Havenness

Havenness

         


coal


「私、帰ってきちゃった」

「お姉ちゃん?」

荻和葉月おぎわはづきは突如、実家に帰ってきた。

家にはまだ結婚してない妹の、水見みずみひよりと父がいた。

さとるさんは?」

夫の覚からは「無視するなよ」のメールだけが入っている。

「お母さんになりに来たの」

葉月の母、彰子あきこは脊椎カリエスを病んでいた。

その死の一報を聞いたのはベトナムツアーでメコン川を渡っている途中のことだった。葉月はツアーコンダクターだ。

最期まであの人が分からなかった。

母が死んだ時に帰れなくて帰ってきた、わけではない。葉月に悼む気持ちはなかった。彰子は葉月にばかり無理を強いる母親だった。

ツアーは代わりの添乗員に代わってもらって帰った。

知らず知らず母の気に入りそうな事を言う自分がいた。

私の母で幸せでしたか?


「ラーク、三つね」

「すみません、売り切れなんです」

「え?」コンビニは新聞記者でゴッタ返している。

「あ、ふゆさん」

ばったり会ったのは赤内あかないレルだった。

「さよならはもう一度の遠回しってホントですね」

真神まがみふゆは何のことか分からなかった。

「取材はお前一人か」

「はい。うちからは私だけです」

レルはもう残り少なくなったパンを買っていた。ごはんものは売り切れだ。

「そうか。お前、ラーク持ってるか?」

「持ってませんよ。私、煙草吸いませんから」

「ちっ」

みんな荒ぶっている。

しかたない。事件が事件だ。

ここで四人の遺体が相次いで発見された。

そこで浮上してきたのが遠上おちのぼるという容疑者だ。上はあやふやなほのめかす供述を繰り返していた。まるで覚めない夢にいるように。

上は新聞配達員だった。

「被害者の女性たちに関連性はなしですねー」

「場当たり的だし、時間の問題だろ」

「遠は変な事ばっかり言ってますね。気になりませんか?」

「責任能力を狙ってるんじゃないか」

「ん、でも、過去の大量殺人者を崇拝してるみたいな事を言ったり、本丸の動機についてはさっぱり」

上は過去の犯罪者を例に挙げ、自分はその第二だ、と言った。その犯罪者から届いた返事は「精神鑑定も受けずに第二を名乗らせない」だ。

犯罪者同士にも何か関係があるのか?

「いい事をしたと思ってる」その一方で、なぜこんな事をしたのかと問われると、「答えられません」

上に発声障害があるのは早くから報じられた。それが彼を何かに歪ませたのか。

この事件は劇場型犯罪と呼ばれている。テレビや新聞の読者も巻き込む。まるで警察を挑発するように近辺に遺体を置いたり、それは逮捕されてからも続いた。

現場検証では上は手錠をかけられながら笑っていた。

車に乗せられる時、詰めかけた新聞記者たちに今の気持ちを尋ねられると、「教えてくれたのはあなたたちじゃないですか」と言い放った。そのことは新聞では取り上げられなかったが、テレビではそのまま放映された。

上の自宅の家宅捜索も当然、行われた。上は二階建ての家に一人で暮らしていた。

下はリビングに占拠され、上が上の部屋になっていたという。

公開された少ない写真には、おまるが部屋の中に置かれ、幼女趣味の品物が何点か押収されたという。

上の部屋に際立って飾ってあったのは耳を押さえている天使の絵だった。

取り調べを受けている上は頭を前後に振っていた。

動機を聞かれ、耳を押さえた。

「しろ・・」声が聞こえる。

聞きとりにくい声で何か話した。

「あ?」

もう一度、上が口を開くことはなかった。

なさい。彰子の口ぐせだった。

「ちゃんねー、覚さんと何かあった?」

「ただめし食えて楽な身分だな」

新聞を読んでいる父は不機嫌だ。テレビでは四人殺害のどこかの事件をやっている。

葉月も覚ももうアラウンドフォーティだ。

今は別居状態と言えるのだろうか。

葉月は覚に何も不満という不満はなかった。

彰子はこんな冬の日、葉月だけ外で遊ばせてくれなかった。

実家暮らしも悪くない。なぜ母になろうとしたのか葉月にも分からなかった。

ただ、何かうねりのようなものに自分がいる、そんな感覚だけがした。

「いつか、イタリアン行きましたね」

田舎の街にはイタリアの国旗の店。

カラスが散って飛ぶ。

信号機がゆっくり点滅する。

「今、遠は精神鑑定か」

排水路には泥が溜まっている。ここで第一被害者が見つけられた。

濡れた黒い髪を口に挟んで死んでいる女。何かを恨んでいるような。

「物語の世界だったんじゃないか、あいつにとっては」

「人間が死なないとでも思ってるんでしょうか」

「俺の先を見越す力には定評があってな、責任能力あり、死刑か無期懲役、遠は判決を受け入れて控訴をしないと見た」

「死刑になりたくて人殺す人もいましたもんね」

「何か食ってくか」ふゆはイタリアンの看板メニューを見た。

「こういう地元の人たちのお店って入りにくいですよね」

「貝とキノコのポポ、・・これ何て読むんだ」

「ポモドーロ、ですね」

「やめとくか」

ふゆは伸びをした。

「平凡な事件だな」

「え?」

「俺の第一印象」

「理由を聞かせてほしいですね」

「不純物が一切入ってない白にはなれなかったってことだ。遠にはきっと動機もある、悪い事をしたと意識もある、そういうのは汚れた犯罪者だ。生臭い凡くらだよ」

「動機は復讐か何かでしょうか。私たち社会に向けて」

「その内、明らかになるさ」ふゆは欠伸して、ついでに出た涙を拭いた。

「お母さんいなくて大丈夫なの?」

「私だって主婦よ」

「じゃあお小遣いもくれる?」ひよりは手をすりすりした。

「あんたバイトしてんでしょお」

「久しぶりだなー、ちゃんねーの晩ご飯食べるの」ひよりは伸びをした。

目はメコン川のまま。あの日、見た泥色の夕焼けのまま。

葉月は気づくとタンタンと包丁で叩いていた。その音は母に似ていた。

「悪魔が乗り移った」上は医師にそう話した。

「いつごろからですか?」

上の指がピクッと動いて何かを指差した。

医師がそっちの方を向いても、今度は指をかじって子供のようだった。

「何か聞こえますか?」

「声?」上は目を上げた。小刻みに揺れる瞳は何かを思い出しているようだった。

「題名のない殺人だな、これは」

何か深い大きな思い違いをしているような。レルは交差点に立った。

「別居だ、別居」覚は酒を何本空けたか。

純白のようになれなかった子供たちは瞳を閉じて。海の青さをもう一度伝えるために・・。

窓の外には空が広がっている。空を今、海に流そう。

レルの止まったさくら色の瞼。


so long


「不起訴?」ふゆは驚いた。

「理由は明らかにしてません。諸事情を考慮した、ようです」

「そんなものあるかよ、よしっ、取材だ取材」

「ふゆさん、釈明会見するそうですよ」

ふゆは笑った。

「どこまでも劇場か」

遠上は記者たちに囲まれていた。

「人を殺したんですか?」

「他に犯人がいると思いますか」

マイクが向けられる。

ふゆとレルはそれには加わらないで遠くから見ていた。

放射冷却で夜の内、気温が下がりいつになく寒い。

場所は半屋外で二階に続く階段を傘にしている。

ちょうど影になった上は記者たちの背で見えないが何か上機嫌で話している。正面はテレビカメラのために開いている。

「おかしいと思わないか、ああやって犯罪者を得意にするんだ」

「精神鑑定を踏まえてでしょうかねえ」

「しろ・・」

「え、今、何か、」記者が言いかけた時だった。正面から割り込んできた男が上に体当たりした。

ふゆもレルも身を乗り出した。

上はそのまま腹を押さえて蹲った。血が出ている。

「ナイフか」

刺した男は両手を上げていた。その手からナイフが落ちる。

男はその場で取り押さえられた。上は倒れたまま動かない。

「生放送だろう」

誰かが呼んだ救急車の音がした。

取り押さえられた男は「俺はいい事をした」と喚いていた。義憤に駆られてだろうか。

遠はそのまま帰ってこなかった。

刺された遠はそれ以降、名前も伏せられるようになった。

「覚めない夢にいたんでしょうか、あの時も」

「そうだなあ、あいつにとっては夢は現実だったのかもな」

返り血を浴びた記者は靴を取り替えた。


 ベトナムでは走り梅雨のような気候だ。ノンラーと呼ばれる笠帽子を被って女性たちが行き交う。

空には日暈が差して、時はゆったりと流れ、人々には悩み事がないようだ。

川が近く、田畑は潤され、農村地域でも都市部でも水の匂いがする。

ベトナム絵画と言われる安い画商がどこにでもある。それは青だ。

メコン川では小魚がかかり、辛くて酸っぱい料理で痩せた腹を満たす。

木洩れ日の光、生い茂る草の中には蛇が潜んでいる。

いくつかの画商を回って、ある一店に入ると、同じような絵がある。

耳を押さえた天使の絵だ。


「パンにはパンを」

「え?」

「いや、そういう世の中だったらいいな、と」

「珍しいですね、ふゆさんが」

四人の遺体はどれも血が拭き取られた可能性があった。そのことだけが共通点だったから犯罪者は一人だ。

遠はそのことを口にしなかった。

「痛ましい、事件でしたね」

「ドラえもんの頭だけあっても何の役にも立たない」ふゆはガードマンを見ていた。

今、ああして働いているが誰にでも秘密はあるだろう。

「一見普通じゃ分からないんだ。ああいう人たちにも・・」

「したー」レルはフィーチャーフォンで話していた。

「今更、遅いですよね」レルは座った脚の間で手を組んだ。

「遠の部屋から血を拭いた跡があるタオルが見つかったようです」


naught


 彰子がまだ飯島いいじまだった頃、ベトナムを一人旅していた。彰子の母は満州引き揚げ者だった。

「声」が聞こえたからだ。あと、あるビジョンも。

私は蔓が垂れているある一軒の暗い家に入る。そこの前では誰か、若くない女性が掃き掃除をしている。

私は「トルコさんは」と聞かなければならない。

初めからそう決まっている。

畦道のような一本道を歩いていくとノンラーを被った人たちが、ある人は挨拶をして通り過ぎていく。

私は話してはならない。

行き当たった。「水蓮」のような家だ。

女が掃き掃除をしている。

「トルコさんは」

手だけで奥を差した。

入口は開いている。

彰子は手前にあった椅子に座った。

トルコはベトナム絵画の女だった。

「母の絵を」

写真は渡さなかった。

トルコは肯いて、何も言わず彰子の方を向いて描き始めた。

出来上がったのは天使が耳を押さえている絵だった。

「ワンモア」

彰子は一本指を立てて、紙幣をその女の胸ポケットに押し込んだ。

今度は彰子の方を見ないで、少し時間をかけて描いていた。

「ワンモア」渡されたのは同じ、耳を苦しげに押さえた天使の絵だった。彰子は自分の耳を押さえた。

持っている紙幣を全て女に渡して、帰ろうと席を立った。

持って行かないのかと言っているようだ。

「乾くまで待って」

水見と結婚した後、私は葉月という名の娘を授かった。

いずれ、私は死ぬ。

彰子は葉月を自分のスペアとして飼い始めた。

いきなり聞こえてくる声。

背中が痒い。私は穴だらけになって死ぬのだろうか。咳が止まらない。


「そういう感覚があるのは事実です」ふゆとレルは上の精神鑑定をした医師に事情を聞きに来た。

「ゼンチ? 前の知と書いてですか?」

医師はゆっくりと肯いた。

「不思議な感覚は誰もが持っているものでしょう。それが人一倍、不幸か鋭い人たちです」

ふゆとレルは顔を見合わせた。

「そんなはずない」

「見えるものも含めてですか」

「色々、あるでしょう。私は専門家じゃないので分かりませんが」

「そんな専門家っているんですか?」ふゆは笑った。

「この世にはいません」

「どう思いました、あの話」

「どうもこうも・・、」ふゆは首を掻いてため息を吐いた。

「どうやって確かめろというんだ」

「私は信じる方です」

「まあ、いい」

「毎日に満足して生きることですね、それしかないでしょう、人生って」

「前向き発言だな」


「そろそろ帰ったら?」

葉月はまだ実家にいた。

「覚さん、待ってるよ」

「何でだろ? 新聞読むと手が痒くなる」

「さあ、インクのせいじゃない?」

テレビでは四人連続殺傷の続報をやっている。中身はこれまでのおさらいだ。

テレビの前と中の間に神は存在しない。

「チャンネル変えていい?」ひよりがリモコンを手にした。

「おかあさんといっしょ」がやっていた。

寿限無寿限無ごこうのすりきれ・・。

人は誰もが子の幸せを願って名前を付けるもの。

裂けても穴だらけになっても私を呪うのですか?

「見て、救急車だよ」

葉月はわざわざ立つ事はしなかった。

いつまでも傍観者だ。

ウーウー。遠ざかっていく。興味などない。ふゆの家にもレルの家にも聞こえていた。

明けないよるが明ける。白い太陽が降ってくる。黒いバスのように救急車は走り抜ける。

「オフィ、リア」

雪に煙る。

死んだことにも気付かなかった。

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ブンヤ 森川めだか @morikawamedaka

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