友との約束は体育館の天井に。

サンダーさん

 親友の孝が引っ越した。

 誰よりも底抜けに明るい孝は、俺に無い物を持っている奴だった。

 元々内向的だった俺は孝に一方的に話しかけられ徐々に心を開いていき、気づけばいつも孝とツルんでいた。

 教室で話す友人は他にもいるが孝の存在は特別だった。だからこそ彼が転校すると知った時は啞然とした。

 当時は今みたいに携帯電話は普及していない時代だ。孝が引っ越す先は新幹線で半日かけてようやく着く地方都市だった。当時の俺達からすれば途方も無く遠い場所。

 だから、もう会う事が無いと彼は知っていたのだろう。

 孝はいつもの白い歯を全開に見せた笑顔で俺の懸念を吹き飛ばすように肩を叩いた。


「やり残した事は無い。後は頼んだぞ佐藤」

 そう言って孝は彼の父が運転するワゴンに乗り込み、俺から去っていった。

 九月の初週。暑さがまだ残る日曜の朝だった。



「――やり残した事は無い、か」

 孝はそう言ったが俺は今一つ納得できないでいた。

 彼が転校した後もモヤモヤを払う事が出来ない。

 体育館の片隅でじっと座りながらバレーボールの試合を観戦する。

 一・二組の男子生徒で行われる体育の授業。

 孝がいない以外はいつもと変わらない名簿順のチームメイト。彼らと共に他チームの試合が終わるのを待っている状況。

 横目に見ると他の連中は反対のコートで行われている女子の試合に夢中だった。

 誰それの胸がでかいだの、そんな年頃の男子中学生らしい話で盛り上がっている。

 だが、俺は彼らの与太話とは全く別の対象に意識を向けていた。多くの視線が正面上に向けられている中、俺の視線だけが体育館の遥か頭上に釘付けになっているのだ。


 微妙に湾曲した天井の屋根に沿うように、クリーム色の鉄骨が張り巡らされている。

 鬱蒼と生い茂る密林の樹木のように入り組みいくつも交差する鉄骨――その影にそいつは今日もいた。


 天井の鉄骨の間に挟まっているのは一つのボールだ。

 明らかに異物感溢れる青と白、そして山吹色で配色された孝の忘れ物。

 そいつは、今日も同じ場所から俺を嘲笑うかのように見下す。

 モルテンのバレーボール。どこの中学校にも大量に常備されている取るに足らない存在。


「あの野郎また俺を見下してやがる」


 忌々し気に天井を睨みながら俺は一人呟いていた。

 あのボールは数か月前の同じ体育の授業で孝がやらかしたものだ。

 相手のシュートを受け止めるつもりで跳ね返したボールはあっという間に頭上高く飛んだかと思うと、それっきりコートに落ちてくることは無かった。

 体育教師が甲高いホイッスルを鳴らし、すぐに代わりのボールは手配された。何事も無かったかのように試合は続行され、天井に挟まったボールの存在も一瞬の内に忘れ去られた。

 だが、俺はどうにも腑に落ちない。

 いつまでもあの場所に挟まったままのバレーボール。もしかしたらあの場所に飛ばした孝本人ですらも忘れているかもしれない。

 孝はやり残した事は無いと言った。


 ――違う。それは違うぞ、孝。


 俺はぐっと唇を噛み締める。

 あのボールは何とかしなければならない。

 天井のモルテンこそが諸悪の権化だと、今ようやく分かった。

 そうだ。あのボールを鉄骨から弾き出してはじめて、この胸のモヤモヤは晴れるのだ。

 ヤツを地へと叩き落とす、必ず遠くない未来に。この俺が。

 俺はあのボールこそが孝から与えられた使命そのものだと勝手に信じ、自身の心に強く言い聞かせたのだった。



    ♢


 俺は授業が終わると同時に教室を飛び出し、再び体育館へと足を踏み入れた。

 開きっぱなしの扉から広い館内へと足を踏み入れると、案の定無人だった。

 今は定期テストの準備期間で、全ての部活が休止しているのだ。

 いつもの放課後であれば、バレー部とバスケ部が半分ずつ分け合って練習に精を出す。しかし、今この場所にいるのは俺一人。

 四方を見渡してもがらんどうな体育館はオレンジの夕陽に照らされていて、どこか寂しそうだった。

 校舎の方からは下校する生徒達のざわめきが微かに遠くに聞こえる。そんな忘れ去られたような静寂の場所にいて、俺はそっと足を踏み出し始める。

 広い体育館の中に上履きのゴムが擦れる足音が響いた。


「さて、やるか」

 用具倉庫の前で立ち止まり、重い引き扉を一気に開く。

 埃の匂いと、どこか褪せたゴムの匂いが鼻腔を掠めた。格子に覆われた窓一つだけの倉庫内は薄暗いかと思いきや、ちょうど西日が差し込んでいて鈍いオレンジに照らされている。埃がキラキラとダイヤモンドダストのように舞っていて綺麗だと思った。

 その下に無造作に置かれた様々な体育用具。得点表に卓球台、コーンにゼッケンがまとめられた籠、マット……普段授業や部活で使われる彼らは皆眠りこけているようだ。

 俺はその中の一つ、ボールが満載された籠に目を付ける。

 バレーボールの授業で使うその籠台車を俺は引っ張り出す。

 体育館のほぼ中央まで運び出すと、俺は空気の詰められた手頃なボールを一つ手に取る。そして、天井に挟まった目標を見据えた。

 このボールをビリヤードのように天井の標的にぶつけて鉄骨から弾き出す――それが唯一考えられる方法だった。

 衣替えしたばかりの冬用の学ランは肩口が硬く、動きにくいが問題ない。

 ぎゅっと脇を締めて両手でボールを構えた。丁度、バスケットのシュートのフォーム。

 サーブのようにもう片方の手でポーンと飛ばしてやるのもいい。が、自信が無い。俺は授業でサーブを未だ成功させた事が無いからだ。

 だが、バスケのように両手で狙いを定めれば命中率はいくらかマシになる筈だ。

 ぐっと狙いを定めて息を止める。

 筋肉が一瞬の内に収縮し、


「ふ……!」

 吐息と共にボールを放つ。両の手を離れ上昇していくバレーボール。

 ――よし、行け!


 しかし俺の願いも空しく、ボールは鉄骨が張られた高さまで到達する事なく下降を始めた。


「ああ……そんな」

 俺の落胆を嘲笑うかのように、ダアァンというバウンド音が空しく体育館を震わせる。

 ごろごろと転がっていくボールから天井に視線を戻す。

 暴力的なまでの夕陽のオレンジが天井を染めていた。陽ざしが当たらない鉄骨の影で際立って異彩を放つ三色のボールは反骨精神の塊そのものだ。

 だが、覚悟しろ。

 俺は次弾を放つべく、新たなボールを籠から取り出した――


 しかし、それから後も、俺の放ったシュートがヤツに届く事は無かった。

 せいぜい天井の鉄骨を掠るのが関の山。届かせるのに精いっぱいで肝心のボールにはぶつからない。

 板張りの床を転がるボールは徐々に数を増していく一方だった。


「シュートを下手投げに変えてみるか」

 大股を開き、両手で支えたボールを突き上げるように真上に放り投げる――某バスケット漫画の主人公がフリースローでやるフォームだ。

 高さは稼げるが、狙いは外れ続ける。床にとっちらかったボールの数は増え、いよいよ収拾がつかなくなってきた。おまけにボールを投げ続けたせいで腕っぷしにも疲れも貯まり始めている。


「仕方ない。今日はこの辺で――ん?」

 片づけて帰ろうかと思った瞬間、入口から誰かが入ってきたのが見えた。

 その人影は女子生徒で、サッカーイタリア代表を彷彿とさせる鮮やかな青の長袖ジャージとスパッツ姿。一つ下の学年色だから二年生だろうか。

 肩先で切りそろえられたショートカットを揺らし、彼女は小走りで倉庫に向かう。

 そして、中からバスケットボールの籠台車を運び出してくる。

 女子生徒は台車をバスケットのゴール前で止めると、履いていたごついバッシュで車輪留めを一つずつ下げていく。


 しかし――テスト準備期間中なのに何故?

 俺の疑問に満ちた眼差しにも気づいている筈だが、少女はこちらに目を合わす事無く籠の中に手を伸ばす。


「何をするつもりだ……?」

 手を止めて観察していると、女子生徒はバスケットボールの一つを手に取り、ボールを両手で構え、溜めを作る。 

 ――そして、シュートを放った。

 恐ろしい程整ったフォームと共に、彼女の手のひらからボールが放たれる。

 放物線を描いたボールがネットを無音で揺らす。全く乱れる事無く翻るゴールネット。


 ふつくしい……


 俺はその美しすぎる弾道にうっとりしながら見入っていた。

 バスケットボールはダアァンと音をさせて床に転がっていく。


「ナイスだ」

 そうとしか言いようの無い、お手本のようなスリーポイントシュートだった。

 しかし――素晴らしいシュートを決めたと言うのに、少女の背中には何の感慨も見られない。

 スパッツの裾から二本の脚をすらりと伸ばし、白黒赤の三色のバッシュは木目調の床をぎりぎりと踏みしめている。

 彼女の後姿はどこか寂しく、孤独感にあふれていた。

 ふくらはぎの左右を囲うようにひっそりと盛り上がった筋肉が付いている。運動部らしい洗練された機能美を感じる長い脚。


「……⁉」

 不意に女子生徒が振り向いた 健康的な日に焼けた肌は俺みたいなひ弱な色白とは全然違う。凛とした顔立ちの美少女だった。

 見とれていた俺は咄嗟に目を逸らすが後の祭り。

 ショートカットをはらりと揺らし、転がったボールを拾うと彼女はこちらに向かって来る。


「何か用ですか?」

 警戒したような口調で女子生徒は言った。しかし、その声音にはまだあどけなさが残っている。

 背丈は俺とどっこい、もしくは数センチの差で俺の方が高い。下級生の女子生徒にしては高身長の方だと思った。

 ぐっとこちらを見つめる大き目の虹彩は黒曜のように美しく、その内側には俺の姿がくっきりと映り込んでいる。


「今のスリーポイントシュート?」

 意を決して俺は口を開いた。


「まあ、そうですけど……」

 褒められている事への照れ隠しなのか、少女は困ったように眉尻を下げる。

 彼女の眉毛は整えられてはいるもののくっきりとしたラインで、実直な人柄を印象づける。

 胸元の赤い刺繍につづられた名前には『篠崎唯衣』とあった。


「二年生?」

「えっ――ああ、二年二組の篠崎唯衣……です」

 俺の学年章を確認したのか、あからさまに口調が変わっていた。

 唯衣は律儀に組まで俺に告げると、頬を掻く。


「先輩は……バレー部じゃないですよね?」

 指さした先にはバレーボールが満載された籠。心底不思議だと言いたげな口調だった。

 無理も無い、今はテストの準備期間中なのだ。

 放課後の体育館で学ラン着た男子が一人でバレーボールの自主練なんて怪しすぎる。どう考えてもいち早く帰ってさっさと勉強するべきなのだ。

 だが、俺にはやり残した事があり、それを成すまで気が収まらない。

 所詮は自己満足だ。でも、あの天井のボールを叩き落さなければ勉強にも身が入らないのも事実だった。


「そう言う君こそ。 今は部活休止中じゃないか」

 俺は後輩の――それもとびきり可愛らしい女子生徒の――不審者を見るような蔑んだ目にも臆せず、疑問をぶつけた。

 すると、唯衣は腰に挟んでいたボールを持ち上げて顔を隠す。

 恥ずかしそうに指先でコロコロと回転させるのはリスがクルミで遊んでいるようだ。俺が黙りこくっている間もバスケットボールの黒線がせわしなく回転している。


「自主練です。私、試合だと全然スリーポイントが決まらなくって」

「それで、わざわざ部活が休みに時に?」

 もう一度こくんと頷き返す。彼女の背丈は一学年後輩であるにも関わらず俺と殆ど変わらない。


「今なら一人でシュート練習できるし、先輩達にもヤジ飛ばされないし、上手くなって見返そうかなって……思って」

 だが、大人びた体つきの割に、瞳の奥はどこか幼げだ。おそるおそる人間に近づいてきた小動物のような危うさがある。

 塩でもかけたように語尾が小さくなり、それっきり黙してしまう。

 一見、実直なスポーツ少女。しかしこの女バス部員は思いの外、メンタルが弱そうだ。

 綺麗なフォームでスリーポイントを決めているのに、試合で全く決まらなくなるというのもその辺が関係しているのかもしれない。


「そっか。まあ、頑張ってな」

 俺は踵を返し、無数に転がるバレーボールを回収し始めた。

 彼女の練習の邪魔をするつもりはない。さっさとここから立ち去ろうと思ったのだ。


「あのっ」

 しかし、ほぼ無人の体育館を彼女の甲高くて可愛らしい声が木霊した。


「そう言う先輩こそ、一体何をしてるんですか? いつも同じ体育館で練習してるから先輩がバレー部じゃないなんて私でも分かります。貴方は――」

「参ったな」

 俺はこれ以上隠し通す訳にもいかなくなり、事情を話す事にした。


「そうだな。俺はを何とかしようと思ってここに来てる。今なら体育館には誰も来ない。チャンスなんだ」

 そう言って天井の鉄骨に挟まったを指さす。


「は?」

 俺の指先に吊られて天井を見上げた唯衣が気の抜けた声を漏らした。俺を前にした緊張も、自身のコンプレックスを赤裸々に語っていた羞恥心も全て吹き飛んだようだった。

 白い歯を覗かせて大口を開いた唯衣の顔はぽかんとしたという表現が最も似合っている。


「あの高さに挟まったボールを落とすには、同じようにボールをぶつけて衝撃で叩き落とすしかない。だけど……」

 俺は驚く唯衣を尻目に転がっていたボールの最後の一個も籠に戻した。


「今日はもう帰る。練習の邪魔をするわけにはいかないから」

 それに勉強もしないとね、と根も葉もない嘘をつけ加えて、俺はボール籠を押しながら少女に手を振った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る