光門の向こう側に見えたその影に、凛子は驚愕し、眼を見開いた。

「ダディ……なの?」

 スマートホンをしまう事も、銃を構える事もせず、土光門は呆然とその敵を見ていた。

 彼に対峙するそのシルエットは、逞しい後脚で地を踏み締めて立つ、戦士の姿。

 紫色の霧状の光子が、ぼんやりとその身を覆っているようにも見える。

 前脚も普段のように、胸の前に垂らしてはいない。武道の達人がごく自然に構えるように、握り拳を腰に当て、背筋を伸ばし、厚い胸板を堂々と張っている。

 光の血管が表面を迸る銀の鎧と、一回り大きくなった体躯をさらに越える長大な翼。それらを同時に携え、ダディは二本のその脚で、この地に立っていたのだ。

「神話の神でも気取るつもりかね、ダディ君」

 苛立たしげな土光門の言葉に、凛子はある神の名を思い出した。アヌビス。古代エジプト神話において冥界を支配する、ジャッカルの頭を持つ半獣の神。かつて見たのは世界史のクイズ番組だったか、歴史の教科書だっただろうか。

「拳で殴らなければわからん奴というのは、やはり居るものでな」

 普段に増して落ち着いた、だが確かにその奥に闘志と怒りを無限に秘めたダディの声が、大気を揺るがして凛子達に届く。

「殴る? ハッ、何様のつもりだ犬ゥ!」

 土光門は吼え猛り、一切の容赦なくトリガーを引く。思わず眼を逸らす凛子。だが銀色の獣神は一歩ずつ、一歩ずつ、銃弾などまるで意に介さぬ様に、近づいて来る。

「何だ……何で平気なんだ、犬ゥてめえ!」

 ダディの身体には傷一つ付かない。鎧が弾丸を弾いている音も無い。直進する鉛玉は、ダディを覆う紫の霧に触れた瞬間、蒸発するように消滅していた。戸惑い焦る土光門の手元で、鳴り続ける銃声と白煙だけが、虚しく風に消えて行く。

「お、おい! この立って歩いてる気味の悪い犬にぶちかませ!」

 イヤホンマイクに声を叩きつけながら、凛子とダディから離れる土光門。上空の青いヘリが機体を傾けながら降下し、浮遊する金庫室にその横腹を向ける。メインローターの劈きが、宙ぶらりんの凛子の身体を煽る。

「ちょ、ちょっと! ダディの事はちゃんと助けてって!」

 開いた側面ドアの向こうで、銃座を構える部下とジョンがもみ合う。ちらり、とダディはそれを見る。そしてすっと片手を挙げると、紫の霧が蛇のように幾筋も伸び、ヘリの胴体に纏わり付く。

 意思持つ蔦が獲物を絡め取るように、紫の霧はヘリをダディの手元へ引き寄せる。投げられたボールをキャッチするように易々と、片手でヘリを受け止め支えるダディ。

「と……頭取! こ、これは! こいつは一体何なんですか!」

「し、知るか! さっさとそのキメェ犬を撃て!」

 銃座にしがみ付くようにして、一心不乱にダディを撃つ敵。M4カービンより大径の筈の弾丸も、やはりダディに届くことは無かった。

「ジョン、降りろ。後で話がある」

「ひ、ヒいっ!」

 敵も弾丸もまるでその眼中に無しとばかりに、息子を貫くダディの視線。その拍子に、ダディのその手が僅かに力を込める。不自然な角度で拘束されたままのヘリの機体が、まるでアルミ箔のようにくしゃりとへし曲がる。急停止するメインローター。歪んだ鉄屑と化したヘリから、慌てて飛び出すジョンと銀行員。ダディはそれを見届けてから、元はヘリだったそれを海へと投げ捨てる。

 空いた片手をダディがもう一度振るうと、紫の霧は凛子の身体を包み込む。誰もが呆気に取られる前で、微細な粒子に持ち上げられた凛子の身体は、再び金庫室の天井に運ばれる。

「ダディが、お、怒ったヨ! 怒ってるヨゥ!」

 身を小さくして頭を抱え、その場にしゃがみこむジョン。

「あの人が怒ると、いつもああなるの?」

「め、滅多にないヨあんなの! ダディがあの形になってあのミサイル使うの、ガチの本気で怒ってる時だけヨ!」

 あのミサイル? ジョンの言葉に凛子は、ダディがこれまでの戦いの中で見せてきた兵器を思い返した。兵器を止める青のマイクロミサイル、人間を止めるナノミサイル。まさかあの紫の霧の正体も、さらに小さなミサイルだと言うのだろうか。

「どうした、これを見ればもっと喜んでもらえるかと思ったのだがね」

「……確かに、素晴らしいよ」

 悠然と一歩、また一歩と迫るダディに、じりじりと追い詰められる土光門。その表情に初めて垣間見える、焦りの色。あまりにあっさりと一転した戦局を、凛子はただ見守る。

「何者なんだ、一体」

「ただの、人の親さ。犬だがね」

 銃口との距離、僅か十数センチ。微塵も恐れる事無く見下ろす銀の獣神に対し、長身のはずの土光門の身体がひどく小さく見える。

「何が望みだ、金なら貴様の息子に散々渡している筈だ」

「私達は強盗だ、そんな事は業務の一環に過ぎんよ」

「……ライブロンズの技術とこの金があれば、お前達の望みは叶うのかも知れんのだぞ」

 足元の金庫にちらりと視線をやる土光門。だが、ダディがそれに釣られる気配は全く無い。

「この金は既に依頼主様の物だ、お前がどうこう出来るものでは……」

「ふざけるな犬ゥ! 手前らにくれてやるくらいならァ!」

 額に青筋を浮かせて土光門は激昂し、手にした銃をダディに投げ付ける。ダディの翼が事も無げに銃を払い退け、視界が塞がるその一瞬。土光門は跳躍して空へと逃げ、高々と掲げたプロポを見せ付ける。そして、

「この星っから、消えっちゃまえやァ!」

 金庫室を制御するつまみを、ぐいと乱暴に捻り上げた。

「きゃあっ!」

「う、うわおっ!」

 空中でがくんと傾き、天空を目指して急加速する金庫室。傾斜になった天井で姿勢を崩し、海へと放り出されるジョン。

「貴様……っ!」

「そら犬ゥ! お客さんと息子さんが宇宙まで飛んでっちまうぜェ! じゃあなァ!」

 プロポを高く放り投げ、土光門はくるりと背を向ける。バックパックを赤く光らせ、本土へ向けて飛んでいく。ダディに唐突に突きつけられる選択肢。プロポに手を伸ばすか、凛子を助けるか、敵を追うべきか。

 襲い掛かる重力の中でも、凛子は必死に眼を見開き、出来る限りの速度で思考を巡らせる。このままでは、負けてしまう。

 今の自分が、今為すべきは何か。凛子は決意した。心に満ちた勇気の炎に、その全身を委ねる事を。

「ダディ、ジョンっ!」

 凛子はその名を声の限りに叫び、金庫室の縁から手を離す。万有引力に身を任せながら、天空へ消えて行く金庫室を駆け、思い切り踏み切り、海へと跳躍する。

 凛子が狙うは唯一つ。落下していくプロポだけを、眼を見開き、腕を伸ばして追い続ける。

「凛子さんっ!」

 インカムに返ってくるジョンの声。バックパックで飛ぶジョンが、海面すれすれでプロポをキャッチし、凛子に向かって渾身のオーバースローで投げ返す。乗算される相対速度。眼前に迫った父のプロポを、恐れる事無く受け止める。

「凛子君!」

 空中でプロポを捕まえた凛子を、獣神ダディが抱き上げる。メインブースト全開。蒼炎の弾丸が海と空とを両断しながら、音速を超えて敵を追う。

「こ、この犬ゥ!」

 背後に迫る敵達に、顔を歪めて脅える土光門。バレルロール、インメルマン・ターン。シザーズ、ブレイク、ベクタードスラスト。最凶最後の敵を追う、音速超過のドッグファイト。

「何なんだァ! てめえら、何だってんだよ!」

 喚き散らす土光門の顔が、ぐんぐんと近づく。

「仕方ないから、教えてやろう!」

 互いを一瞬ちらりと見合い、同時に右の拳を固める凛子とダディ。そして、


「最強の強盗で!」

「最強のお父さん!」


 空の全てに響き渡れと、父と娘は揃って叫び、


「セフトバンク・ダディだ!」


 思いの丈と右の拳を、土光門の顔面に叩き込んだ。

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