幾百《いくひゃく》の天空《そら》を劈《つんざ》け
トオノキョウジ
一.
高尾の山に夕陽もとうに落ちた空に、高く跳ね飛ぶ水飛沫と池の鯉。夕餉を終えた午後七時、その日の夫婦喧嘩は、妻百恵が放った先制の一本背負いで幕を上げた。
「ぶひゃあっ! だ、旦那に対して何てことしやがるこの乱暴ババア!」
荒れた水面から顔を出し、息巻く幾造。分厚いメガネは低い鼻からずり落ち、配給の国民服に藻が絡む。
「喧しいよこの唐変木! 飛行機いじりでおツムのネジまで飛ばしちまったんじゃないだろうね!」
負けず荒ぶる百恵の手が、傍らの竹箒に延びる。ぶんと振るって柄を取り、ぴしゃりと正眼に構える。綿入れ無しではまだ肌寒い四月の夜、泣きっ面に蜂の巣を叩き付けるが如く、幾造の頭を竹箒で狙う。打突の瞬間を違わずしっかりと握力の込められた、俄か覚えな物ではない強烈な唐竹割り。
「ば、馬鹿、長物は卑怯! ぷはっ、ちょ、無理! この鬼! 汚な、おうふ!」
出る杭打たれる、為らば引くまでとばかりに、幾造は池に頭を引っ込めて追撃を避け、振り上げた隙に浮上しては言い返す。先手を取られ頭上を完全に押さえられた幾造は、今日もまた圧倒的に不利な戦局にあった。
「口ばっかり達者なくせに、肝心な時にゃだんまりかい! 野良犬の方がまだ気が利くね!」
「い、いい加減にしろい! お国の勤めへ行くんじゃ、誰が止められるもんかい!」
脳天を容赦なく叩くホウキを、負けじと幾造が両手で受け止める。白羽取りと呼べるような華麗な防ぎ方ではなく、当たった所を髪の薄い頭に自ら押し付けるようにして辛うじて止めたのだ。
だがしかし、百恵は構わず再びホウキを振り上げる。ホウキは竹の柄を弓のように反らし、させるものかと手を離さない幾造を池からひょいと吊り上げる。
「何がお国の勤めだい! 義昭はまだ十五なんだ、そんな子供まで使って余所の土地取りに行くようなお国になんざ……」
勤めてやるこたぁ無い! 勢い任せにホウキを振るい、宙ぶらりんの幾造を芝に転がす。強かに打ちつけた尻の痛みに呻きながら俎上の鮮魚の如くぴちぴちと跳ねる幾造の姿に、百恵は鼻息をふんと吹かした。
昭和十六年十二月、大東亜戦争。南洋の米英領各地に対しその攻勢を加速する大日本帝国軍は、真珠湾攻撃からマレー沖海戦と次々に勝利し、大小の島へ上陸、占領を進めていた。大本営発表を通して華々しい戦果を聞く国民は、その大半が鬼畜米英に対する勝利を単純に喜び、危うい熱気に浮かされる中で新年を迎えた。
その一方で、昭和十二年の
昭和十一年から本格的に推し進められていた政府国策『開拓移民推進計画』だったが、戦局悪化による兵力動員で成人男性、及びその家族の単純な入植は困難となっていた。地元住民との衝突、及び北方に位置するソ連の脅威もあり、かつての屯田兵にも求められた武装開拓移民団としての性質及び武力がより強く求められる様になる。
幾造達夫婦の一人息子とその妻はこの移民計画初期に、十二歳になる長男の義昭を連れて満州へと移住していた。まだ尋常小学校へ入ったばかりだった次男の義和だけは、祖父母である幾造と百恵の元に託され育てられて来た。長男に比べて身体も弱くかった義和は、流行風邪を拗らせてしょっちゅう熱を出して寝込んでいた。親と離れてしまったとは言え、異国へ連れて行かなかったのは正解だったのだろう。色白な義和を看病する度、百恵はそう思っていた。
そんな折迎えた昭和十七年。移民推進計画を補う人員として、軍事訓練を受けた十五歳以上の少年を主な人員とした『満蒙開拓青少年義勇軍』が組織される。実業学校でこの通知を聞いた義和は、この移民団への参加を志願したい考えを、つい先程夕餉の席で幾造と百恵に報告したのだ。
「十五なら立派に元服しとる歳じゃろが! おのれの意志でお国の為に勤めたいっちゅうなら、黙って送り出してやる。それがわし等に出来る事じゃろ!」
幾造は義和の言葉に黙って頷くだけだったが、内心は少なからず喜んでいた。頼りないモヤシっ子だとばかり思っていた孫であったが、その中身は立派に成長していた。自分の道を考え選び、物怖じせずしっかりと意志を表す。孫の成長を直に見る幸せを、幾造は噛み締め感じていた。
「行く先が行く先じゃないか! 唯でさえ息子達にはさっさと引き揚げて来て欲しい所だよ、そんな所にわざわざ首突っ込んで行くなんざ、まともな親なら歓迎なんてできる訳ゃあ無い!」
対して百恵は、義昭の決意を認める事は出来なかった。わざわざ死にに行くのかい! 百恵は義昭を怒鳴りつけた。だが義昭はそんな祖母の怒りを覚悟していたのか、言い返す事も気を落とす事もせず、ただ黙ってその言をその身に受け止め尚、お許しくださいと最後に呟いて部屋へ上がっていった。
満州へ行ったままの父母と兄の身を案じての事だろう。百恵にもそれがわからない筈が無かった。この子も大きくなった、幾造と同じようにそう感じていた事は事実だ。
「ったく、旦那相手にゃ鬼婆の癖に……義昭の事となると途端に過保護になりおって」
池の水を吸いげほげほと咳き込みながら、尚も毒づく幾造。過保護という単語が百恵の胸にちくりと痛み、ホウキを握る手を弛め、溜息を吐く。だが。
「なあ婆さん、そんな心配ならわしらも一緒に行ってやるか」
呼吸が落ち着いたのか、国民服の裾を手で絞りながらひょいと立ち上がり、口を開く幾造。投げ飛ばされ引っ叩かれ、相当に痛めつけられた筈の幾造だったが、メガネをくいと直し、何事も無かったかのように母屋へ足を向ける。
「……満州にかい?」
「そうよ。今の中島は陸軍さんの無茶振りばっかりで、クソ忙しくて頭ぁイカれっちまうかと思ったぜ。鉄も足りねえもんだから、昔みたいに試作試作で工場を好き勝手できねえしな! 息子夫婦と孫連れて、異国の地で老後ってのも悪かねえだろと思ってた所よ」
お国の為にとか、どの口がほざいたものかね。お気楽に笑う幾造に呆れる百恵。
「阿呆、そんな暢気に老後なんて送ってられる場所じゃ無いから言ってるんじゃないか! ったく」
満州への移住。確かに百恵もそれを考えないではなかった。幾造はこの三月、中島飛行機での軍用機開発を、定年を大きく越えて勤め終えた。百恵自身も家庭を守る身、義和にはまだ言わなかったが、家族が全て満州へ移るというならそれも良いかと思っていた。実際百恵にとって、現地の状況以外に心に掛かる事と言えば、自らが師範を務める薙刀の道場の始末くらいのものだ。
「心配ねえよ! ワシらが作った戦闘機さえありゃあ支那も露助も叩きのめして、今年のうちにゃあ戦争なんざ、大日本帝国の輝かしい勝利でちょちょいと終わっちまうさあ!」
大口を開けてがははと笑う幾造に、百恵は再び呆れ果てる。つられて弛む自分の顔を、咳払いで慌てて締める。若くして一流の航空機技術者と名高かった幾造の元に嫁ぎ、早五十年。技術者なんて神経質で嫌味な男ばかりと思っていた百恵の内で、その印象はとうに消し飛ばされて久しい。ネジの緩みや鋼板の歪みは僅かも許さないが、その他の些事は気にも止めない。
背丈は小さくとも功は大きい。中島飛行機の仕事仲間達は、何かの折に百恵と顔を合わせる度にそう口にし、彼の事を褒め称えた。一体何が凄いのか詳しい事はさっぱり解らなかったが、中島飛行機と言えば陸海軍に数々の航空機やその発動機を送り出し、国の兵力の礎を担う一流の企業だ。国を支え、国難から民を守る力を創り出し、そして家族を守ってきたこの小さな夫の事を誇らしく思う気持ちは、百恵の中で違えようの無い真実だった。
百恵のついたため息が、僅かに白んで夜空へ消える。仕方ない、もう少しだけこの男の妻を勤め上げてやるか。百恵はそう心に決めた。
「そいじゃあんたは、あんたン所の飛行機さえありゃ敵さんなんて怖くない。そう言う事だね?」
夜風にぶるりと震えつつ脱いだ上着を絞る幾造を眺めながら、百恵は確かめるように問い掛ける。
「おうさ、当ったり前よ! ワシが中島で最後にやった例のアレさえあれば……あ、うん。ちょっと食いつく所違うんじゃねえの?」
拳でどんと胸を打ち応えるものの、今ひとつその意図を量りかねてきょとんとする幾造。まるで満州の地で自ら戦闘機に乗り、敵国のそれらと戦わなければいけないようにも聞こえた。
幾造はわずかに耳を疑ったが、百恵の真意はおおよそその言葉通りである事に気付いてしまう。口端を上げてにかっと笑い、幾造の細い背中を平手でばちんと叩く百恵。
「ようし! じゃあ満州なりどこへなり、連れてってもらおうじゃないか爺さん」
着物の裾を上げて草履を脱ぎ、庭から上がる百恵。庭先から繋がる畳の客間をどすどすと歩き、本床の間に飾られた大小を無造作に取り上げる。
「ああ、うん……あ、明日っから急いで荷物まとめっちまわねえと」
「馬鹿言うんじゃないよ、今から出るよ! さっさと支度して来な!」
さらに槍掛けから愛用の薙刀を下ろしながら、さも当然と答える百恵。数秒ばかりの間、幾造は再び百恵の不敵な笑みを、ぽかんとしながら見上げる事になった。
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