婚約破棄
会場は騒然としていた。フェビアン伯爵家の長男が話し出したと思ったら、いきなり婚約者に対し、婚約破棄を突きつけたのだから。
「え……と、一体どういうことでしょうか?」
チェルシーは理解できないといった、困惑した表情をしていた。
「どういうことも何も、そのままの意味だ」
「私との婚約を破棄する……と?」
「そういうことだ」
ライネスの言葉に一層混乱を深めているような表情だ。
「……理由を伺ってもよろしいでしょうか?」
「考えるまでもないだろう。お前が彼女より劣っているからだ」
「彼女ですか?」
チェルシーは彼の横にいる女性、メリル・ランチェスターを見る。
「彼女があなたと懇意にしているのは知っておりましたが……。どうして私が彼女より劣っていると?」
「実際にこの目で見させてもらったからな。お前よりもより早く、より的確に書類を捌いていた。お前とは比べ物にならない」
「まさか、無関係の彼女に書類仕事をさせたのですか!?」
「問題はないだろう。どうせ彼女とは一緒になる運命なのだから」
信じられないといった表情をしていた。フェビアン家とハイランド家の間の内情を、全く関係ない赤の他人に漏らしているのだから。
「私は自身を優秀だとは思っておりません。実際彼女より劣っているかもしれません。だけど、今回の婚約はフェビアン家、ハイランド家の両家で合意した政略結婚。一個人であるあなたが勝手に決めていいものではないはずです」
一瞬ライネスの視線に鋭いものが見えたが、すぐさま霧散して落ち着いた様子で話す。
「問題はない。父上もきっと理解してくれるはずだ。俺とメリルが結ばれた方がいいと」
「そう……ですか……」
チェルシーの視線が下に向く。そこにあるのは、悲しみか、それとも後悔だろうか。
「わかり……ました。婚約が解消され、もう私とあなたはただの……赤の他人ということですね?」
「そうだ。もうお前は、身内でも何でもない。だから、どこへなりとも行くがいい」
「そうさせて、もらいます。けれど、私も一つだけやり残したことがあるのです」
「何だそれは? まぁいい、何にしろさっさとやって出ていくんだな」
「では……」
そう言うと、彼女は衆人環視の目があるにも関わらず、ドレスを脱ぎ始めた。
「お、おい……」
ライネスとしても、いきなり脱ぎ始めた元婚約者の行動に驚いている。下着があるとはいえ、何故上半身を晒すのか。だが、隠された肌が露わになることで、その表情がより驚愕へと変化する。
ドレスによって隠されていた彼女の肌には、至る所に青あざが作られていて、とても痛々しいものだった。
「この傷はライネスにつけられたものです。今までは両家のためと思い我慢してきました。けれど、あなたとはもう赤の他人。……私が我慢する必要はもうありません」
その傷を見た周囲の人々がざわめき出す。「あの彼が……」「本当なのか?」と出てくる言葉は懐疑的なものが多かったが、自分の婚約者を平然と切り捨てる今の姿を見た後では、周りも彼がやったのかと信じ始めていた。
「き、きさま」
ライネスは今にも掴みかかろうとするほどに激昂していた。怒りのまま彼女に近づこうとしたところで、それを遮る声があった。
「一体、これはどういうことかな?」
振り向くと、そこには彼女の父親、ハイランド子爵の姿があった。
「ライネス君。娘が君にされたと言っているけど、本当かね?」
「ち、違う。俺じゃありません」
慌てて弁明するが、周囲からは彼がやったのではないかという声が広がり始めていた。
「ライネス! お前というやつは!」
さらにそこへ現れるのは彼の父であるフェビアン伯爵。今までは目の前で起こっている事態に気が動転していて、呆然と立ち尽くしていた。だが、ようやく我に返り、自身の息子が起こした所業に怒り心頭だった。
「彼女の家と繋がることが利益になると理解してただろう! なのに、それを壊すようなことをして」
「そ、それは、彼女よりもメリルの家と繋がる方が利益になるからです」
「それを決めるのはお前ではない! それに何だ、あの彼女の傷は!? お前は私に隠れてあんなことをしていたのか!」
「ご、誤解です父上。彼女が俺に罪を着せようとして――」
「詳しく話を聞く必要がありそうだね」
ライネスは両家の親に問い詰められて狼狽していた。
そんな様子を冷めた目で見つめていたチェルシーは、メイドに連れられてこの場を去ろうとしていた。
「お、おい、お前! 婚約者のくせにこのまま俺を放って行くのか!」
こんなことになったのはお前のせいだ。だから助けろと言わんばかりに睨んでいたライネスだったが、彼女は振り返ることもなく答えた。
「元婚約者ですので……。そちらのメリルさんに助けてもらえばどうでしょう?」
「そ、そうだ。メリル、君からも父上たちに言ってくれないか」
懇願するような目でメリルを見るが、
「……じて」
「ん? 何だって?」
「信じて……たのに。あなたが、そんなことする人じゃないって……」
「だから、あの傷は俺がやったわけじゃ――」
「もう、あなたのことが信じられない……」
「ち、違う」
弁明のためメリルに手を伸ばそうとするが、彼女はそれを拒絶した。
「い、いやっ」
ライネスの手から逃れるように、彼女は一歩身を引いた。
その行動に呆然とするライネス。チェルシーを捨ててまで結ばれようとしていた彼女から見捨てられれば、それも当然だろう。
「あなたとは、もう一緒になれない。……さようなら」
ライネスから逃げるようにしてメリルもこの場を去っていく。
「ま、待ってくれ!」
ライネスは彼女を必死に呼び止めようとするが、彼女はそれに応えることはなかった。
「さて、話の続きをしようか」
胸に抱いていたであろうこれからの希望が失われたことで、ライネスはすでに心ここにあらずだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「これで依頼完了でいいかな?」
「えぇ。ありがとうございます」
その日の夜。チェルシーの屋敷の前で、エリーゼは彼女から残りの報酬を受け取っていた。
「ごめんなさい」
「えっと……。急にどうしたのですか?」
突然謝りだしたエリーゼに対し困惑した。
「あなたの協力が必要だったとはいえ、あなたに体を晒させた。あなたにとって、とても辛いことだったのに……」
完全に叩きのめすためには、彼がどんな非道を行っていたのかを見せつける必要があった。それには、彼女の傷を見せるのが効果的だった。結果として、彼の行為が明るみになり、最良の結末になったとは思う。だけど、彼女にはその分辛いことをさせてしまった。そのことを強く悔いていた。
「……確かに、私にとってあの傷を見せるのは辛いことでした」
「ごめんなさい……」
「けれど、そのおかげで彼との婚約は破棄された。もう彼からの暴力を我慢する必要はないのです」
彼女の顔は晴れやかだった。
「あなたは私を救ってくれたのです。私にとって、あなたは物語に出てくるようなヒーローなのです。だから、謝らないでください……」
彼女はエリーゼに微笑みかける。
「……うん。……ありがとう。少し心が救われた……」
「ふふ、私もあなたを助けることができたのですね」
「こっちが助ける側なんだけどね」
お互いに笑い合う。
「彼は、この後どうなるのでしょう?」
「さぁ? 廃嫡とかじゃないの?」
周囲の目がある中で、あれだけの醜態をさらした。全てなかったことにできるわけがない。家同士の取り決めを潰し、相手の令嬢に暴行を加えていたことが明らかになったのだ。婚約破棄は当然として、フェビアン家から賠償金が払われることだろう。
フェビアン家に損害を与え、彼自身の信用も失墜したため、貴族としての彼の使い道もなくなった。貴族社会で彼の姿を見ることもないだろう。
「さて」
「もう行くんですか?」
「うん」
彼女との依頼は果たした。残りの報酬も受け取ったため、ここに長居する必要はない。
「それじゃあ」
フードを被り直し、彼女に背を向けてエリーゼは歩いていく。
夜の暗闇に消えていく彼女に向かって、チェルシーは自然と頭を下げていた。
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