ヲタ・ゼクスアリス

トオノキョウジ

00, Duelist of Taintless. (穢れ無き決闘者)

 手塚伝二てづかでんじとその姉結衣ゆいの目の前で、長机は真っ二つに叩き割られた。

 唖然とする二人を中心に、モノクロのオフセット本と紙束が舞い上がる。上半身を露わにして絡み合う、扇情的な美少年達のイラストばかりが。

 五月。知恵利市ちえりし商工会館三階Bホールに轟いた破砕音が、集まっていた人々の時をその場に縛り付けた。平積みにした本の山ごと長机を叩き割ったのは、黒塗りの警棒を握った闖入者。結衣の同人誌を手に取って眺めていた一人の中年男性を狙い、突然その背後から殴りかかったのだ。

 男性客は真横へ一歩立ち位置をずらし、警棒を難なく避けていた。一瞬、伝二と目が合う。眼鏡の奥から覗いた、ぎらりと光る切れ長の瞳。刹那の後、背後の闖入者のわき腹を穿つ男の右肘。鈍い音。床を踏みしめる右足。それを軸に半円を描き旋回する左の膝が、闖入者の鳩尾を重く打ち、部屋中央の柱へ叩き付ける。

 沈黙の後、悲鳴。

 やや年配の女性ばかりで作られた人だかりが、甲高い声を撒きながら四散する。メガネ受けオンリー、BL同人誌即売会イベントの会場に満ちていた和やかな空気は、闖入者達の手で引き裂かれ、掻き乱された。

「姉ちゃん!」

 伝二は硬直したままの姉の腕を慌てて引き、自分の背中へ庇う。脚の震えを堪えながら、弾き飛ばされた闖入者と、弾き飛ばした眼鏡の男性を見比べる。

 闖入者はゆらりと姿勢を戻しつつある。警備員のような制服に、重厚な防弾チョッキ。握られたままの警棒。威圧感に満ちたその風体は、現金輸送車警備員のそれに似ている。

 男性は読んでいた本を無言で伝二に手渡し、部屋の奥へと駆け出す。何者だろう、変質者か。会場警備の人に追いかけられているのだろうか。伝二の予想を根拠付けるかのように、さらに警備服の男達数人が、人ごみを透明な盾で押しのけるようにしながらホールになだれ込む。

 既にホールは、イベント会場の体を為していない。飛び散った同人誌やチラシや、がらくたと化したイベント机やパイプ椅子が足元を埋め尽くす中、イベントの一般参加者達は我先にと逃げ出している。受付のいない入り口から、屋外通路への非常口から。台無しにされた作品をそのままに逃げ出すサークルもいれば、様子を伺いながら印刷物をキャリーケースに詰め込んでいる様も見える。

 唐突に起きた粗暴なアクシデントに、茫然自失したまま動けない者も少なくなかった。伝二の姉もその一人だった。焦点の合わないその目で、中年男性と警備員たちが向かったフロアの中央をぼうっと見ている。周りも女の人ばっかりだし、ここはやっぱり僕がしっかりしないといけないんだろうか。伝二の頭を、あらゆる感情がかき回す。

 追われる側の男性が放つ、気合の声。警備員の一人が吹き飛び、サークル机をがらんがらんと薙ぎ倒す。

「姉ちゃんあれ、さっきの人が!」

 姉の肩を叩き、錯乱した意識を少しでも取り戻せるよう、耳元に声をかける伝二。結衣は顎を力なく持ち上げた。剣呑な空気に満ちた部屋の中心、黒尽くめの闖入者に囲まれたその人物に視線を注ぐ。

 同時にその人物目掛け、再び打ちかかる闖入者たち。彼らの目的が自分達に無いとわかった伝二は、息を呑んでその様に、眼前で展開するその男の肉弾戦に見入る。

 フォーマルな紺のダブルスーツが、殺気の篭った警棒を軽やかに潜る。短く太い四肢が俊敏に翻る度に重い衝撃が床を迸り、警備員の体がよろけ、膝をつき、あるいはそのまま崩れる。細いとは言えないでっぷりとした腹回り、白髪交じりの短髪に分厚い眼鏡。どこのオフィスにもいそうな、中間管理職といった出で立ち。

 だが、男は間違いなく強かった。伝二の素人目にも理解出来るほどに。男を取り囲む警備員の数は既に十に近かったが、彼らの攻撃は男の動きを淀ませるに適わなかったのだ。

 逃げ遅れた、或いは遠巻きから様子を見ていたイベント参加者達も、伝二たちと同じくその戦闘に釘付けになっている。呼吸すら忘れて男の戦いぶりを見守るうち、次第に熱に満ちていく空気。男が一撃決めるごとに、歓声すら上がる。

「やっぱり、唯田ただたさん……?」

 結衣はぽつりと誰かの名前を呟いた。見開かれたその目は間違いなく、かの中年男性に向けられている。知り合いだと言うのだろうか。ついさっきまで結衣の同人誌を興味深げに眺めていて、今は警備員達を片っ端から薙ぎ倒している、その男が。

「お、おい伝二! 大丈夫かよ!」

 群集のざわめきの中から声がかかる。会場を見て回っていた伝二の友人道瀬理みちせおさむの縦横に大きな身体が人ごみを掻き分けて覗き、伝二と結衣、そして男達の戦闘とをきょろきょろと見比べる。

 左手で敵の手首を捻り上げながら、真一文字に振るわれた警棒を右手ではしと掴み奪い取る。柄で顎を真下から打つ。正確な反射と的確な反撃。敵はまた一人、膝の力が抜けて崩れ、床に伏して動かなくなる。だが。

 それを一瞥する間僅かに無防備になった男の背中に、さらに討ちかかる二人の警備員。数メートルの間合いを一足飛びに詰める敵。そこに割って入る何かの影。声が思わず、伝二の口を突いて出る。危ない!

 固い衝撃が男の背骨を砕くかに見えた、その直前。

 頬に風圧を錯覚する程の衝撃音。軽々と跳ね飛ばされる敵の体二つ。そして。

「きゃあっ!」

 一つがこちら目掛けて飛来する。咄嗟に姉をかばう伝二。太ももに衝突する、ひどく重い痛み。伝二は小さな悲鳴を漏らす。打ち付けた膝が鈍い音を立てる。眼鏡が落ち、視界にかかるガウス。床に手を着き、何とか堪える。

 ぶつかった場所にじっとりと蓄積する、熱と鈍痛。脚の上にのし掛かったままの、警備員の身体がやけに重い。理が伝二の上から、両手で持ち上げてどけてやる。

 ごとりと鈍い音を立てて落ちたそれは、ぴくりとも動かない。気を失っているのか。

「伝二! ごめん、大丈夫?」

「お、おい伝二。防弾チョッキってこんな異常に重かっ……うわっ!」 

 戦闘の舞台から降ろされたその一人を見て、驚く理。関節を不自然に曲げたまま、マネキンのように硬直しているその警備員の、顔。それは明らかに、人間を模した別の何かだった。仮面のようにも見えたが、肌とそれとの境目がどこにあるのか、一目にはわからない。あの警備員たち全員が、これと同じ顔をしているのだろうか。

 伝二は手探りで自分の眼鏡を取り戻し、わずかに歪んだフレームを耳にかける。

 彼らと男の間に飛び込んだ影は、さらに小さく、そして速かった。影が何者なのか伝二が見定める猶予も無く、再び動き出す戦局。背中合わせのまま構えなおす男と小さな影、そこへ尚も打ちかかる警備員達。

 いなしてかわし、相手を間合いに引き込みと最小の所作で反撃を打ち込む、男の巧みな武技。それに対して小さな影は、自ら大きく踏み込み警備員に殴りかかる、攻撃的な戦闘を見せる。受け止めさせず、避けさせない。速度と威力とで有無を言わさず叩きのめす、飢えに飢えた肉食獣のような荒ぶる姿。

 トンファーだろうか、右腕に何かの武器を付けているように見える。その得物が警備員の胴に喰らい付く度、重い轟音と衝撃波と共に、紙細工のように敵は宙を舞う。

 ホール外からも集まって来た野次馬達も、突如繰り広げられたアクションシーンに魅了され、声を上げる。過熱する歓声。その声援は明らかに、数で勝る警備員達を全く寄せ付けない、小柄な謎の男達に向けられている。

 男の横蹴りをわき腹に受け、攻勢の止まる最後の敵。地を這うカマイタチのように小さな影が零距離へ踏み込み、拳を振り上げ殴り飛ばす。ボディを穿ち、そのまま振りぬくヘビーブロウ。彼らを囲んでいた仮面の警備員達、ついにその最後の一人もあえなく吹き飛ばされ、壁に背中を強かに打ち、動かなくなった。

 沸き起こる歓声と拍手の、クライマックス。

 振り抜いた拳をすっと引き、中年男性の傍らにまっすぐ立ったその小さな影に、伝二の目は縛り付けられ、止まる。

 獣のように荒ぶり敵を屠ったその小さな影の正体は、一人の少女だった。

 白のフリルが控えめに飾る、黒い絹のケープシャツ。グレーのミニスカートから、レギンスに包まれた細い両脚が伸びている。モノトーンに統一された出で立ち。自分よりもいくらか年下の、だが凛とした覇気を全身に静かにまとった、黒髪の少女だった。

「帰りますよ、アリス」

 中年男性は、戦闘中真一文字に結んだままだったその口を、小さく開いた。彼を見て、こくりとうなずく少女。決して大きな声ではなかったが、伝二と結衣は確かに聞き取った。

 劇画さながらの戦闘シーンに圧倒され、自分達のいる場に現実感を失っていた伝二達。だが間違いなく男は、結衣の作った同人誌を珍しげに手に取っていたその人だ。

 黒髪の小さな少女は、男の服の裾を引き、伝二達を指差し促した。負傷した伝二の存在に気づいたようだった。男はぽかんと口を開けたままの結衣の方へ、ちらりと視線をやった後、目を伏せ小さく会釈をする。

 そして二人はガラス張りの非常口を振り返り、地上三階のはずのバルコニーの外へ、躊躇いなく身を躍らせた。

 しばしの間を置き、派手な青服の男達が数人雪崩れ込んで来る。そういえばこの会場にいた警備員はこんな格好だったっけ。再び騒がしくなるホールの中で、伝二はぼんやりとそんな事を思う。

「何だったんだよ、あいつら……」

 片耳で理の言葉を聞きながら、伝二も頭の中でそれを復唱する。何だったんだろう、あの人達は。彼女は。

 青服の警備員達は、何人かの応援を呼んだらしい。床に蹲ったままの黒服の闖入者達を抱え上げ、運び出し始める。残っていた参加者達が、各々にその恐怖や興奮を口にしながら、誘導に従ってホールを後にしていくのを伝二は見ている。

 脚の痛みは熱となって巡り、体中を炙るようだった。姉が心配そうに自分を呼んでいる声も、少し遠く聞こえる。同人誌やチラシが撒き散らされたカラフルな床に伏したまま、伝二は唇を噛んでじっと痛みに耐えていた。

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