第19話 箸休め2 むかしのはなし

雪が降っている。

 イルミネーションに彩られた街中を、陽気なクリスマスソングが流れていく。浮き足だった人並みに紛れながら、銀髪の少年は、薄いジャケットの袖で手を温める。

 23時。

 この歳の少年がこの時間帯に1人で出歩くのは目を引く光景ではあるが、誰一人として彼を咎める者は居ない。まるでその景色の什器の一部であるかのように、少年は夜の街に馴染んでいた。

 交差点に差し掛かる。時が経つごとに規模を増していく群衆は、信号が青になると、一体の巨大生物のように動き始める。その一部となり歩き始めた少年が、不意に蹌踉めく。よろめいて、黒いスーツを着た男の脇腹にもたれ掛かって。すぐに体勢を立て直し、少年は何事もなかったかのようにまた群衆へと溶け込んだ。

 信号が点滅する。

 交差点の半ばで絹を裂くような悲鳴が上がる。女の悲鳴だった。

 信号が赤になる。

 黒スーツの男が、横断歩道の真ん中に倒れていた。肝臓があると思われる位置に、真新しいナイフが刺さっている。路上に積もった雪は、踏み固められ、黒ずんでいる。その色を覆い隠すように広がる血の海に、俄に街のざわ付きが大きくなっていった。


 混沌とした悲鳴を背後に聞きながら、少年は裏路地へと滑り込んだ。隠しておいたピザ箱に、脱いだジャケットと仕事道具を詰め込む。ジャケットを脱いだ少年は、有名なピザチェーン店の制服を身に纏っていた。

 より深く路地裏に潜っていく。クリスマスソングが遠くなっていく。雪を踏みしめながら20分ほど歩いて、辿り着いたのは新興住宅街だった。どこまでも立ち並ぶ大きくて綺麗な一戸建ては、裕福な住民層を思わせる。所々飾られた電飾の光、窓やカーテンの隙間から漏れ出る温かな室内灯。灰色の町を照らすそれらをボンヤリと眺めながら、少年はある一件の家の前で足を止めた。

 制服の帽子を目深に被り直し、無造作にインターホンを鳴らす。やや於いて応答したのは、どこか上機嫌な男の声だった。


「ピザのお届けに参りました」


 少年の物でありながら、冬の木枯らしのように掠れた声だった。「ピザなんて頼んでいたのか。いや、クリスマスはピザだよなぁ」なんて。そんな会話と共に開け放たれた玄関から、やはり機嫌の良さそうな男が顔を出す。無防備な額に風穴が空いた。血飛沫が飛び散り、薄い色のフローリングを汚す。男が機嫌の良い表情のままその場に事切れた。

 少年は無遠慮に門を潜り、玄関を塞ぐ男の遺体を足でどかした。後ろ手に施錠。

「あなた、どうかしたの」

 丁度リビングの扉から、伺うように女が顔を覗かせた。次の瞬間には、女の顔面には赤黒い穴が空いていた。女が仰反るように倒れる。ドクドクと流れ出た血液が、足元を濡らしていく。

 少年はそれを踏まぬように家の中を歩きながら、リビングの中を見回す。

 ケーキやチキン、赤ワイン諸々。彩り豊かな食卓の真ん中に、3、4歳ほどの子供が座っていた。女児だった。

 骸になった母親を、透き通った目で凝視している。現状が──人の生死が分からない歳ではない。ただ、それを受け入れられるかどうかは全くの別問題だった。女児が何かを叫ぶ前に、その頭蓋へと銃口を突きつけ、引き金を弾いた。サイレンサーに押し殺された銃声が響いて、血飛沫が上がる。一連の作業に特に感慨は無かった。

 一通り家の中を探索してリビングへと戻ってきた少年は、赤ワインのボトルだけを手に取って家を出た。


 住宅街の外れにある寺は、浮き足立った空気からは切り離されたように静かだった。

 『仏教徒はクリスマスを祝わないと云うのは本当なのか』などと考える少年の脳みそは、アルコールに火照っていた。

 それでも澱みのない足取りは、しかし、不思議なことに足音の一つすら立てる事はない。寺の裏方にある一戸建ては、恐らくこの寺の主人の住処だろう。寺に面した1階の部屋に灯りが灯っている。

 少年はその場にしゃがみ込み、靴紐を抜き取る。

 立ち上がり、結んで輪にた靴紐をベランダに続く排水管に巻く。それに片手と片足をかけて排水管を伝い、ベランダへと登った。カーテンが閉まっていて部屋の中は見えない。それでも人よりも鋭敏な少年の聴覚は、一階から聞こえるテレビの音声を拾っていた。

 窓にガムテープを貼り、ライターで加熱。手摺に積もった雪をつかんで加熱部分に押しつけると、ガラス窓が割れた。割れた部分から無造作に手を突き入れて、クレセント錠を下ろした。

 少年は靴をベランダに投げ捨てて、室内へと侵入する。ガラス片のくっついたガムテープを窓に開いた穴に押し当てて、カーテンを閉める。這うようにしてベッドの下に潜り込むと、視界は文字通り闇に包まれた。

 暖房のついていない部屋は冷たいが、外よりはずっと暖かかった。同時に少年は、自らの身体が震えている事に初めて気付いた。空虚な灰色の目が、昆虫じみた挙動で闇の中を泳ぐ。小さく二の腕を摩って、また動かなくなって。次にその視線が動いたのは、実に1時間後だった。

 部屋の扉が開く音と、近づいてくる足音に息を潜める。やや於いて部屋の照明が点いて、クローゼットが開閉して、また照明が落とされる。ベッドの軋む音。  

さらに30分後に、寝息が聞こえ始める。寝つきが悪いらしい。

 ベッドから這い出てきた少年は、寝息を立てる男の顔を見た。安らかな顔だ。顔に刻まれた皺の位置は、男の昼の顔の名残りみたいだった。穏やかで、俗世の怨みつらみからは無縁であるような顔つき。

 少年は特に感慨もなく、男の喉元にナイフを滑らせた。男は眠ったまま死んだ。

 安らかな死に様とは正反対に、一文字の切り傷から、騒がしい色彩の鮮血が溢れ出てくる。赤く汚れていくシーツで、ナイフの刃先を拭いた。

 排水管を伝って家を出て、靴紐を結び直して。向かったのは寺の境内だった。

 観音開きの扉を開け、無遠慮に寺内へと土足で踏み入る。荘厳な仏像が、寺内の奥から少年を見下ろしていた。

 少年は青色のポリタンクの蓋を開け、ガソリンを撒き散らす。ポリタンクを投げ捨てて、仏像を一瞥した。穏やかな顔だった。先刻殺した男も、終始こんな顔をしていた。

 無感情にその顔を眺めて、再び作業に戻る。火炎調整装置を緩めたライターを下向きにして、木製の支柱に括り付けた。発火ヤスリを回して火をつけると、炎がプラスチックケースを溶かし始める。

それを見送って、少年は足早にその場を後にする。薄っぺらいジャケットを羽織り直して、これから上がるであろう炎の色を想像する。

 少年に特筆するほどの宗教的思想はない。ただ依頼人にはあった。だから少年は神仏を燃やす。それだけの話だった。

 家路を辿り始めてから10分ほど経った後、寺のあった場所から火柱が上がった。



 目を開ける。

 閉鎖空間でうずくまったまま、犬飼はゆっくりと相貌を擡げた。瞼の裏に残った炎の色を掻き消すように、瞬きする。夜の静寂の中に、長い睫毛が瞬く音だけが小さく響いた。


「俺に何か用か?」

「ぎゃあ!クローゼットが喋った!収納オバケだ!」


 素っ頓狂な悲鳴の後に、ドンガラガッシャンと騒がしい音が響く。犬飼がクローゼットの中から顔を出すと、ロフトベッドから転落したらしいその青年は、猫のように受け身を取って背後を振り返ったところだった。


「え、何。もしかしていっつもそこで寝てんの?クローゼットの中で?ええ?じゃあこの布団の膨らみは何」

「ベッドで寝るのは水曜日だけだ。その膨らみは巻いた毛布を紐で纏めた物だ」

「何を想定してんの?というか、はぁ、せっかく寝込みを襲……驚かそうと思ったのに……」

「見間違いじゃなければ、秋谷先輩か?」

「僕は夢の妖精」


 緩慢に首を傾げる気配がする。やや於いて落とされた呟きは、未だ寝起きの気怠さが残っていた。


「秋谷先輩は夢の妖精だったのか?」


 このまま夢オチという事にできないかという青年の希望は、妙な形で打ち砕かれた。夜目が効くのか、犬飼はしっかりと秋谷の姿を捉えているらしい。居住権者に認知された今、不法侵入だと宿直室に駆け込まれても文句は言えない状況だった。

 諸々の思惑を諦めて、秋谷は身を起こす。顔見知りのよしみだろうか。警戒心を向けられていないのをこれ幸いと、部屋の照明を手探りで点けた。


「う…………」

「おはよう犬飼くん。起こしてごめんね」

「構わない。俺が勝手に起きただけだ」


 しぱしぱと眩しそうに目を細める犬飼。170超えの長い体躯が、どう折り畳んだらあのクローゼットに収まるのか甚だ疑問だった。秋谷はまじまじと眼前の青年を観察する。


「先輩は俺に何の用事だ?」


 犬飼はのっそりと身体を起こしながら、キッチンへと歩いて行く。それを視線だけで追いながら、秋谷はダイニングチェアへと腰を下ろした。


「…………犬飼くんとお話に」

「俺と?」

「うん」

「そうか。水はいるか、先輩」

「頂こうかな」

 

 犬飼は水を取り出すべく冷蔵庫を開閉し、キッチン前の窓を開ける。『空っぽで点火されたままの状態』のグリルを止め、丁度排気口を塞ぐように位置取る濡れふきんを退かした。

 一連の作業を眺めながら、秋谷は「いやァ」と間延びした声を上げる。


「……君は良いね。物静かで余計に騒ぎ立てるような真似はしないし、詮索をしないし。……ちょっと都合が良すぎる気がしないでもないけれど」

「?」

「こっちの話。……ところで君のルームメイトは?もう消灯時間は過ぎているはずだよね?」

「優太郎……ルームメイトはもう居ない」


 終始朴訥とした声音に、寂寥感のような物が滲んだようで。秋谷は少しだけ意外そうな表情をして、「寂しそうだね」と言った。2人分のコップに水を注ぎながら、横目で秋谷を流し見る。問いには答えずに、「来週末には私物も全部運び出される」と事実だけを述べた。


「何かあったの?この時期に寮を出るなんて珍しいよね?」

「…………」

「ありがとう」


 無言で差し出されたコップを受け取って、秋谷は水をあおる。視線を移すと、犬飼もまた、何処を見ているのかよくわからない目でグラスをあおっていた。


「………自業自得だ」

「へ?」


 やや於いて落とされた言葉は、突拍子もない。加えてその声音からは、およそ感情というものがすっかり抜け落ちているので、読むだけの行間すらない。

 結果黙り込む他なく、秋谷はその独白に大人しく耳を澄ました。


「俺の失敗を庇って、ルームメイトは寮を追い出された」

「失敗って……」

「暴力沙汰だ」

「あちゃ。大人しそうな顔して、さては結構ワルだね、君」

「ああ、俺は悪い人間だ」


 秋谷の鳶色の瞳が、眼前の青年を観察するように動く。一見犬飼の感情に揺らぎはなかったが、その目が僅かに細められたのが気になった。そしてそれを、秋谷は『苛立ち』であると解釈した。


「暴力は悪い事だけれど、僕には君が完全な悪人には見えない」

「……そう見えているのなら、嬉しくはある」

「なぜ暴力を振るったの?」

「…………」


 磨りガラスのように虚だった灰眼が、ここに来て初めて焦点を結ぶ。焦点を目の前の男に合わせ、そして、直ぐに何かを逡巡するように視線を彷徨わせた。


「その方法以外に、友達を危機から遠ざける術を知らなかった」

「友達……ルームメイトのことかな。なるほど、友達は、自分を庇った君の事を庇ったんだね」

「…………」

「僕の所感を述べて良いかな」


 犬飼は答えなかった。けれど、自身に向けられた視線を、肯定であると秋谷は受け取った。「ありがとう」と言うと、グラスを置き、自らの相貌の前で指を組んだ。


「君は馬鹿じゃない。聡い男だ」

「…………」

「だから君は、その『暴力性』が、自分や他人を追い詰める物だという事を充分理解している。理解した上で、『友達を助けるため』だと理由付けして暴力に走った」


 特に訂正するほどの間違いは無かったので、犬飼は「その通りだ」と言った。秋谷の相貌が笑みの形に歪む。自らを善人であるとラベリングするような笑みだった。首を傾げると、細くて柔らかな黒髪がサラと揺れる。


「嬉しかったんでしょう?自分の暴力性に意味ができたみたいで」


 犬飼の目元が僅かに痙攣する。秋谷は笑みを深める。


「わかるよぉ、その気持ち。すごくわかる」

「…………」

「暴力はどう足掻いても悪い物だけど、お友達を助けるための暴力なら何だか崇高な気がする。人間としての根幹が暴力であるために、自分自身もまた崇高な物になれたような気がして気持ちが良い」


 つらつらとよく回る舌は、悪意によって稼働しているわけではない。ただ、見た通りの事実を言語化しているだけだった。『犬飼春彦は、徹頭徹尾自分のためだけに暴力を振るった』という事実を、鼻先に突きつけたのだ。

 犬飼は特に反応を示さなかった。ただ、初めて見る食べ物を検分するように、その言葉を咀嚼していた。秋谷は愉快そうにその様子を観察していた。


「……俺は自分が、崇高な存在になれたと実感した事はない。過去は消せない。どう足掻こうと、本質は人非人だ」


 その言葉もまた、己が内面の事実を述べているだけだった。


「けれど、そうか。確かに、意味を見出せた気がして嬉しかったのも事実なんだろう」


 石地蔵の額に針を突き立てる蜂を想起しながら、秋谷は「素直だねぇ」と言う。その鼻白んだような反応に首を傾げて、犬飼は「そうだろうか」と答えた。


「反省している。柄にも無くはしゃいで、結局優太郎を奪われてしまった」

「奪われてしまったって」

「何かおかしかったか」

「……いや、そうそう。人生なんてものは奪うか奪われるかだものね。何にも間違ってないよ」


 自棄っぽく肯定する秋谷に、犬飼は小さく首をし傾げる。


「…………『助けてほしい時は助けてほしいって言え。できる範囲でなら助けてやる』」

「ん?」

「『ルームメイトは助け合うのが普通だ』と、俺のために誰かを殴った」

「優太郎くんの話?」

「『友達になりたい』と言った、俺のような人間に向かって」


 灰色の目は、もう秋谷を捉えてはいなかった。先刻と同じ、何処を見ているのかよくわからない目。ただそれが、慈しむべき過去へと向けられているのを、秋谷は感じ取っていた。ほとんど初めて、その双眸に人間らしい温度が宿っていたからだ。


「……嬉しかったんだ?」


 少し迷って、結局感想を率直に伝える。犬飼は「わからない」と言った。


「そうなんだろうか。でも、優太郎がそう言う度に、死ぬのなら優太郎のために死にたいと思った」

「重ォ〜〜……」

「生きるためだけに生きてきた人生だ。命を賭しても良いと思えるような相手に出会えたのは、ああ。……確かに、俺は、この上ない幸せ者だ」


 「そういうの、知ってるよ」空になったグラスを睨む。縦長に引き伸ばされて、グラスに反射した顔面は奇妙に歪んでいた。「信仰っていうんだ」


「信仰?これが?」

「なぁに、その顔」

「?どんな顔だ」

「信仰を軽んじているような顔」

「具体的だな。軽んじて……その、あまり必要性を感じていないだけだ」

 

 黒洞々とした虚だった。西洋彫刻のような相貌に、果てのない虚を湛えた穴が2つ空いている。伽藍洞を思わせる青年を眺めながら、秋谷は頬杖をつく。


「信仰は偉大だよ。プリンキピアを読んだことはある?ニュートンだってガリレオだって敬虔な信徒だった。信仰なしに科学の発展はあり得なかった。それは他の学問だって同じだ。人類の進歩の根底にはいつだって信仰がある」

「すまない、言葉が足りなかった。こと俺の人生に関しては、と言うだけの話だ。……今更救いを求めるのは無意味だし、そのために祈るのは卑陋だ」


 こころなし早口に弁解する犬飼に、秋谷は眉を寄せる。教え子を前にした教師のような表情だった。


「僕こそ例が悪かったね。あのね、神様に祈ったり願ったり──何もそんな大層な物だけが信仰ってわけじゃない」

「…………」

「僕の神様は推理作家。経典は彼らの書いた小説。何よりも尊くて、重要で、人生そのものとすら言える。けれど僕は、彼らに何かを求めたり願ったりはしない。いわば指針だ。そしてそれは、人の数だけ存在する。君の神様は、たまたまユウタロウだった」

「優太郎は友達だ」

「じゃ、友達が神様なんだ」

「…………」


 考え込むように、目を細める。


「神。神か」


 僅かに滲んだ自嘲は、静かに燃える炎を彷彿とさせた。


「そんな権利が未だ俺にあるのなら、」


 ────確かに、とても魅力的だな。

 慈しみ、或いは恍惚。

 植物のような男が発露させた感情に、秋谷は無意識に二の腕を摩った。

 揺らぐ水面をじっと眺めながら、犬飼は「ありがとう、先輩」と言った。憑き物が落ちたような清々しい声音である。ある種の決意を固めた者だけに、許された響き。

 何が『ありがとう』なのかを尋ねることもなく、秋谷はコップを差し出した。


「水のおわかわりをもらえる?」

「ああ、構わない」

「ありがとう」


「砂糖とか吐けそう……」言いながら、口から何かを吐き出すようなジェスチャーをする。犬飼が、「ときに、先輩」と言ったので、疲れたような顔で振り返った。


「先輩は推理小説が好きだと言ったな」

「ああ、うん……言ったね…………」

「おすすめはあるか」

「…………あー、あるよ。もしかして望みはあれかな。茶の葉とか、プロバビリティの犯罪。あとは証拠隠滅の秀逸な──」

「実現可能性の高い物が良い」


 至極真面目に落とされた言葉に、今度こそ秋谷は天を仰いだ。


「実現可能性……実用性ね」

「……………」

「……確かに、はい。嫌だな……この上なく的確な提案をできる自信があるぞぅ」


 目頭を摘んで、懊悩の滲んだ声をあげて。差し出されたコップを少しためらって受け取る。


「笑……っ、」

「俺は然るべき場所に駆け込む必要が無くなって安心している」

「然るべき場所?『宿直室』に僕を突き出すつもりだったの?」

「…………」


 犬飼は答えない。

 代わりに浮かんだ唇だけを薄く引いたような笑みに、秋谷は仰け反った。得体の知れない漂流物にでも向けるような目で、青年をまじまじと凝視する。眼前にある物が危険性の孕んだ異物であると、今初めて認識したかのような反応。


「先輩は俺にいくつか嘘を吐いただろう。今日も、この前も」

「………………」

「俺はあまり嘘が好きじゃない。とはいえ、先輩を突き出すのは心苦しい」

「…………さては君、やっぱり大分腹黒いな?」

「俺はモンゴロイドだ」

「奇遇、お揃いだね。……どこまで計算でやってるんだ……」


 肩をすくめ、元のぼうっとした表情でコップを傾ける犬飼。今となっては、それすら白々しいパフォーマンスにしか見えなくなっていたわけだが。


「ヤバい人に手出しちゃったよぉ……」


 揺らぎようのない沈黙に、今度は秋谷が肩をすくめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る