セフトバンク・ダディ

トオノキョウジ

Ⅰ.

 強盗襲来のアラームが鳴った場合、自分たち預金為替窓口係がまず何をするべきなのか。上武凛子うえたけりんこはよく解っている。そう、変形だ。

 ロビーに残っていた数人のお客様を、今年唯一の新入職員である若い男子職員が地下の接客室に案内する。浮き足立つ渉外係や融資担当の中年男性達を尻目に、凛子以外の女子職員達は各自さっとデスクにつく。

「またあいつらかな……上武君、頼んだよ」

「わかりました、支店長。たけまる信金、メガバンクモードへシフト!」

 落ち着き払った魚頭うおず支店長の承認の合図。たけまる信用金庫中町支店勤務三年目、預金為替窓口兼強盗迎撃機構第三砲撃手上武凛子は、窓口係の女子職員達と共に頷く。凛子と同じく砲撃手である左右の同僚達と目配せし、デスクの下の赤いレバーを引いた。

 都心からの距離、五百キロ弱。沖合いにぽつりと浮かぶ竹丸島の金融機関、それがこの『たけまる信用金庫』だった。創立百二十年、出資金十三億四千万円。常勤役職員数四十二名を擁するこの本店は、鉄筋造り百ミリ装甲の三階建て。お客様待合ロビーを赤いランプと警報が染める。

 一階は窓口とATM。二階は投資信託相談室を中心に、計十六門の対地機関砲が四方に口を開く。重役室のある三階に身を潜めた八基の隠顕式対空高射砲が、屋上のシャッターから顔を出す。

「電探、キャッチしました。恐ろしく小さい対地戦闘攻撃機……一機のみです!」

 伝票処理端末モニター上のレーダーで、索敵を終えた事務オペレーター桐原が叫ぶ。僅かにざわつく窓口係。そこへ突如鳴り響いた外線電話。いち早く受話器を取り上げたのは凛子だった。

「お電話ありがとうございます、たけまる信用金庫です。恐れ入りますが、当金庫はただ今防犯の為……」

「お世話になります、白糸家しらいとけです」

 ややしゃがれた、だがひどく落ち着いた口調の男性の声が、電話応対のテンプレートを断ち切った。凛子は息を飲む。とうとう来た。

「来ました、白糸家です」凛子は受話器を手で押さえて、魚頭達に手早くその名を伝える。零細ながら、大銀行からの現金強奪をいくつも成功させ、最近急激にその知名度を上げている強盗企業。

 凛子は小さく深呼吸をした。彼女は入庫以来窓口係として、何度か強盗会社への対応を経験していた。相手の要求を聞いた上で、応じる義務も予定も無い旨を伝える。相手が退く姿勢を見せなければ、その時点より相手に対する攻撃についての正当防衛が成立するのだ。

「はい、お世話になっております。本日はどのようなご用件でしょう」

「唐突ですが、取り急ぎ現金三千万円の用立てをお願いします。出来るだけ持ち運びのし易いものに入れておいて頂けると助かります」

 おや、と凛子はいぶかしむ。ジャイアントキリングで話題沸騰中の名立たる強盗にしては、ひどく控えめな額に思えた。

「ご融資以外のお話でしたらば、大変恐れ入りますがご用意致しかねます。私どもは既に、貴社に対する『ご商談』の準備を済ませております。お引取り頂けませんでしょうか」

「あまりお手間を取らせたくは無い。お話だけで済むなら、こちらとしてはその方が望ましいんです。聞いては頂けませんか」

「恐れ入りますが、御社のご希望を私どもが受けてしまいますと、他のお客様にご迷惑やご心配をお掛けする恐れがございます。速やかにご退店頂けませんでしょうか」

 自分の唇が思ったよりもスムーズに動いた事に、我ながら凛子は感心していた。緊張はしているが混乱は無い。これが慣れのせいか、それとも相手がやけに紳士的な口ぶりだから、それに釣られでもしているのか。

 だが、あくまで先方は要求を曲げるつもりが無いようだった。

「やれやれ、ご面倒をおかけする事になってしまいます。ですが、当方も残念ながら手ぶらで帰る訳には行きませんので。では」

 向こうからぷつり、と通話を切られた。凛子も受話器を置き立ち上がり、見守る従業員達を振り返る。

「先方『白糸家』様のご要求は現金三千万円。現時刻よりお客様の強行突入に対し、対地対空迎撃戦を展開します!」

「了解!」

「了解!」

 大仰な手振りを加えて開戦を宣告し、事務員達の士気を煽る凛子。揃いの紺のパンツスーツ、ホルスターに納まった警棒。従来の信用金庫女子職員のイメージを崩さないままアクティブな戦闘に耐えられるよう作られた、今年からの新しい制服だ。

「竹丸港通り側の対地砲担当は、周辺に再度警戒アナウンスを! 内陸側一から三番対空機関砲は、セーフティアングルを設定して自動照準動作で待機、海側三番四番の高射砲は私と芳野先輩が入ります!」

 てきぱきと指示をしながら、凛子は自分のデスクに再びつく。社内無線インカムを耳にかけ、マウスを滑らせ、端末のモニターに社内グループウェアの迎撃機構制御ウィンドウを開く。

 勤務三年目。まだまだ新人に等しい凛子だったが、強盗対応の実務については実質彼女が指揮を取っているようなものだ。かつて彼女は入庫三日目、潜入した強盗数人を警棒一本で叩きのめして見せた事がある。幼い頃から剣道で身につけたその実力と胆力は、上司同僚関わらず高く頼もしく評価されていた。

 試合に挑む経験の中で培ってきた精神力や思考は、入庫時に手渡された対銀行強盗戦マニュアルの知識をよく活かした。孤島の端で山と海に守られる地の利もあって、たけまる信金の防衛力向上は顧客の信頼にすぐに繋がっていった。

「敵機、海側から竹丸港通り側へ迂回しながら徐々に接近してきます! 距離七千、高射砲有効射程内に入ります!」

「五千に入るまで射撃待って! 桐原さん、周辺の最終安全確認してから敵兵力確認、フレア展開準備! 関さんは屋上兵器庫で地対空誘導弾での迎撃準備、お願いします! 必ずツーマンセルで、手の空いてる営業さんを使って下さい!」

「わ、わかりました!」

「了解!」

 緊迫した空気の中で、自らの持ち場へと駆け出し、あるいはひっきりなしにキーを叩きマウスを走らせる、たけまる信金のOL達。凛子自らもパンプスの具合をとんとんと直し、デスクを離れる。

 そして凛子は最後に、

「敵は一機です。月末も近い事ですし、十四時までにお引取り願いましょう! 宜しくお願いします!」

 と頭を下げ、返事も待たずに走り出す。士気十分な返事を背に、凛子は二つ年上の芳野と共に階段を駆け上がった。


「関さん! 地対空誘導弾装填、標的をロックし発射体勢で待って!」

 くたびれた背広の男性職員たちがいかつい兵器、携行型地対空誘導ミサイル「ハンドアロー」を重そうに肩に担ぐ。彼らにはそれぞれ一人ずつ、砲身を支える女子職員が随伴している。

「白糸家、本当にあの一機しか来ていないと云うの?」

「ええ。業務遂行スピードも異常に早いと聞いていますから、ピンポイント爆撃と同時に強行突入くらいは仕掛けてくるかと思ったのですが……海洋側、内陸側にも援軍らしき反応はありません」

 屋上に上がった凛子は、自らも用意したハンドアローのHUDを、双眼鏡代わりに覗き込む。

 敵は青空を背にただ一機、大きく迂回しながらではあるが、確実にこちらとの距離を詰めている。胴に対して異様に大きな翼を持つそれは、グライダーにも戦闘機にも見える。

 だが小さい。それは殊の外小さかった。電探の距離と自分の視覚を信じるとすれば、人ひとりなんとか滑空できるようなハンググライダー程度の大きさにしか見えないのだ。

「あれが斥候で本隊はステルス、という線もまだ消せないわね……桐原さん、低周波電探は?」

「反応なしです。現状、高空を旋回中のあの一機のみしか認知できません」

 インカム越しの電探担当の声も、明らかに戸惑っている。たかだか地方の信金とは言え、今まで襲撃してきた強盗はそれなりの規模を有する集団ばかりだった。かつて凛子達がお引取り願いの対応をしてきた強盗集団の中には、本土から戦闘爆撃機数機での戦術爆撃を強行してきた強盗企業もいれば、一個小隊相当の空挺部隊でエアボーンを仕掛けてきた、陸上自衛隊出身者ばかりのプロ強盗集団もいた。

 それらに比して今回の敵は、現在のところ小さなグライダー機ただ一機。それも、噂に聞く新鋭強盗会社が通告をしてきたというのにだ。凛子は少し拍子抜けする思いだった。

「芳野先輩、こちらから威嚇して様子を見ます。お帰り頂けるならそれで良しです」

 芳野と頷きあった凛子はむき出しの銃座に着く。モノクロ液晶の火器管制パネルを操作し、直接被害を与える近接信管弾から威嚇の為の時限信管弾に切り替える。今年度に入ってからも防衛費はかさむ一方だと、魚頭支店長も頭を悩ませていた。出来る限り穏便に、リーズナブルに済むならばそれに越したことは無い。

「関さん、営業の皆さん! 威嚇射撃後のお客様の挙動に注意して、お帰りにならないようでしたら全力で防衛に当たってください」

 HUDを覗き込み敵機から目を離さぬまま、凛子は声を上げる。背後の空気が張り詰めるのを感じる。砲口がきりきりと空を見上げる。左手のハンドルで砲台旋回、右手のレバーで砲口の微調整。敵機進路に照準を置き、吸った息を止め、トリガーを引く!

 轟音と衝撃、びくりと震動。間髪入れず芳野の砲台も火を噴く。遠い空高く黒煙がぱっと散る。凛子は照準器から目を離さない。固唾を呑んで敵機の挙動を見守っていた、その時。

「敵機、こちらへ回頭して加速! 来ます!」

 インカムの耳を桐原の声が打つ。走る戦慄。

「総員迎撃! 第一から第三対空機関砲射撃開始、近寄らせないで!」

 背後の職員達が武器を慌しく構えなおす。

「敵機からミサイルと思われる小型熱源、二! う、海側フレア展開します!」

 外壁シャッターが口を開け、無数の光弾が篭った音を立てて吐き出される。もうもうと舞い上がった白い煙が、たけまる信金を包み込む。

 凛子は弾薬を近接信管に戻し、再びHUDを覗き込む。対空機関砲から吐き出される天然素材20ミリ弾が、けたたましい音を刻みながら空を走る。トリガーを引き続ける凛子。切り揉み飛行で砲弾を避けながら迫る敵機を、分間二十発で速射される炸裂弾で粉と砕く、はずだった。

 新体操の競技リボンか、或いは多頭の蛇かのように。青い光の帯が天空を踊りながら襲い来るのを、凛子は見た。ミサイル? あれが?

 ぞわり、と凛子の背筋を何かが撫でた。

「芳野先輩、離れて!」

 凛子は叫ぶと同時に銃座から飛び出す。芳野も遅れて銃座を離れる。振り返った凛子の目に入ったのは、高射砲の砲身を今まさに直撃しようとしている青い光の帯。それは正しくは光線ではなく、残光を振りまきながら飛来した銀色の弾丸、もしくは確かにマイクロミサイルのようにも見えた。

 爆発は起きなかった。それの先端が刺さった砲身は、接合点から瞬く間に赤く融解し始めたのだ。

「なに、これ……!?」

「敵機距離四千、高度千五百に接近! 新たに熱源、三!」

 飴細工のようにゆっくりと崩れ落ちていく高射砲を前にしながら、呆然とする間も無かった。凛子の視界の隅に走る新たな光の帯。くねくねと、何かを探すような挙動を見せながらこちらに迫る、銀のマイクロミサイル。凛子は思考を巡らせる。さっきのが三つ。山側の対空砲もやられる!

「ふぁ、ファイヤア!」

 裏返った声を上げて真っ先にハンドアローを撃ったのは、丸い体の壮年男性、法人営業課長の渡辺。傍らのお客様窓口係の新人たちに長い砲筒を両手で固定させ、他の営業課男性陣も続けざまに地対空誘導弾を放つ。白煙の火線を、数学記号を並べるような小刻みなマニューバで回避する敵機。凛子の目は僅かの間、その航空機では実現し得ない不可思議で鮮やかな挙動に囚われる。

 ぎん、がん、と衝突音を響かせて、青い光が山側の対空砲を正確に刺す。砲身から銃座まで見る見るうちに赤黒く溶け、原型を失う機関砲。今までのどんな強盗企業も、こんな兵器を使って来た事は無かった。敵機は尚も青い光を撒き散らす。不規則に空を這い回り迫るそれを、凛子は素早く目算する。その数五発。理解した。

「屋上高射砲すべて中破! 敵機距離三千、高度千さらに小型熱源……!」

「全員、ハンドアローを棄てて退避! すぐ!」

 コンクリートタイルの上にがちゃがちゃと兵器を捨て、蜘蛛の子を散らすように離れる営業課男性陣。職員達が頭を庇いながら逃げ惑う中、凛子はただ一人青い光の蠢きをきっと見据える。

 がん、がすん! それは凛子の予想通り、打ち棄てられたハンドアローの砲身に突き刺さった。どういう理屈かわからないが、やはり射撃を行った火器の位置を正確にサーチし、着弾する兵器のようだ。どろりと溶けるそれと呆然とする仲間達を見て、凛子は再びはっと気付き見上げる。しまった、気付いた事に気付かれた。

「敵機、たけまる信金直上! 高度千、尚も急降下中!」

「対人装備を持たない者は屋内へ退避! 1Fロビー閉鎖! 白兵戦用意を!」

 凛子がインカムに声を叩きつけると同時に、鋭角に急転回し切り込んで来る敵機。凛子は腰の警棒に手を添える。機関拳銃MP5を携えて来た芳野達女子職員数人と共に、殿を務めて屋内への階段をその背に守る。

「敵機、来ます!」

 減速する気配も見せず、それは天から突き刺さるように、凛子の眼前に降り立った。


 敵の正体を覆い隠す銀の主翼が、するすると折り畳まれて消えたその時。

 そこに立っている侵入者の姿に、凛子は言葉を失った。

「……犬?」

 己の目が見た敵の姿そのままを現したその一言だけが、ぽつりと凛子の口を衝いて出た。

 そう、そこにいたのは他でもない、一匹の白い柴犬だったのだ。


「先程お電話致しました、白糸家の者ですが」

「あ、ああ……普通にお話しになられるんですか、そうですか」

 僅かにノイズの入り混じった、明らかにスピーカーから発せられている音声ではあったが、そのテンポもイントネーションも柴犬の流麗な口パクに完全に追従していた。眼前のそれが喋っているのだと、凛子は思うしかなかったのだ。

 ごく普通の上品な、毛並みのいい白い柴犬に見えた。構造不明の銀色のバックパックと、体の所々に見える同じく銀色のプロテクター。そして、柴犬にしては一回り以上に大きな体躯。それらを除いては。

「そちらの防衛兵装は既に無力化しました。どうです? ここはひとつ現金の方、素直に用意しては頂けないものでしょうか」

 その犬はよく練られた、自信に満ち溢れた中年男性の声と口調で、降伏を促した。挑発だとは凛子は感じなかった。その犬は本当に勝利を確信しているのだ。この先庫内にどんな警備が待ち構えていようと、障害にすらならない。明らかにそう考えている表情だった。少なくとも凛子にはそう見えた。

 実際火器を交えた直後にも関わらず、輝かしいまでの白い毛並みに煤汚れは一つも無かった。高射砲の炸裂弾破片すら、その犬にはかすりもしなかったという事だ。

「お、恐れ入りますがお客様。ご融資の話でしたら改めて窓口の方へお越しの上、正規のお手続きをお取り頂きたいのですが」

「少し急ぎで入り用なのですがね、さらに言えば真っ当にお返しができる当ても、恥ずかしながら当分無い。そちらの資金力を鑑みた上で、あまりご迷惑でない額をお願いしているつもりです。何とか……」

 紳士的な犬の言い分を遮ったのは、凛子の脇から芳野が放った銃声だった。

 ひらりと跳ねてかわす柴犬。芳野の更なる追撃を、銀の翼を再び小さく開き、空中で左ロールし、溶けた砲台を蹴り、難なく避ける。そう言えば芳野が猫派どころか犬嫌いだった事を凛子は思い出す。音を立てて散らばる跳弾を掻い潜り、柴犬が身を低くして馳せる。

「凛子ちゃん! そんなまゆ毛犬の言い分聞いちゃダメよ! 強盗なんだから!」

 女子職員向けにグリップを小型化されたMP5で、柴犬目掛けて三点バースト射撃を繰り返す芳野。彼女に続く同僚達。彼女らを小馬鹿にするかのように、翼と四肢を存分に活かして縦横無尽に跳ね回る柴犬。当たらない。弾丸は一発たりとも、闖入者を捉える事が出来なかった。

「やれやれ、仕方ない。仰る通り窓口まで出向くと……」柴犬は弾幕の切れ目に呟きながら、未だ燻る高射砲の銃座にふわりと脚をつけると、「しますかな!」スラスターを吹かし轟と加速した。

「ひ、ひぃっ!」

 地を這うように飛来し瞬時に間合いを詰めた柴犬。芳野はびくりと手を止める。彼女のストッキングの脚を前脚ですれ違い様に引っ掻くと、芳野は一瞬ぴんと全身を硬直させ、どうと倒れる。

「よ、芳野先輩……わ、わあっ!」

 芳野に気を取られ、銃を構えることすら忘れた他の女子職員達にも、柴犬は間髪入れず迫った。逞しい後脚で肩口を蹴り、倒れた所に手を触れる。機関拳銃の銃身を横から咥えてぐいと引き、よろめいたその身を受け止める様にタッチ。たけまる銀行を守る女子職員達は、皆一様に痙攣して倒れ、ぴくぴくと身悶えしていた。

 肉球に高圧電流でも流れているのだろうか。凛子は敵の猛攻を掻い潜りながら推測していた。飛び掛り、攻撃し、乱反射する光のように跳躍し、再び飛び掛る。その一挙手一投足は、予測不能のヒット・アンド・アウェイだった。

 だが凛子は乱戦の中でも距離を取り、間合いを保っていた。何度も振るわれた肉球を紙一重で触れさせず、文字通り柴犬の魔の手を逃れていた。

 ごく数分の格闘戦の後。凛子を除いた女子職員達は、柴犬の足元に伏していた。

「さてと、そろそろ窓口へ案内して頂けませんか。お嬢さんは手強い、私にはこれ以上の加減が出来る自信が無いのです」

 未だ余裕綽々、悠然と凛子の前に立ちはだかるその闖入者は、息一つ乱さずそんな事を言ってのける。

 凛子は言葉を返さぬまま、素早く制服のベストを脱ぎ、自分の左腕にぐるぐると巻きつけた。猛犬を相手にそうやっていたのは警察犬の訓練士だったか、ともかく凛子は見覚えのあったその方法を真似てみる事にしたのだ。避けた後では反撃できない、ならば敢えて受けた上で打ち返す。凛子は覚悟を決める。

「恐れ入りますが、お通しするわけには行きません。お引取り下さい」

 それだけを言い切り、唇を結ぶ凛子。私がここを通してしまったら、きっとこの闖入者の実力ならば、容易に金庫まで辿りつく事が出来るだろう。はて、その後このお犬様はどうやって現金を持ち帰るつもりなのか。いや、謎の翼に謎の兵器、そして人語を解する犬だ。何が可能で何がそうでないのか、今常識で考えて分かるはずがない。凛子はそんな事を頭の片隅で思いながらも、隙の一片も見せない。

 警棒を握る凛子の右手に汗が滲む。正体の分からぬ敵に感じる、かつて無い重圧。一騎打ち。いざ。

 凛子が敵に先んじて一歩踏み込んだ、と思ったその刹那。

 既にその柴犬は眼前に迫っていた。

「うく……っ!?」

 やられた。脇腹を抉るような体当たりで吹き飛ばされたと理解した。凛子はすぐさま脚に力を入れて踏ん張る。いなして衝撃を殺そうと試みるが、膝がかくんと崩れて足を滑らせる。焼けた屋上のタイルに尻餅をついた次の瞬間、空に火炎と黒煙が弾けた。

 何が起こったのか、凛子には理解できなかった。突然巻き上がった炎の根元を振り返る。爆撃、ミサイル? どこから? この柴犬が? 凛子の脳裏を疑問と推測が瞬時に巡る。

「やれやれ、品の無い事だ……おいジョン、何をぼさっとしているんだ!」

 凛子の顔のすぐ横で、溜息交じりに柴犬は呟いた。彼も何かの手段で、ジョンと呼ばれるどこかの誰かと通信をしているようだ。彼の耳元あたりでごく僅かに、ぼそぼそと何かが喋っているような音が確かに聞こえた。

 柴犬は何かを指し示すように、艶のいい黒い鼻を山側の空に向けた。凛子はその意図を解し、痛みに軋む身を何とか捻り空を振り返る。

 山際の空遠く列を成す、黒い飛行物体のシルエットが見えた。同時にインカムに響いたのは、桐原が上げた驚愕の声。

「そんな……な、内陸側に新たな反応を検知! 軍用ヘリ四機、うち対地攻撃ヘリ三機! 今度は、KDGIです!」

「KDGI! また連中懲りずに来たっての?」

 その名に戦慄する凛子。KDGI。ここ数ヶ月、中町支店を含む島じゅうのたけまる信金支店を頻繁に襲撃している強盗企業の名だった。

 ヘリに対抗できる高射砲もスカイアローも、もはや使い物にならない。単機突入してきたこの柴犬は、軍用ヘリを安全に運用する為の尖兵だったのか。凛子は歯噛みする。だが。

「連中の動きは警戒していたつもりだったが、やれやれ、好い様に使われてしまったらしい。お嬢さん、知らぬ事とは言え、ちょっと申し訳ない事をしてしまったようだ」

 目の前の柴犬から、戦いの気配が消え失せていた。もうもうと立ち上る黒煙と、真っ直ぐに空を辿ってくるヘリ部隊とを、呆れた顔で見比べている。

 凛子は言葉を失ったままだ。この柴犬は、あのヘリの一団とは無関係だと言っているつもりなのだろうか。

「迂闊だったわ。貴方みたいなのも、連中とグルだったなんて」

「やれやれ、信じて頂けるとは思えないが、あの連中とつるんでいる訳ではない。棒に向かって歩かされたという事ですよ、私は」

 凛子の目の前で、柴犬は後ろ足で耳の裏をちょいちょいと掻きながらそう言い捨てた。ああ、一応自分が犬だという事は自覚しているんだ。凛子は何故か悠長にそんな事を思う。

「凛子、ちゃん……こ、これは?」

 気を失っていた芳野が、よろよろと立ち上がった。手足か意識か、あるいは両方にまだ痺れが相当残っているのだろう、足元が覚束ない。

「新手です、KDGIが来ました。芳野先輩は皆を連れて中へ!」

 その一言で急変した事態を察した芳野は頷く。戦う姿勢を解いていた柴犬を不安そうに一瞥した後、身動きの取れない同僚達の元へ走り懸命に助け起こす。

「私もここは退散するとしましょう……ジョン、撤収だ。出発地点でピックアップ頼む」

 柴犬はぼそぼそと喋りながら、軽く背伸びをするような仕種をした。彼の背負った銀色のバックパックから、薄く大きな銀の翼が、しゃんと音を立てて左右に伸びた。その翼は気のせいか、最初に見た時より一回りも巨大に見える。間近で見てもどういう構造で成り立っている物なのか、凛子には全く理解できない。

「ヘリからの攻撃、再度、来ます!」

 桐原の声と、同時に振り返る二人と一匹。三機のヘリから放たれる対地攻撃ロケット。

 柴犬がすかさず四肢を踏ん張ると、翼に小さな穴が並んで開く。左右に二つずつのその発射口から、あの青く光る銀の弾がぽんぽんと生み出され、ごく一秒その場で滞空した後、残光の帯を描いて虚空へ飛ぶ。白煙を引き迫るロケット弾を、青い閃光が迎え撃つ。街外れの竹林上空で、かっと赤い火花が散る。

「凛子ちゃんも早く!」

 同僚達を先に階下へ行かせ、芳野もそれだけ叫んで屋内へ消えて行く。凛子もそれを追って階下へ戻り、続けて来るであろう白兵戦に備えるべきだと考えはした。

 だが、この柴犬はどうするつもりなのだろう。あのヘリが彼の仲間ではないとして、このまま放っておいていいものだろうか。まだ予告された強取行為自体が成立していない内は、お客様として扱うべきだろうか。

「あ、あの白糸家様は……ああもう! 犬! あんたどうするの……って、きゃあっ!?」

 呼ばれてちらりと振り返る柴犬。だが次の瞬間、迎撃を逃れた一機のロケットが彼の脇を抜ける。閃光、爆風。思わず身を屈めた凛子を襲う、炸裂音と衝撃。頭を庇おうとした手がインカムを弾き飛ばす。

 次に凛子が目を開いた時、今しがたまでそこにあった筈の通用扉は、連なる壁面部ごと吹き飛ばされ、黒い瓦礫の山と化していた。

 唖然とする凛子の傍らに、翼を開いたままの柴犬がとことこと寄ってくる。

「やれやれ。この装甲なら下の階は安全だろうと思ったが、その階段はもう使えないな。仕方ない、早く掴まりなさい!」

 え、と戸惑う凛子。足元に転がったインカムの向こうで、桐原がまた叫ぶ。三度放たれる対地ロケット。

 凛子は言われるまま柴犬の翼に、推進器らしき箇所を避けてしがみ付く。ふわりと浮いた次の瞬間に、足元から衝撃に煽られる。着弾。間一髪の上昇で回避する凛子と柴犬。

「わひゃああっ!」

 強烈な浮遊感に煽られて、思わず素っ頓狂な声を上げる凛子。柴犬はヘリ部隊にくるりと背を向け、本州へ向かう海の方角へ加速した。かつて感じたことの無い風圧にたじろぎながらも、眼下に煙を上げるたけまる信金を凛子は振り返る。

 みんな、本当に大丈夫だろうか。

 不安と恐怖に心臓を揺さぶられながらも、今の凛子はただ、上昇していく銀の翼にしがみ付いているのが精一杯だった。

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