8/29 「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」感想



 ちょっと話題になっておりましたので、シンエヴァ鑑賞直後にブログに書いた感想を転載しておこうと思います。以下の文章は、2021年3月17日に公開したものです。




■以下、転載



 公開から1週間以上経過しましたので、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の感想を書きます。

 ネタバレはあります。未鑑賞のかたやネタバレを回避したいかたは、この先をごらんにならないようにお願いします。







 以下、ネタバレあり







 まず前提として、僕はシンエヴァに良い印象を持っていません。

 というか、鑑賞からわずか一週間ほどしか経っていないのに、作品内容についてあまり記憶が残っていないというのが現状です。エヴァに対する興味関心も驚くほど薄れており、あまり心が動かないというのが正直なところです。

 それでもこうして感想を書くのは、本放送時にシンジくんと同い年で、「アスカ、来日」の衝撃も、「男の戰い」の熱狂も、「終わる世界」の呆然も、それこそ世界観を塗り替えるような強烈さで味わわされてきた人間が、ここでそれに決着をつけなければどうするんだ、という思いがあったからです。


 ではシンエヴァは駄作だと思ったのか、というとそういうわけでもなくて、むしろ大変すばらしい作品だったと思う。


 前作「Q」を鑑賞した直後、世間で批判的感想が噴出する中、僕はブログにこういう記事を書いていました。




(引用)


 シンジ君は立ったのです。ラストシーン、丘の向こうへ消えていく三つの足跡。あれほど弱り切っていても、彼が自分の足で歩いている証拠。旧劇場版の、歩くことさえできないまま、ひきずられ、エレベーターに押し込まれ、たどり着いた先でも座り込むばかりで、「しょうがないじゃないか」と言い訳ばかりして、ついにはお母さんに叱られてしまったシンジくんとは違う。

 この新たなシンジくんには、絶望の底から立ち上がる強さがあるのだ。

 ならば、これの絶望が最終決戦を盛り上げるための布石でなくて、一体なんだというのだ。


 (中略)


 エヴァはきっと、前へ進んでいます。


 (中略)


 登場人物たちがみんな、シンジくんへの思いやりに溢れているのも、きっと原作と印象が違うところなのでしょう。アスカは元気よく飛び回り、なんだかんだでシンジくんに気を揉んでいますし、マリさんはここぞという時のキレのあるお説教係。ミサトさんがシンジくんに状況を説明しなかったのは彼の心境をおもんぱかってでしょうし、だからこそ一見冷たく見えて、結局シンジ君を殺すことができなかったし……リツコさんはそんなミサトさんを理解して、フォローしている。原作ではろくに絡みの無かった冬月先生が大人の「責任」を果たし、そしてカヲルくんは心からシンジくんを救おうとしていた。

 結果として今回上手く行かなかったとしても、そうした周りの人々の気持ちがシンジ君を少しずつ変えて行っている。俺にはそう思えます。


2012年11月26日の記事より引用

(注:当日記ではこちらに掲載しています。

https://kakuyomu.jp/works/16817330655068808563/episodes/16818093080228481039




 シンエヴァをご覧になったかたなら説明するまでもありませんが、上記の内容はシンエヴァでほぼ裏付けられました。

 ミサトさんやアスカの真意は明確になりましたし、それに加えてトウジは父性、委員長は母性、ケンケン(あえてこう呼ぶ。お幸せに!!)は一歩身を引く冷静さで、最大限にシンジくんを労わってくれた。Qの頃から、いや序、破の頃からみんなの声に耳を傾け、シンジくんが少しずつ成長していったからこそ、今ここで彼は「なんでそんなに優しいんだよ!!」と愛を叫ぶことができた。

 Qの当時、「誰かちゃんと説明しろよ」とか「ミサト最悪」みたいな感想は大変多かった(なんなら今でも多い)のですが、そのような声を聴くたびに僕は、「ばかやろう!! ちゃんと見ろよ!! 描いてあるだろ……ちゃんと描いてあるだろ!!」と憤りを覚えていました。

 こうした描写の中に潜むキャラクターたちの真意が、シンエヴァではあけっぴろげにさらされ、言葉によってきちんと説明されていた。シンエヴァのおかげで、連動してQが大変に分かりやすい作品へ昇華されたのではないかと思います。

 やはり当初(新劇場版がまだ「ヱヴァンゲリヲン」ですらなかった初報の頃)の予定通り、「後編(Q)」と「完結編(シン)」は同時公開されるべき一対の作品だったのでしょう。


 それが僕には気に入らない。


 僕は言葉が嫌いです。

 言葉で語られたものは信頼できない。言葉は想いを伝える道具であると同時に、あるいはそれ以上に、想いを包み隠し雲散霧消させてしまう凶器である。なぜなら、想いという複雑怪奇で巨大すぎるものは、とうてい完全に言葉にはできないから。言葉にした時点で、その想いは不完全なものにならざるをえないから。

 でも僕には他にましな道具が見当たらない。だから仕方なく言葉を使う。どうにか伝わってくれと祈りながら言葉を重ねる。そんな不自由に身を浸している。


 しかし世の中には言葉以外による表現もある。映像はその最たるもので、まあ映像には映像の文法もあり、不自由もあろうけれど、少なくとも言葉よりは物事を具体のままに表すことができる。

 エヴァンゲリオンはその技を極限まで高めたような作品で、キャラクターの表情や動きは無論のこと、構図、間の取り方、ほんの一瞬のイメージなどへ巧妙に情報を詰め込んでくる。その技術の素晴らしさはいまさらくだくだ説明するまでもないことで、ほとんどありもの素材の組み合わせと演出技術の妙だけで70分の映画を1本成立させてしまったことすらありました。

 今回もその傾向がないとは言いませんが、いつもにくらべて淡白なのは確か。


 言葉ではなく、もっと映像で見せてほしかった。それがシンエヴァの、いちばん気に入らないところなのです。



 それはさておき、個々のパートについても感想を述べたいと思います。


 まずはなんといっても「第3村」。とにかくここが良かった。

 序盤で、あの不気味な防護服の中から聞きなれた声が聞こえてきた時の、「あっ……よかった……よかったあああああああ!!! 生きてたのかケンスケー!!」という、あの安心感。そのあとのシンジくん復活までの流れはすばらしい演出の連続で、もう何もかもが愛おしい。

 糸の切れた人形のようになっていたシンジくんが、いったん吹っ切れるや、ケロッとして食器を洗ってるシーンなんか特に良かった。そうなんだよな。「調子が悪い」ときにはこの世の終わりみたいな気持ちになるけど、「調子が良く」なるとそんな気分はウソのようにさーっと吹っ飛んでしまうんだよな……と、しみじみ思いをはせたりもしました。


 戦闘パートについては、まあこんなもんかな、という感想でしかないのですが、ミサトさんが例によって特攻始めた時には「やっぱりネモ船長じゃーか!!」とツッコミたい気持ちを抑えるのが大変で。

 あと、新弐号機が使ってたあのノコギリ……まさかあれはデュアルソーということなのか!? うそだろエヴァ2の要素まで取り込んでくれるのか!? と、いらんところに興奮したりもしていました。


 補完パートも実に見ごたえがありました。(日常、戦闘、補完が3本柱になるあたりがまさしくエヴァだな……)

 ゲンドウがああいう人物なのは旧劇場版の時点で明示されていたことで、序、破にも伏線がありましたから、「まあそうなのかな」という感じではあります。一方、ぜんぜんカッコつける余地もないまま「好きなものはピアノ」とか言わせちゃうところが、エヴァとしてはかなり画期的だったと思います。そうかピアノが趣味だったのか……そういえば、音質にこだわってS-DATとか使ってたんだもんな……シンジくんの楽器の才能は遺伝だったのか……と、妙に納得。


 シンエヴァの補完パート最大の見どころは、これまで完全に人間の領域を超えた「神」として描かれ続け、人間臭さを一切排除されてきたふたりの人物の内面に焦点を当てた所でしょう。

 渚カヲルと碇ユイです。


 カヲルくんの真意がああだった、というのは、これは完全に意表を突かれました。これまでの演出で、カヲルくんは人間的な感覚を持っていないんだろうな、と思い込んでいましたので、あんなふうに素朴なエゴに駆られて動いていたのだとは思いもよらなかった。かつて卓越したケレン味の描出によって「なんか世界の謎の核心について知っている超越的謎の美少年」キャラの代表格となったカヲルくんが、ここへきてあたりまえの人間としての側面を見せてくれたのが、端的に言うと嬉しいです。


 そして碇ユイ、彼女もまたずっと謎の女神でした。これまで登場した断片的な描写はことごとくその印象を助長するものだった。

 が、シンエヴァでは碇ユイも人間になった。象徴的だと思ったのがヴンダーに搭載されていた「箱舟」。あれは旧劇場版のクライマックスで明かされた碇ユイの目的、「エヴァの中に宿ってたったひとりで無限に生き、人類の生きた証を永遠に残す」に対応するものだと思われます。

 はっきり言ってこれは狂人の発想であり、まともな人間ならとても耐えられそうにないと思いそうなものです。それほど壮大な女神の意志を、シンエヴァではなんと、加持リョウジが「人類だけが生き延びることに大して意味はない」とばっさり切り捨ててしまう。そして可能な限りの種を保存した箱舟を作り、碇ユイの目的をアップデートされた、しかも人間にも受け入れやすい形で、引き継いでくれた。

 生命というのは本来、動的平衡の中にあるものです。自分の肉体と思っているものですら、毎日の食事で再構築され、呼吸によって霧散していく。だから生命は単独では存在し得ない。多くの個体の間で物質が流転し続けるシステム自体が生命である、というのは納得のいくところ。だから残すなら地球の多彩な生物種まるごとでないと意味がない。こうして旧世紀版の碇ユイは完全否定されてしまった。


 そこで碇ユイに設定された新たな目的とはなんだったか?

 それは、シンエヴァまでに起きる全ての出来事を予見したうえで、最後の最後の瞬間に我が息子を破滅から救い出すこと。


 これはすごい。誰の発案かは分かりませんが本当にすばらしいアイディアでした。

 女神としての壮大さは薄れたかもしれませんが、事態の流れを全部予想していたとすれば、その先見の明はまさに圧倒的。いにしえの張良・韓信すらこれに如かずという感じで、むしろ凄味は増した。そのうえ目的が息子の救出であるという、人間的にしっくりと納得のいく動機になった。ここすごく好きです。



 最後に、「すべてのエヴァンゲリオン」について。

 おそらく意図的に、シンエヴァには過去のエヴァ関連作品の要素が散りばめられていました。


 たとえば先ほど話に出たデュアルソーもそうですし、ゲンドウとの対話という結末はエヴァ2の「釣りエンド」を彷彿とさせます。ゲンドウが神となりATフィールドを張るのはマンガ版。最終的に平和な世界でのシンジくんたちが駅で邂逅するのもマンガ版の結末。

 さらに……これは本当に推測なのですが、「スーパーロボット大戦」の要素すら入っているのではないか、と思われます。

 スパロボに出演した時、シンジくんがとにかく精神的に強い、というのはよく言われているところ。その原因として引き合いに出されるのが、マジンガーZの兜甲児をはじめとする他作品のヒーローたちです。


 おもえば、旧世紀版はたったひとりの物語でした。というのは、シンジくんのみならず、ミサトさんもアスカもゲンドウも、主要人物のことごとくが同じ悩みをかかえた、同じ穴のムジナ(同じ穴のヤマアラシ?)ばかりだった。だから誰と対話をしたって、それは自分の心を覗き込むようなもの。理解は深まるかもしれないが、解決策もそこにはない。つまり、エヴァに「他人」はいなかった。良くも悪くも内省的な物語だったと思います。


 しかしスパロボではそうはいかない。各作品から、ぜんぜん性格の違う「他人」がどしどし押し寄せてくる。必然的に交流が……というかクロスオーバーが生まれる。兜甲児のパワーに感化され、シンジくんは原作よりも強く成長していく。

 その「他人」として登場したのが、真希波マリではなかったか。

 というのは、「破」を鑑賞した直後あたりに、知人と感想を話しているなかで出てきた話なのですが、シンエヴァを見て、ここも推測通りだったのではないかと感じています。つまりマリは兜甲児の化身だった。


 過去のエヴァンゲリオン関連作品のみならず、クロスオーバー作品での客演に至るまで、シンエヴァで言及される「すべてのエヴァンゲリオン」には、ほんとうに掛け値なしに「すべて」が含まれているのではないかと思います。そのうえで、ああしてきちんと話を畳んだ。そこについては本当に良かったと思います。


 なんかまとまりがないですが、とりあえず感想はこのくらいにしておきます。

 お付き合いありがとうございました。

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