Ⅱ.

「お金? たくさんあるでしょう、銀行に。好きに盗っていきなさいよ、もう」

 終着の見えない谷底景気に疲れ切っていた時の日銀総裁は、泥酔状態でインタビュアーに漏らしたその言葉がかくも社会を変えてしまうなどと、欠片も予測出来なかっただろう。

 何に惹かれて悪乗りしたのか、時の各省大臣達の動きは異様な速さを見せた。失言の翌日には改正内容を閣議決定、即日臨時国会を召集し全会一致で成立。小中学校の学級会よりもスムーズに終わってしまうという前例の無い中継放送に、一般視聴者からは普段もこうならいいのにと数多くの好意的な投書が寄せられた。

 一年をおいた後の、四月一日。刑法第二百三十五条、及び二百三十六条条文に、ただ一行の但し書きが加わる。

 刑法第二百三十五条

 他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。

 刑法第二百三十六条

 暴行又は脅迫を用いて他人の財物を強取した者は、強盗の罪とし、五年以上の有期懲役に処する。

 前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。


『但し、相手方が金融を主業務とする企業及び機関である場合適用外とする』


 加えて第二百六十一条器物損壊罪を始めとする様々な法に、金融機関だけを庇護の対象から除く旨が追記されていった。途上国を除き、銀行破りが罪に問われない唯一の国家が誕生した瞬間である。

 まさに冗談の様な法改正に、大小の犯罪組織及び貧困層の人間は敏感に反応した。とりわけ素早く動き出したのは、改正前から大方の国民に予想されていた通り、特亜圏に関連する在日外国人だった。

「ヒャッハァー! 金だカネだ、盗り放題だあ!」

 四月一日、深夜零時を過ぎるや否や、彼らは大小の銀行や信用金庫に徒党を組んで雪崩れ込んだ。秩序と平和とで辛うじて成立していた、善良な国民の経済活動が完全に崩壊した、かのように見えた。

 一方金融庁は、この法改正に対応する為、銀行法や信用金庫法を始めとする様々な所管法令に手を加えていた。この時とりわけ改正や適用対象拡大の対象になったのは、犯罪による収益の移転防止に関する法律、通称ゲートキーパー法である。本来は国内外の犯罪組織によるマネーロンダリングを防止する為の法であったが、強取による直接的な収益の移転も、追加された数々の特例により、やや強引な拡大解釈ではあったが、ゲートキーパー法の対象とされる事となったのだ。

 具体的には、金融機関が自衛の為に物理的武装を認める特例、加えてその業務を民間企業に委託する事を認める特例、及び強取略取を図る相手方に自衛行為により発生する、刑法に抵触する事項諸々を適用外とする特例である。

 金融機関の投資を見込んだセキュリティ・警備関連会社、兵器製造メーカー各社の動きは迅速だった。防衛設備商品をずらりと並べ、自衛業務のアウトソーシングパッケージを数多く用意した。四月一日までの一年間は、金融機関が各支店にまで防衛力を行き渡らせる為に十分な期間だった。

 超大作ゲームの発売日よろしく銀行の前に並んだ強盗の行列を、万端の準備を整えた各金融機関は微塵の遠慮も無く排除する事が出来たのだ。

「今入ってくるヤツは強盗だ! 入って来ねえヤツは良く考えてる強盗だ!」

 国内最大手みずしま銀行では、この日新たに就任した頭取自ら、お客様ロビーで部下をずらりと並べ、高笑いしながら軽機関銃を乱射した。雪崩れ込んだ強盗を弾幕で迎え撃つ光景は、深夜にも関わらず全国的に生放送された。戦争映画顔負けの容赦無い一斉射撃に、みずしま銀行は当時のCMキャッチコピーだった「ハートフル銀行」をもじり、しばらくの間「ハートマン銀行」と揶揄される。それは、法改正に兵力の導入を持って臨んだみずしま銀行の、思い切った決断に対する評価の裏返しでもあった。

『真のエイプリルフール』と呼ばれるこの日より、狙う側の強盗と守る側の金融機関の間に均衡したパワーバランスが成立した。守る側は、防衛に如何なる手段を使っても無罪。盗む側は命を危険に晒す代わりに強取に成功すれば無罪、ただし、改正された箇条以外の刑法は改正前と何ら変わりなく適用される。今回改正の無い傷害罪、殺人罪やそれに係る各条は元より、細かくは往来妨害罪などを強取行為の過程で犯してしまった場合は、しっかりと犯罪者として警察に追われる身となるわけだ。

 余罪を犯す事無く、スマートに現金のみを奪う事。言うなれば強盗でなく怪盗であれば、その金品略取行為を罪に問われる事は無い。全国で大小の強盗団と金融機関の衝突が相次ぐ中、戦力及び防衛力の強化というミクロ規模の軍需とも呼べる新たな需要が生まれ、国内に沸いた奇妙なフロンティアスピリットを温床に成長していったのだ。


「さて、ここならそれなりに安全だろう。たけまる信金のお嬢さん」

 柴犬の声が、凛子はぎゅっと閉じていた目を恐る恐る開いた。

 夢中で翼にしがみ付いている間に意識を失っていたのか、凛子は自らが置かれた状況を理解するのに、数分の時間を要した。白い砂浜と黒い岩場、海の向こう遠くに、細い煙を上げる竹丸島が小さく見える。

「あのう、白糸家様……ここは?」

「詳しくは言えないが、本土と竹丸島の間あたりの小さな島だ。やれやれ、私が言うのも何だろうが、巻き込んでしまって本当に申し訳ない」

 砂浜に尻を落とし姿勢良く座る柴犬は、電話口で応対していた時より砕けた感じでそう話す。やはり皺枯れたクセのある物ながら、何故かとても聞き心地が良かった。端々に見える丁寧な言葉選びも、品の良い耳触りを感じる。凛子は膝の砂を払いながら立ち上がり、改めてその柴犬を見下ろした。

 白糸家と名乗った彼が、そもそも柴犬なのかどうかから、まず凛子は疑う事にした。白い毛並みに丸めの三角形をした耳、稲穂のようにふさふさの尾。灰色のまゆ毛の様な模様の下で、やや釣り目だがつぶらな黒い瞳が、人懐こく凛子を見上げている。

 特別犬種に詳しい訳では無かったが、ここまでは凛子が知っている柴犬の特徴とおおよそ一致していた。だが微妙に大きい。いや、確実に大きい。普通は膝丈くらいをとことこ歩いているイメージの犬だが、その犬の顔は立ち上がった凛子の腰あたりの高さにあった。ドーベルマンがこのくらいの大きさだったろうが、毛並みのボリュームのせいでさらに大きな印象を受ける。

「もう少ししたら、私の息子が迎えに来る。車で船着場までお送りするが、そこから竹丸島までは連絡船を使って戻って欲しい。私がもうひと飛びしてお送りするのもいいが、どうやらまだ暫くは騒がしいようだからね」

「えっと、あのう、息子さんもお犬様なんでしょうか……」

 江戸時代か。凛子は自分自身に小さく突っ込みを入れた。犬は鼻を鳴らして小さく笑った。ついその湿って艶めく鼻を凝視してしまった。

「安心してくれ、息子はあなた方と同じ人間の格好だよ。車もしっかりしたもんだ、私達三人が乗っても楽々足を伸ばして寝られる」

 ……格好? それと、三人? 目を丸くしたままの凛子を前に、犬はさらに話し続ける。

「そうそう、この間通販で新しいコーヒーメーカーを買ったんだ。親御さんや勤め先に一報入れてから、船が出るまで一服するといい。コーヒーは好きかい?」

「い、いえ。普段はあまり……」

「そうかいそうかい。ではせっかくの機会だ、コスタリカのスペシャルティ・コーヒーをご馳走しよう。ウエストバレー産の極上の豆だよ、子供だってブラックで飲める」

 子供時代からそんな飲み方をしていると、こんなしゃがれ声になるのだろうか。犬の人語が既に違和感なく耳に入ってくるのを感じながら、凛子はそんな事をぼんやりと考えていた。正体不明の柴犬が、ぺらぺらと楽しそうにコーヒーを語るこの光景。海外物のホームコメディを見せられているような感覚。ベテラン男性声優が、その茂みの後ろでアテレコでもしているのではないか、凛子の疲れた頭の中を、想像と妄想がくるくると回る。

 そんな凛子の様子を見て、大きな柴犬はまゆ毛と口元を緩めて微笑んだ。確かに微笑んだように、凛子には見えた。

「まあまあ、色々と気になっているお顔をしているが、あまり深く考えないほうがいい。世の中全ての事に、必ずしも理由が存在するわけではないさ」

 何と返せばいいものかと凛子が逡巡しているうちに、陸側の舗装道路からクラクションが鳴り響く。

「お、来たな。あれだよ、」

 見ればそこには、軽トラと救急車の合いの子のような一台の白い車。引き戸のついた四角い後部車両から大小の金属柱が伸びていて、放送局が中継に使うアンテナカーのようにも見える。

 柴犬は右耳のあたりを前脚でちょいちょいと掻くと、唐突に一人話し始めた。

「ああ、ジョン。お客様だ、中は片付いているか? ……ああ、それは仕方ない。ワケあって、年頃のお嬢さんを港までお送りする事になってな……ああ、よろしく」

 おそらくあの車の中にいるジョンとやらと話しているのだろう。凛子はそう気付いた。ジョン? また犬?

 成り行きが成り行きとは言え、初対面の方々に気を遣わせてしまう事に、凛子は一応頭を下げる。

「す、すみません。なんだかご面倒をお掛けして」

「いやいや、それはこちらの台詞だよ。お互い仕事とは言え、こんな風にご迷惑をお掛けしてしまったのは本当に申し訳ない」

 さ、行こうか。柴犬に顎でくいと示されるまま、凛子は歩き出した。

「しかし肝の据わったお嬢さんだ、ブシドーでも嗜んでいたのかね? えっと……」

「ブシ……いえ、剣道を少し。凛子です、上武凛子。」

 何のことかと凛子は思ったが、素直に答えて彼女は名乗る。

「なるほど、道理で手強いわけだ。私は白糸ダンディライ夫、家族にはダディと呼ばれている。よろしく、凛子君」

 その名前を聞いた時、凛子は彼についての余りある突っ込み所を気にする事に、ようやく諦めがついた。


「ダディ! 無事だったんだね、良かった!」

「してやられたよ、ジョン。横槍を入れてきた攻撃ヘリはメイド・イン・チャイナだった、大方KDGIあたりだろう」

 四角い後部車両から顔を出したのは、凛子の予想と異なり、しっかり人間の外見をしていた。医者か研究員の様な白衣を着た、ひょろりと背の高いメガネの黒人男性。

「こいつが息子だ、白糸ジョナ太。ジョンと呼んでやってくれ」

 ダディに紹介されたその男は、何故か眉をハの字に曲げたまま、凛子ににかっと笑顔を見せた。

「やあ、どうも! ダディのお世話がなっておりマス、ジョンです!」

 元気に名乗って勢い良く手を差し出す。骨っぽい輪郭に常にハの字の細い眉。そして明らかに使い込みの足らない言語。ああこいつ面白黒人枠だ。凛子は直感的にそう悟った。

「う、上武凛子です。えっと……お世話になります」

 一度その手をじっと見つめてから、恐る恐る握手を返す凛子。実は手だけでも肉球だったりしないだろうかと、凛子は内心期待していた。だが残念ながら、掌側だけはやけに白い、ごく一般的な黒人男性の手だった。

 窓の無い後部車両の中は暗かった。何かの機械のモニターや操作盤が放つ色とりどりの光を頼りに、凛子は辛うじて横長の座席へ辿りついた。

「取り得は機械いじりと自宅警備くらいしかない不肖の息子だが、根は悪いやつでは無いはずだ……ジョン、船は何時だかわかるか」

 ダディはさすがに勝手知ったる様子で、凛子の隣にひょいと飛び乗った。悠々と膝を追って身体を横たえ、自分の居場所とばかりに身を落ち着けた。

「イエス、もうすぐだよ! 明後日は夕方だね!」

「……今日は?」

「ノー、今日はおしまいです! はははっ、もう無いね!」

 凛子は思わずダディと顔を見合わせる。悪気の無い空気の読めなさは、中々厄介なものだった。根は悪いやつでは無いはずだ。ダディの一言の意味する所を、凛子はさっそく理解できた気がした。

「さ、さすがに明後日では困るんですけど」

「大丈夫! 僕はダディと外でも寝た事はあるのよ!」

 困惑をごまかし切れない凛子に、ノープロブレムとばかりにひらひらと手を振って笑うジョン。

「……止むを得ん。一服したら、もうひと飛びするとしよう。申し訳無いが凛子君、それでいいかい?」

 こくりと頷く凛子を見ると、ダディはとすんと床へ降りとことこと歩く。謎の機材に挟まれた狭い通路の先には、黒とシルバーのオーソドックスなコーヒーメーカーがあった。

 この間に魚頭さんに連絡を、と凛子は思い立ったが、ふと自分が携帯電話をロッカーに置いたままである事に気付いた。たけまる信金は無事だろうか。

「えっと、ジョンさん。電話をお借りしてもいいですか?」

「ノーウ、さん付けする時は『ジョナさん』! そっちの方が黒人ぽいよね、んじゃなきゃ『ジョン』がいいよね! はいよ、電話!」

 差し出された受話器を引っ手繰りながら、うわあこいつ面倒くさいわと心底思う凛子。仮にダディとジョンが本当に親子だったとして、ならば母親はどんなに厄介な存在なのだろうと想像するも、姿かたちが全く浮かんでこない。

 凛子はダイヤルする手をふと止め、ジョンに尋ねる。

「あのう、ジョンさん。あなたの」

「『ジョナさん』!」

「あなたのお母様って、そのう、具体的な形状としてどんな方なんですか?」

 遠まわしに尋ねようとし過ぎて逆にド直球な質問になってしまっている事に、凛子は言ってしまってから気が付く。だがうろたえない。この手の輩には完全スルーの姿勢を見せ付け、こちらが訊くべき事だけ訊く方が良い。絶対にペースに巻き込まれないという事をわからせてやる必要があると、凛子は接客業務を通して学んで来たのだ。

 そんな凛子にもお構いなく、ジョンは真っ白い歯をきらりと覗かせた笑顔そのままに、さらりと答える。

「オカサマーは今もテンゴクだよ! ジョンとダディがお金をウィッぱい集めてテンゴクに行くの、待ってるのヨ!」

「ジョン、余計な事は言わないでいい」

 僅かに強い語気でダディが制止すると、ジョンは途端にしゅんと小さくなって押し黙ってしまった。

 お母様が、天国。ダディの溜息が、やけに大きく聞こえた気がした。知らずに尋ねた事とは言え、凛子の胸に苦い気まずさが満ちる。彼の手元のコーヒーメーカーも、蒸気の溜息をぼふっと吹く。

「あの、ジョンさん……ごめんなさい」

「凛子君、君が気に病む事は無い。惑星間航行機『テンゴク』の修理の為に、我々には現金が必要なだけなんだ」

 気に病む必要が全くない事は、凛子は瞬時に理解出来た。だが同時に、その言葉を聞いた者であれば誰もが気にかかるであろう問題点が、別途幾つも発生した。

「……はい?」

 ダディは前脚でこめかみらしき箇所を押さえながら、やれやれと首を振り口を開く。

「ざっくりと説明するならば、だ。我々は君らの言う所の『宇宙人』というやつで、墜落した惑星間航行機『テンゴク』を直して故郷の星に帰る為に、こうして強盗事業で現金をかき集めているというわけだ」

 つらつらと、だがしかしひどく簡潔にわかりやすく、ダディは凛子に自分達の正体を明かした。そう、明かしてしまったのだ。

 ダディは両の前脚でポットを器用に持ち上げ、三つ並んだ白いコーヒーカップに傾ける。とくとくと注がれるつややかな黒い液体に、凛子はぼうっと見入っている。見入りながら、ダディの言葉に生まれた自分の感情をどうまとめるべきか、考えている。

 宇宙人が、地球外生命体が、私の勤める信用金庫に、強盗に入ったという事?

 私はここで、こんな事をしていていいのだろうか。でも、何をどうするべきなのだろうか。

 考えた結果、口に出せる言葉はただ一つだった。

「……はあ」

「ほう、さすがだ。あまり驚かんね」

 ダディは感嘆しながら、後ろ足だけでちょんちょんと歩いてこちらへ戻ってきた。

「いや、まあ驚いてます。ええ、びっくりですよ、ええ……」

 コーヒーのなみなみ注がれたカップを右前脚で、小洒落たソーサーを左前脚で器用に押さえながら渡してくる、人語を解する柴犬。その光景と存在だけでも十二分に驚嘆できるというのに、この上宇宙人だなどという告白をされても、もはやそれは詰め込み過ぎなんじゃないかとまで凛子には思えたのだ。

「なんか、もっと手っ取り早い方法もありそうな気がしないでも無いんですが」

「郷に入れば郷に従えと言うだろう? とは言え、やれやれだ。我々がよそ者である事は、無闇に知られたくは無かったんだがねえ……」

 眉間に皺を寄せ、さも重大な秘密を知られてしまったという空気を醸し出しながら、ダディはコーヒーを苦そうにすする。

 ただ、このネタばらしをせざるを得なくなったのは完全にダディ自身のせいだと、凛子はしっかり判っていた。彼が余計な事を喋らなければ、今も凛子はこの二人の事を、天国のお母さんを思いながら商売に精を出す健気な親子なのだと思ったままでいられただろうに。

「いや、まあ、特に誰かに言うつもりは無いんで、ご心配なく……あ、電話お借りしますねダディさん」

「ああ、ダディでかまわんよ。ダディで」

 いちいち呼び方に拘るところなど、確かに親子という所は真実らしい。凛子はくすりと小さく笑いながら、たけまる信金の窓口電話番号をプッシュする。


「お電話ありがとうございます、たけまる信金お客様窓口の芳野が承ります」

 無事に繋がるかどうか少し不安だったが、二度のコール音の後、耳慣れた女性の声が対応する。

「お疲れ様です。上武です!」

「ああっ、凛子ちゃん! 大丈夫なの、無事なの? 犬に攫われたって聞いたけど、今どこなの? 人質なの? 身代金要求は違法よ、相手それわかってるの? ねえ、大丈夫なの?」

凄まじい勢いで質問をぶつけてくる芳野に、凛子はたじろく。心配して言ってくれているのはありがたいのだが、もう少しこちらにも答える余裕を頂けるともっとありがたい。凛子は芳野の言葉の隙間に、ええ、ええ、と返事を返すのが精一杯だ。

「えっと、大丈夫です。ご心配おかけして……あの、そちらの状況はどうでしょう。ヘリが出てきた所までは記憶にあるんですが……」

「ああ、まあ割りと平気よ、こっちは。白兵戦になっちゃえば理事長達の鬼強っぷりは、凛子ちゃんも十分知ってるでしょ?」

 ああなるほど、と合点がいった。

 竹丸島の住民にはかつて都落ちしてきた武家の子孫が多く、役所や歴史ある企業には大抵、並々ならぬ武道の心得を持つ人間が一人二人は籍を置いているという。

 たけまる信金は特に、理事長を始めとする役員たちのほとんどが、何かしらの武術の道場と深く関わる人間だったという。歳を経て尚壮健。他の金融機関と比べて資金力と設備に劣るたけまる信金だったが、その比類なき防衛力は事実、そうした人々の底力に支えられているのだった。

「そうですか、ともかく良かったです。あの、魚頭支店長お願いしていいですか?」

 はいはい、と芳野が保留ボタンを押す。内線呼び出しの間に単音の電子音が奏でる『エリーゼの為に』が、やけに新鮮に聞こえる。いつもお客様は、これを聞かされながら待っているのか。

「おお、凛ちゃ……う、上武君! 心配したよ、無事だったんだな!」

 魚頭支店長が凛子をわざわざ苗字で呼び改める。ほんの小さなものだったが、凛子はわざと咳払いをして聞かせる。

 凛子にとっても彼は、元々幼い頃から自分を知る近所の優しい小父さんだった。気恥ずかしいだろうからと魚頭は自分から呼び方を改めてくれたが、それでも時折『凛ちゃん』とついつい口走ってしまうようだ。

 凛子は彼の気遣いを十分に察しているつもりだった。周囲に変な誤解さえさせなければ、いちいち呼び直させる必要も無いだろう。そう思っていた。

「すみません、ご心配おかけして。被害、あんまり無かったとか」

「来たのはまたKDGIだ、防弾チョッキにでっかく書いてあったしな。名乗りもせずにヘリ降下突入を仕掛けて来たんだが、防衛設備ばかり一生懸命相手にしていたようだ。監査の曳田役員達が追い返したから、盗られたものは無かったがね」

 思い溜息を挟みながらそう話す魚頭。凛子はちらりとダディを見やる。確か、先程彼が口走ったのもその社名だった筈だ。KDGI。

「相変わらず頼もしいですね、役員の皆さん」

「お陰で今回も、人的被害はほとんどゼロ。ただ、白糸家さんに大破させられた砲台以外にも、内部設備などには結構な痛手を負わされた。今本格的に攻め込まれたらちょっと厳しいな」

 凛子もそれに同意し、頷く。あの青い光の攻撃で高射砲を潰され、現在のたけまる信金の防空能力はゼロに等しい事は、凛子も十分に理解していた。

 KDGIのヘリ部隊は、たけまる信金の高射砲をダディが無力化するのを待って現れた。攻撃に晒された屋上から退避する時のダディの口ぶりからして、知らず彼は当て馬に使われたのだろう。凛子はそう推測する。

「上武君、その白糸家さんに連れて行かれたかもって芳野君から聞いたんだが。ひょっとして、今一緒なのかい?」

「ええ。ヘリの攻撃で屋上の階段をやられて、降りれなくなっちゃって、それで。一応私の事を、助けてくれたみたいです」

「なるほどね、随分と紳士的な強盗さんだ」

 良ければ代わってくれるかな、と魚頭に言われるまま、凛子はダディに受話器を手渡す。どう見ても物理的に把持していないはずなのに、受話器はダディの肉球にぴたりとくっついて落ちない。

「お電話代わりました、白糸家です」

 ええ、ええ、どうもと頷きながら自分の上司と普通に会話しているダディ。営利目的の誘拐ではない事をダディは弁明し、魚頭はおそらく快く承知したのだろう。受話器越しの会話の端々を捉えて、凛子は察する事ができた。

 銀行と強盗、そして家族の様な知人と宇宙人。やれやれ、一体これはどういうSFかしらね。凛子は温かなコーヒーの香りをゆっくりと味わいながら、これ以上無い程に珍妙なその構図を眺めていた。

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