第9話 二人だけの秘密
「これが私が知っている日本の歴史よ」
そう言って私が出したのは、自宅から持ってきたB5サイズのノートだ。
表紙を開くと、中にはビッシリと私が知る限りの大きな事件や社会の動きを記載した。
2001年5月から1か月
まず、2001年は行政再編が進んだ年でもあった。
5月1日付けで埼玉県の浦和市、与野市、大宮市が合併し、政令指定都市である「さいたま市」が誕生した事は一昨日のテレビニュースでも報道されていた通りだ。
6月には大阪の「池田小学校」に不審者が侵入し、出刃包丁で15人の児童を切りつけ、8人の児童が死亡する無差別殺人事件が起こる。
これにより、日本中が小学校のセキュリティに対する意識を高めるキッカケになった。
7月には兵庫県明石市の花火大会で、見物客が歩道橋で転倒して将棋倒しになり、11人が死亡する事故が起きた。
これにより、日本中でイベント来訪客の動線計画が義務付けられる事になる。
8月には大手ショッピングモールのジャスコが社名を変え、全てが「イオン」に統一された。
そして9月にはアメリカで「同時多発テロ」が発生し、旅客機に突っ込まれた貿易センタービルが2棟共に崩落するという大事件が起きた。
これがその後の世界を大きく変える転換期になった。
その影響か、この月に日本の東証一部の平均株価は1万円を下回る事になった。
日本のデフレ経済はここから更に加速する。
大手都市銀行が合併しだしたのもこの頃だ。翌年には三和銀行と東海銀行が合併してUFJ銀行が誕生した。
メガバンクでさえ単体では経営が困難になる程の深刻な不況へと陥った日本経済は、郵政民営化によって更に国内投資が冷え込み、外国資本が日本に流入する様になった。
つまり、小泉政権は「日本の経済をアメリカに売り飛ばしていった」訳だ。
2024年5月には、政治を裏で動かしていた「経団連」と、日本の発展に寄与してきた「日経連」がアメリカの圧力によって統合し、「日本経団連」として主にアメリカ資本の流入を擁護する形に作り替えられていく。
これが政権与党であった自民党の腐敗の加速に繋がり、この腐敗は2025年まで続くのだ。
今にして思えば、日本国民は不況にあえぐなかで次々と増税を課され、その税収はアメリカの軍需産業へと流れる仕組みが出来ていたのかも知れない。
私はそんな事を考えながら、ノートの中身を1行ずつ読み上げ、私の私見を交えて説明していった。
そうして数ページを説明していったところで鰐谷君が顔を上げ、
「ちょ、ちょっと待って紅羽さん!」
と言って私の話を遮った。
「どうしたの? どこか分からなった?」
私はそう訊きながら鰐谷君の顔を見返すと、鰐谷君は戸惑う様な表情で首を横に振り、
「そうじゃないんだ。いや、そうなのかも知れない」
と言ってため息を一つつくと、「この内容は、政治や経済の話ばかりで、僕には少し難し過ぎるんだ」
と続け、申し訳無さそうな表情を私に向けた。
「あら、ごめんなさい」
と私は笑顔を作りながら謝り、「でも、戦争って間違った政治によって起こるものだから、ここから話をした方がいいと思って・・・」
と言いながら肩をすくめて見せたのだが、鰐谷君は深いため息をついて苦笑しながら肩をすくめている。
「紅羽さんは、これまでの人生で何度も大人を経験してきたんだよね」
と鰐谷君がそう言った瞬間、私は自分の愚かさにやっと気付く事ができた。
「あ・・・」
と私は言葉を失い、「ごめん・・・」
と短く言う事しか出来なかった。
そうだった。
鰐谷君は前世でも12歳までしか生きていないんだ。
それまでの人生も、ギャングだったり少年兵だったり、まともに学校さえ行けていなかったと言っていた。
つまり、経済の話なんて触れた事も無いし、政治の話をしても分からないという事だ。
それなのに私は・・・
「本当にゴメンね」
ともう一度、今度はハッキリとそう言うと、鰐谷君は首を横に振って、
「大丈夫だよ、紅羽さんが悪いんじゃないと思うから・・・」
と言って再びノートに視線を落とした。
私はそんな鰐谷君を見ながら、視線を落とす鰐谷君の長い
過酷な少年期ばかりを繰り返してきた彼が、やっとたどり着いた「戦争の無い日本」での人生。
毎日が死と隣合わせだった人生では、まともに夜も眠れなかった事だろう。
治安の悪い国だと、街を歩いているだけで誘拐されたり持ち物を盗まれたり、場合によっては殺されたりもする。
少年兵として生きたとするならば、銃を持っているだけで敵意を持たれて、そして人を殺す事もあったのかも知れない。
そうだ、そうしなければ自分の命を守れないかも知れないのだから・・・
「ねえ、
と私は、彼の名前を呼んでいた。
突然、苗字では無く名前で呼ばれた彼は、驚いた様に顔を上げた。
私は何を言いたくて彼の名前を読んだのだろう。
彼に何を伝えようと思ったのだろうか。
彼をまるで「守るべき息子」の様に感じたのだろうか。
これまでに数十回の結婚を経験し、幾度か息子を育てた事もある私の「母性」がそうさせたのかも知れない。
だけど、彼に対する気持ちはそういうのとも少し違う気がする。
同情?
そんなは訳無い。
彼の境遇に同情できる程の人生経験が、通算7000年を生きてきた私にさえ無いのだから。
だけど、苗字で呼ぶ「他人行儀」な関係じゃいけないと感じたのは確かだ。
だからといって「恋」という感情とも違う。
この、「彼を幸せにしなければ」という義務感にも似たこの気持ちは、トキメキとはほど遠い感情だ。
だけど、胸が熱くなるこの気持ちは、他の言葉では言い表せない程の大きなうねりとなって、私の中で膨らんでいる。
次の言葉を探しながら、私はじっと修平君の顔を見つめていた。
少し驚いた様な顔で真っ直ぐに私を見返す彼の目は、部屋の時計の秒針が時を刻む音しか聞こえない部屋の中で、私の次の言葉を待っている。
「なに?」
と短く問う彼の声が、私の胸に、何か熱いものを注いだ様な温もりを与えた。
それは、彼が「生きている」という証拠であり、それが私に安心感さえもたらしているかの様に・・・
そして、私はそんな事を思いながらも次の言葉を探していたが、何を言うべきかが見当たらない。
「紅羽さん、大丈夫?」
そう言った彼の目は、本当に私を心配しているかの様だった。
私が彼を心配するならまだしも、彼が私を心配するだなんておかしな話だ。
だけど・・・
と私は思った。
これまで繰り返してきた人生の中で、こんな純粋に私の身を案じてくれた人が居ただろうか?
天才少女と呼ばれて大人達に利用され、大人になっても誰かが私の能力を利用してきた。
社会がお互いの能力を利用し合う事で成り立っている事は分かっていたが、利害を超えて、ここまで純粋に私を心配してくれる人がこれまでの人生で居ただろうか?
ほんの数秒、私が言葉を失った程度の些細な事にも関わらず、彼が経験してきたこれまでの人生から得た教訓がそうさせているのかも知れない。
死と隣り合わせだからこそ、他人の機微にも敏感で、私を一緒に居たい仲間だと思うからこそ、私の事を心から想ってくれる・・・
そんな感情の高ぶりが、私にこんな事を言わせたのかも知れない。
「修平君、私は必ず、あなたを幸せするからね。だからこの人生は、私と生涯を添い遂げてほしいの」
もはやこれはプロポーズだ。
10歳の私が、10歳の彼に伝えたプロポーズ。
これまでの私の人生での結婚とは、私の能力や財力を目当てに言い寄って来る男に対して、私が「今回はこれでいいかな」という
けれど、私が相手を欲したのはこれが初めてだ。
何故なら、私が無意識に求めていたものを彼は持っていたから。
それは、私が一人の人間として純粋に存在を認められる事であり、私が完璧では無い事を認めてくれる存在であり、才能やお金とは無縁の関係が築けるという事だ。
そうか、そうだったのか。
どうして今まで気づけなかったのだろう。
私は既に、この世界で生きるのに十分な知識も財力の作り方も知っている。
名誉欲など
生きる上での不安要素が何も無い私の人生で、最後に望むものが何なのか。
それは「純粋な愛情」だったのだ。
地位、名誉、ブランド品、豪邸、高級車やそれらに類するものなど、そんなものは「それが無くては自我が保てない弱者」が得ようとするものだ。
誰かに認めてもらう為にそうした物に頼り、その為に金を稼ぎ、見栄を張って生きて行かなければならない人生なんて、私にとっては興味すら無い。
7000年以上の紅羽優子という人生において、私に欠けていた「最後のピース」は、こうした「純粋な愛情」なのではないか。
私のプロポーズに困惑している彼の言葉を待つ前に、私は身を乗り出して彼の唇を奪った。
彼のこれまでの人生の不幸を吸い取るかの様に唇を吸い、子供じゃ絶対に出来ない様な大人のキスを。
私は彼の身体を強く抱きしめ、少し震えている彼の手が、私の背中にそっと置かれ、長いキスを続けるうちに、徐々に彼の腕に力がこもって行くのを確かめながら。
彼の心臓がバクバクと脈打っているのが私の腕に伝わって来る。
そんな彼の高まりに当てられた様に、私の心臓の鼓動も高鳴ってきた。
ああ、このまま彼と繋がりたい!
そんな気持ちが頭をもたげてきたところで私は唇を離し、グイっと彼の肩を押して身体を引き離した。
「こ、ここまでにしておきましょう」
と、むしろ自分に言い聞かせる様にそう言った私も、そして彼もハアハアと息を荒げていたのだった。
あぶないあぶない、今の私達がまだ10歳なのを危うく忘れるところだった。
というか、忘れていた。
というか、ちょっとやり過ぎた。
「紅羽さん、これって・・・」
と、火照った顔を私に向ける修平君の額は汗ばんで、さらりとした前髪が額に貼りついていた。
「これは、この人生を一緒に幸せになる為の、約束のキスよ」
私はそう言いながらノートのページを指さし、
「私達はまだ子供だから、ここに書かれた事件を今すぐどうにかできる訳じゃないと思う。だけど・・・」
と言って修平君の顔を真っ直ぐに見つめ、「私達で変えていきましょう! これまでのあなたの人生を全て幸せに出来るくらいに、世界を変えていきましょう!」
そう言う私に修平君は少し間を置いてから頷き、
「ありがとう。本当にありがとう・・・」
と言いながら肩を震わせて涙をこぼしたのだった。
それを見て安心したのか、私はさっきのキスを思い返し、徐々に彼にした事の重大さに恐ろしさを感じだしていた。
もしかしたら、私がした事は究極のセクハラじゃ無かった?
ダメダメ!
こんな事、絶対に大人にバレちゃ駄目よ!
もしバレたら、私達が引き離されてしまう可能性もあるわ!
「あ、あのね、修平君・・・」
と私は言いながら彼の頬を両手で挟み、「さっきのキスは、二人だけの秘密にしておこうね」
と言っておいたのだった・・・
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