第6話 彼女はかわいく嫉妬する
「……そんなことがあったの」
その日の放課後、僕と一緒にベンチに座った
「ごめん。まさか
「いや、誰だっていきなりプロポーズするとは思わないでしょ」
苦笑する僕の横で、渚沙さんは厳しい顔で紅茶の入ったペットボトルを握りしめていた。
「好きになっちゃった、のかな」
もしかして、嫉妬してくれているのか。僕の心の中にわずかに喜色が芽生えたが、つとめてそれを出さないようにした。
「彼女さあ、別に僕のことが好きってわけじゃないと思うんだよね」
僕が言うと、渚沙さんはちょっとだけ眉間の皺を薄くした。
「獅子王さんのお母さんも短距離の選手でさ。将来を期待されてたのに、怪我で引退しちゃったんだよね。記録は、親子の悲願なんだろうな」
きっと生まれてから今まで、そのためだけに生きてきたようなものなのだろう。母親の期待と彼女の意思、どっちが強いかはもはや分からないが、彼女の頭の中には陸上のことしかない。
「そのために僕が必要だと思ってるだけだよ」
渚沙さんは低く唸った。ぐるる、と犬が唸る時にその様子はよく似ていた。
「だから一回だけ一緒にいて、その時のタイムを計ってみて、結果が悪ければ納得してくれるんじゃないかと思うんだ」
「……そうかもね」
「次に彼女が来たら、そう伝えてみるよ。だから、一日だけ我慢してもらえる?」
僕が聞くと、渚沙さんは不承不承ながらもうなずいてみせた。
「うん。すごく嫌だけど、うん」
「埋め合わせはするよ……」
「約束」
仏頂面のまま小指を出されたので、僕はそれに小指を絡めた。
「できるだけ早く解決するから」
僕のワガママだけど、やっぱり渚沙さんは笑顔の方が可愛いから。早く笑ってもらえるように、頑張らないと。
「ははは。来たぞ!」
獅子王さんは、懲りずに次の日の昼休みに現れた。今度は渚沙さんも同じ教室にいて、ちらっと不安そうに彼女を見る。
「小林の姿勢を良くして、身長を伸ばすかもしてない特殊コルセットをくれてやろう! お前、私とあまり身長変わらんからな」
一応僕の言うことを聞いていたのか、ちょっと歩み寄っている。それなら、話して分からない相手ではないかもしれない。
「あのさ。結婚はできないけど、一日だけ実験に付き合ってみることはできるよ」
「なに?」
昨日、渚沙さんに話してみたことを繰り返す。獅子王さんは、腕組みをしながら少し考えていた。
「よかろう。放課後、陸上部のトラックに来てみろ。逃げたら許さんからな」
しばしの沈黙の後、獅子王さんはそう言い放った。とりあえず納得してくれたのを見て、僕はほっとする。
「良かったな。なんとかなりそうで」
「……今日は機嫌がいいんだな」
「いや、お前が獅子王を納得させられるか、みんなで賭けててさ。今のところオッズは小林サイドのボロ負けなんだけど、俺はお前に賭けたから頑張ってな」
そうだった。こういう奴だった。僕はずっとその日悶々としていたのだが、啓介は放課後になると、喜々としてクラスメイトと共に僕を引きずっていった。
「こんな立派なトラックが、校内にあったんだなあ」
煉瓦色にコーティングされたトラックには鮮やかな白線が引かれ、中央には青々とした芝生が見える。陸上競技用に整えられたプロ使用のコートがあるとは聞いていたが、実際に見るのは初めてだ。
「陸上部は強豪だからな。金のかけ方が違うわ」
「獅子王の母ちゃんも、だいぶ寄付してるって聞くぞ」
クラスメイトたちもざわついている。しかしその声も、トラックに静かにたたずむ獅子王さんを見るとぴたりと止まった。
獅子王さんは金の髪をきっちりと結い上げて、タンクトップとショートパンツという最低限の装いに変わっていた。すんなり伸びた手足、その豹のような無駄のない体つきには、周囲の人間を黙らせるだけの威厳があったのだ。
「来たな」
獅子王さんは僕を見て言う。
「うん。さあ、好きなだけ走ってみてよ」
僕は首をすくめて、そう言うしかなかった。
獅子王さんは傍らにいたジャージ姿の陸上部員に目をやる。彼女はうなずき、号砲の準備に入った。
片膝をついた姿勢から、ぐっと体が持ち上がり、手と足先で体を支える前傾へ。ピストルの音が響くと同時に、獅子王さんの体が立ち上がって走り出した。
加速は一瞬。あっという間に走る体はトップスピードにまで乗り、そのまま百メートルを駆け抜ける。本当に風が通り抜けたようで、見ている人間が息つく暇もなかった。
「すっげえ……」
「同じ人間かよ、あれ」
自然と賞賛の声があがる。獅子王さんはそれを気にせず、顔を上げた。
「タイムは」
「十二秒と……〇三です」
陸上部員が答える。その瞬間、獅子王さんは派手に舌打ちをした。
「どういうことだ、小林」
「え?」
「私のタイムはいつも十一秒台だ。遅くなってどうする」
「そんなこと言われても。微妙に向かい風だったから、しょうがないんじゃ……」
「その運を呼ぶためにお前を呼んだのだが」
「だから最初から言ってるでしょ。僕が運を上げられるのは、
その後、獅子王さんが何度走っても結果は同じ。向かい風に邪魔されたり、風に乗って大きなゴミが足元に飛んできたり、靴紐が切れたりと、むしろアンラッキーなことばかり続いた。
結局、新記録どころか、タイムは十一秒台に乗ることすらなかった。
「もう帰るよ。そろそろ分かってもらえたと思うけど……」
僕が言うと、汗まみれになった獅子王さんがこちらをにらみつけてきた。一瞬食い殺されそうになったが、なんとか踏みとどまる。ここで断ち切らないと、いつまでも渚沙さんに悲しい顔をされることになるからだ。
「悪いけど、諦めて。僕に力があるとしても、きっとそれは一人だけのためなんだよ」
僕が言うと、獅子王さんはだいぶ間を置いてから、吐き捨てるように言った。
「そのようだな。無駄な時間をとらせた」
「ありがとう、分かってくれて」
「遠海に伝えておけ。私のように物わかりのいい人間ばかりではないから、お前についてはあまり触れ回るなよと」
獅子王さんの目は真剣そのものだった。僕は理由がわからなかったが、とりあえずうなずいておく。
「ああ、うん……大会、頑張ってね」
僕は彼女に一礼してから、競技場を後にした。遠く離れてからようやく、スマホを手にしてかけたかった番号を呼び出す。
「渚沙さん。終わったよ」
「──彩人くん? 獅子王さん、納得してくれたの?」
「大丈夫だと思う。悔しそうだったけど、自分で言い出したことを曲げる人じゃなさそうだったから。これからは僕の能力のこと、言いふらすなよって心配もしてくれてた」
「……そう」
渚沙さんは小さくつぶやいた。通話口の向こうで、長く息を吐く音が聞こえてくる。
「良かった」
その声が心底安堵した様子で、いつもの柔らかい調子に戻っていたので、僕もつられて口元が緩む。
「心配かけてごめん」
「そうです。心配したので、早速埋め合わせを始めてほしいであります」
相手が笑いながら、さっそくカラオケに誘ってくる。僕の歌はお世辞にも上手とはいえないんだけど……まあ、渚沙さんが喜んでくれるなら、良しとしようか。
※今回のお話は楽しんでいただけましたでしょうか?
「彩人と渚沙さん、仲直りの後はどうなるの?」
「学校の情報が知りたいな」
「獅子王さんの懸念は伏線?」
など、思うところが少しでもあれば★やフォローで応援いただけると幸いです。
作者はとてもそれを楽しみにしています!
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