8.目に見えない真実-4

 それからしばらくベルナの受難は続く。先ほどまで通用していたコマンドが通用しなくなったり、グレゴリアに文句の一つでも垂れれば言葉の節々を拾われ誤作動したり、陰影グリザイユの奇行に一々対応せざるを得なくなった。


 肩車コマンドやお姫様抱っこコマンドはなぜ存在する?《白金樹フールズポイズン》は一体何を目指していた?


 挙句の果てに、鋼の意志で「あああああああああああッ!」と大声を出して咆哮する衝動を抑え、地団駄を踏む事に留まったベルナに対し陰影グリザイユ達は手のひらで胸筋、腹筋、大腿四頭筋などを軽快に叩き、非常に微妙に分かる音程差と安定したリズム感で誕生日の歌を演奏した。


 どうやらベルナの地団駄のリズムが機人マキナ族の二進法言語で「私、今日誕生日」の意味らしかった。陰影グリザイユ達の演奏が上手かった事が何よりも腹立たしい。


「グレゴリアさん?これいつまで――」


「しっ」


 度重なる精神疲労により、断層ヴォイドの広さに痺れを切らしたベルナがグレゴリアに掴みかかろうとしたまさにその時。天人は右人差し指を自分の唇に当て、その顔はこれまでにない程の真剣さで少しこわばっていた。


 その仕草に釣れられ、ようやくベルナは今の状況を正しく思い出す。


 そうだとも。


 自分達は今、危険極まりない断層ヴォイドにいる。仲間に文句を言ったり、自分のストレスをぶつけたりするのは愚の骨頂である。


「っ……」


 目でグレゴリアに状況を問う間もなく、いきなりベルナは彼女により手を強く引かれ、危うく転倒しそうになる。


 熱を帯びる柔らかい何かにより体をつつむ。翼だ。グレゴリアは何かを察知し、咄嗟に翼を広げベルナを庇ったのだ。


 一瞬遅れて、この世のモノとは思えぬ極寒の空気層がベルナの肌を撫でる。直後に、全身を押し潰さんとする横方向の衝撃波と、臓腑が潰えたのではと勘違いする程の鋭利な絶望感が彼女の脊髄から駆け昇る。


 震えが止まらない。


「苦しい」。「悔しい」。……「憎い」。


 ベルナとて、甘やかされて育った訳では断じでない。粗暴な冒険者には分からないかもしれないが、彼女もまだサバイバーだ。だから、心理的苦痛には慣れているつもりだった。


 だがこれの次元は違う。「感情」に殺されそうになるのは、初めてだ。


 視界が極度に狭まられ、暴風雨に打たれたガラス窓のように黒い点が彼女の目をおおう。

 頭が痛みによるのではなく、情緒の過負荷により張り裂けそうになる。


 一瞬、ベルナは手放そうとした。楽になろうとした。


 しかしながら、爪で自分の太ももを深く刺し、彼女は耐える。


 負けない。何一つ成せないまま諦めてたまるものですか。自分の足から流れてくる赤い血潮を目で追い、ベルナは感情の嵐に抵抗する。


 すると、耳元で小さく、それは響く。


 囁きのような歌だ。一日の労働で疲れ果てた母親が、それでも眠りゆく我が子を見守り、背中を撫でながら喉の奥底から絞り出した子守唄。


 この世の、どんな曲よりも美しく優しいメロディだった。蜂蜜を溶かした暖かい牛乳のようにそれはベルナの身に染み込み、彼女をがんじがらめにする負のエネルギーを打ち消す。


 その正体がグレゴリアの歌声であると認識するには、三十秒ほどかかった。


「『リリスよ去れ』、でした。恐怖、混乱や魅了などの異常状態を打ち消す楽曲特殊技能スキルです。落ち着きましたか?」


 グレゴリアはベルナの瞳を注意深くチェックしながら、左手で血が止まっていない彼女の腿に触れた。瞬く間に傷は癒え、痛みも嘘のように引いていく。


吟遊詩人バードだけじゃなく、すごい吟遊詩人バードだったのですね、グレゴリアさんは」


「お褒めに預かり恐悦至極」


「本当に、綺麗な歌でした」


「喜んで頂いたのであれば何よりです。そして――申し訳ございませんでした」


 ベルナは驚く。


「どうしてグレゴリアさんが謝るのですか?私達を危険に晒したのは――」


「私です」


 ベルナの言葉を遮り、グレゴリアは続く。


「異常事態です。どうやら……先生の意図を、私は読み切れませんでした」


 ベルナの身を包む翼を解き、グレゴリアは断層ヴォイドに入ってから一度も抜かなかったメイスを腰から降ろした。


 その目にはベルナが今日散々見た悪戯っぽい光はなく、プロフェッショナルな高レベル冒険者の厳粛な目つきになっていた。


「こういうアクシデントに対処するための私であるはずでした。心よりお詫び申し上げます」


「謝罪を受けいります。もういいでしょう。お互い様という事で私は納得しました。それよりも、何があったのですか?」


 ベルナのじつを取るさっぱりとした態度に小さく頷き、グレゴリアはこれ以上責任の所在についての言及をやめ、現状説明に入る。


「ボス部屋に入る者に対する挨拶程度でしたが……先ほどのはボスによる先制攻撃です。あなたは私の翼の中にいましたのでよく認識できなかったと思いますが、誘いの慟哭クーニアック・ハウリングという告死女妖バンシーを代表する象徴的な特殊技能スキルです。効果はシンプルで、一言で言えば強力な自殺教唆です」


「この告死女妖バンシーというアンデッドは普段ここに出るモノなんですか?」


「いいえ。通常、告死女妖バンシーの危険度認定は9です。双生の鮮血湖ツイン・ブラッドレイクでは初めて見ます」


「どうしてそんなモノが急に?」


「『隠し要素』、でしょうね」


 初めて聞く名詞にベルナが首を傾げる。それを見て、グレゴリアは更なる説明を加えた。


「『隠し要素』とはパーティーメンバーの組成や、断層ヴォイド内で取った言動により普段と異なる展開になるという、非常に稀に起こる現象です。それを攻略する事は該当断層ヴォイドに関する根源的な真相の入手やレアな欠片レリックのドロップに繋がるチャンスですが、相応なリスクもまた存在します」


「それで?我々は運がいいと理解したら良いのですか?」


 ベルナなりの強がりに、グレゴリアは小さくはにかむ。


「流石、肝が据わってらっしゃいます。つい一分前告死女妖バンシーの絶叫で死にかけたとは思えません」


「……私、死にかけていました?」


「私の歌が無ければ、多分五秒と持たず自分の喉を爪で抉り始めると思われます」


 後五秒で死ぬかもしれなかったという事実がじんわりとベルナの脳幹を浸透し、冷や汗が滲み出る。


「そう怖がらなくとも良いのです。誘いの慟哭クーニアック・ハウリングの影響を打ち消す能力をピンポイントで持っている私がここにいるという事は、先生はある程度これを予見していたでしょうね」


戦争詩人ワーバード》でもミスしかけたアクシデントを、《万紫千紅カレイドスコープ》が事前に計算に入れている事実にベルナは慄く。


 それもそのはず。短時間でアドヴァンス冒険者の国屈指の高レベルに認定された冒険者には、ちゃんとした理由があって当たり前なのである。


 またしても《万紫千紅カレイドスコープ》の掌の上で踊らされたが、今だけはかの冒険者の智謀を信頼しよう。

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