画家とパン屋の娘

綿雲

昼下がりのアトリエにて

「どうして?あなたに描けないものなんかないわ、あなただって自分からそう言ったじゃない」


ずいと自分の眼前に押し迫ったみどりの双眸にたじろぎ、ジャンは危うくサンドイッチを喉に詰まらせそうになった。

そんなことを言ったか俺は、ともごもごしている内にも彼女は更に詰め寄ってくる。顔が近くないか。


「言ったわよ!あなたは絵のお客さんの話を聞く度にそう言ってるわ」

「む、いや、そんなことはないだろう…そうなのか?」

「私の聞いてきた限りではね!」


なのにあなたときたら、とアメリは簡素な造りの丸椅子に座ったままジャンを睨んだ。

目に見えてぷんぷんしながらも、慌てるジャンを見かねてか、カップにぬるくなった紅茶を注いで寄越してくれる。ジャンは甘い香りの茶と一緒に口の中のパンを飲み込み、一息ついた。


これでも画家の端くれとして、どんな絵を依頼されたとしても、持てる全てを尽くして取り掛かってきたつもりだ。だが彼女の依頼だけは…ジャンは小さくため息を吐いた。


「あんなにきれいな絵がいくらだって描けるくせに、どうして私の依頼は話を聞いてくれさえしないの? 何でも描けるなんて口だけ?」

「そんなわけがあるか、」


そう言ってふんぞり返ってみせるも、二の句が告げないまま少しの沈黙が流れる。2人してアトリエに並ぶ色とりどりのカンバスの群れに目をやった。アメリが横を向いた拍子に、小麦粉の付いたエプロンの肩紐が落ちる。


「ならいいじゃないの。描いてよ」

「…断る」「ねえジャンさんってば!」

「そんなくだらん依頼を聞いてる暇はないんだ」

「嘘ばっかり。このところ閑古鳥が鳴いてる声が隣まで聞こえてくるわよ」

「うるさいな」


確かに、作業台に立てかけられたカンバスはここ数週間の間ずっと変わらず真っ白だった。

依頼も来ず描くものが決まらないと、あの白い布地が、わけもなく自分を阻まんとする巨大な壁のように思えてしまって、息抜きの落書きばかりがスケッチブックに増えていく。


ばつが悪そうな顔で少し縮こまったジャンを見て、アメリは悪戯っぽく笑った。そばかすの散った鼻っ面をくしゃっとさせるような笑顔は、未だ無邪気な幼さを残している。

無意識に見とれていたジャンを促すように、アメリは揃いのティーカップに手を伸ばした。


「そんなに忙しいなら、パパに言ってうちの店に飾る絵でも依頼してもらおうかしら」

「パンのか?構わないぞ、大家さんには世話になりっぱなしだしな…家賃の足しにはなるかはわからんが」

「もう!なんでパパの依頼は良くて私は駄目なのよ!やっぱり暇してるくせに!」


もうと言われても。軽くあしらおうと口を開きかけたものの、じっと見つめてくる熱のこもった瞳に捉えられて言葉に詰まった。何度も適当にかわしてきた話題だったが、今回ばかりは引き下がるつもりはないらしい。

ジャンは少し考え込んでから、ゆっくりと口を開いた。


「俺は…価値のあるものしか描かない」

「なんですって?」

「今まで絵を依頼されてきたもの…モチーフには、すべてその姿を描くだけの価値があった」

「価値?そりゃあきれいな宝石とか…高価なものも描いてたけど、ほとんどは知らない人の肖像画とかありふれた風景だったじゃないの 」


アメリの言い分は正しかった。ぐるりとアトリエを見回しても、描かれたモチーフと言えば豪華なドレスに身を包んだ貴婦人から、湖畔に佇む一軒家、レモンの木に這う芋虫まで、てんでばらばらだった。なにも値の張るものだけに価値があると言っているわけじゃない。


「だからこそだ、そういうものは…」

「そういうものは?」

「上手く言えないが、何か…必要とされてる、そうだ、必要とされているものなんだ!それを絵に…姿を留めることが俺の仕事だ、使命だ!だからこそ俺は絵を描くし、何でも描けるのだ」


荒っぽくカップを置いた拍子に、紅茶のしずくがシャツの袖にこぼれた。アメリは拳を握り締めて話すジャンをじっと見つめる。

険しい表情で暑苦しく語り出した彼とは対照的に、アメリの頬は緩んでいた。


「へえ、そうだったの?」

「そうとも。人とモチーフとの間にある繋がりを絵に表すことが大切なのだ」


お客からあれこれと依頼内容を聞いていると、不意に脳裏に完成図のイメージが浮かんでくる。それは描く対象、つまりモチーフと依頼人との関係、モチーフに対する思いが強いほど具体的に現れやすい。


皆が皆絵を描くことができれば、その感情をそのまま絵画へと昇華させることができるだろうに、と口惜しく思うことさえある。それを代わりにするのが自分の仕事なのであって、皆ができてしまったら自分は廃業することになるのだろうけど。


半ばやけくそになりながらそういった仕事についての考えをつらつらと独白した。少ししてふと我に返り、アメリにしてみれば急にこんな話をされてもどうしようもないだろう、とやっとのことで思い至る。なにか弁解しようと顔を上げたところで、


「ならあなたが大切だと思うものを描いてるの、」


と何故だか嬉しそうな微笑みを向けられる。はにかみを含んだ声色に些か困惑しながらも、ひとつ咳払いをしてから頷いた。


「ああ、もちろんそうだとも。ひたむきに描かれた絵ならなんであっても、1枚1枚…それぞれに特別なものを持っているものだ」


アメリはどこかそわそわしながらも大人しく話を聞いていたが、それで、ともう待ちきれないといったように身を乗り出した。


「その、特別なものってなんなの?さっきからいまいち…よくわからないわ、それが『必要で大切』のもとなんでしょ?肝心なとこを濁してばっかり」

「濁してなんかいるか、ただそうだと思ってることを言ってるんだ俺は」

「それがはっきりしてるんならどうして私のお願いを聞いてくれないのよ!」

「おまえなあ…本当に、本気で言ってるのか?本当にそんな絵が欲しいのか」

「当たり前だわ、でなきゃ依頼しないもの」

「どうせ俺をからかっているだけだろう」

「そんなわけないでしょ、私がどれだけ…」


アメリが唇を尖らせてごにょごにょ言うのを最後まで聞かずに、ジャンは実に居心地の悪そうに言った。


「だってそうだろう、よりによって…俺の、自画像を描けだなんて」


アメリの依頼内容は実にシンプルなものだった。


『あなた自身を描いた肖像画が欲しいわ』


…その一言にどれだけ心乱されたことか!一体なんのために、と何度も聞こうとして、何度もやめていた。

おまけに最近の彼女ときたら、ここへ足を運ぶ度に、つまりほとんど毎日、その話題について口にしていた。勘弁してくれ、と小さく首を振る。


「自画像って考えるからいけないんだわ、あなたがモデルの肖像画が欲しいって言ってるんじゃないの」

「なお悪い!俺の姿なんて…描く価値がない、習作のモチーフにするのだってごめんだ」


本心だった。ジャンは仕事以外には趣味も取り柄もない、もう若くもないただの男だ。ひねくれていて天邪鬼で、お世辞にも綺麗とは言えないなりでおまけに不摂生が祟って腹も出てきた、と、仕事はともかく自身についての評価は低いのだった。


ひきかえアメリは、自分とは違って春の新芽のように初々しく、溌剌としている。悲観的な気分になって彼女を見やると、当の本人は僻みっぽいジャンの心とは裏腹に、指先に止まった天道虫でも眺めているみたいに微笑んでいた。


「あなたね、さっき自分で言ったことを忘れたの?」

「なんだ、何がだ」

「今まで依頼されてきたモチーフには全部価値があったって言ったじゃない、今回は違うって言いたいの?」

「そうだ、俺は…違う、俺はただのしがない絵描きだ。小汚いアトリエに引きこもって…今は仕事もろくに受けず自堕落な生活を送ってる」

「ふふ、それについては否定しにくいわね」

「なんだその言い草は」


どうせ俺なんて仕事以外には何もないのだ。ほっといてくれ。

遂にいじけたジャンが口をへの字に曲げたのを見てアメリは、ごめんなさい、ところころ笑いながら、しがない絵描きの窄んだ肩を柔らかく叩く。


「でもさ、あなたはこうも言ったわ、依頼されるモチーフはみんな誰かに必要とされてるんだって」

「俺を必要としてる人間なんかいるもんか。そうなら俺は今頃こんな風に暇を持て余してはいない」

「ああそう、よくわかったわ、あなたって絵描きのくせに目が良くないみたいね」

「なんだと?」

「だって目の前にいる私のことがぜんぜん見えてないってことでしょうに」

「ばかを言うな、まつ毛の1本そばかすのひとつぶまでよく見えているわ 」

「そんなに見えなくていいわよ!もう、そういうことじゃないわ、つまり…」


彼女はまた一声もう、と唸ってこちらをじろりと睨んだ。


「あなたね、私が毎日お店から、ここにパンを運んできて、一緒にお昼を取ってるのをいったいどうしてだと思っていたわけ」


ジャンは一度瞬きをして、質問の意味がわからなくて首を傾げた。

もう、いいから言ってよね、とせっつくアメリに、ひとまずはさっきからもうもう言って子牛のようだという感想を抱いた。また怒られるだろうから口には出さないでおく。


「店の裏で食べていると急かされるから嫌なんだと自分で言っていただろうが」

「そうだけど、ちがうわよ!あなたって人は!」

「それならどうしてだ、わざわざこんな油臭いアトリエで飯を食わなくても良いだろうに」

「それはね、…あなたの絵が欲しいのと同じ理由だわ」

「からかっているんだということか」


ばかねあなたは、と怒ったのとちょっぴり笑ったのが混じったような表情になって、彼女のみどりの瞳が揺れて光った。


「愛しているんだということだわ」

「…愛?」

「そうよ!もう、」


ばかよあなたは、ともう一度確かめるように口にして、彼女はいつにも増してあかい頬を誤魔化すようにきっと眉を吊り上げると、子猫が威嚇するときみたいに口を開いた。


「だいたいね、さっきから聞いてりゃあ何よ、つまりあなただって描くのが好きだから商売にしてるってことじゃあないの!モチーフに愛情を持つからあんな綺麗な絵が描けるんでしょ!

あなたはいつも余裕なふりをしておいて、依頼人の話を聞いてるうちにどんなモチーフでもすっかり好きになっちゃうとんだ惚れっぽい人なんだわ」

「な、何、俺はそんな」

「何よ!それなのに依頼が来ないからってぼんやりして何も描かないから余計依頼がこないのよ!そんなんでどうするのよ!私はあなたの絵がもっと見たいのよ!」


ジャンはアメリの突然の告白とも取れる発言と、可愛い顔をして洪水のようにまくし立てる姿に半ばぼんやりとしていた。

しかしどうやら誇りを持った仕事について口出しされている事だけはなんとか感じ取り、それでもしばらくはああだのうんだの、抗議を含んだ鳴き声のようなものをいくつか絞りだすのが精一杯だった。


「な、なんなんだいったい、何がわかるんだおまえに」

「わかんないわよ!いいから私の依頼を受けなさいよ!家主特権よ!」

「横暴な」

「私はね!お客さんの話を聞いて嬉しそうにうんうん相槌を打って、描いてる時にもにやにやして時々カンバスに話しかけながら楽しそうに描いてるあなたがもっと見たいの!」

「ちょっと待て俺はそんなことしてないだろうが、…ないだろ?」

「してるわよ!あなた集中してる時は全然気づいてないけどいつも凄く絵に向かって話しかけてるわよ!」


机に手をついて訴えるアメリに、ジャンは普段の己を省みた上で、嘘だと言ってくれと頭を抱えた。アメリは赤くなったり青くなったりを繰り返しているジャンを見て溜飲が下がったのか、少し落ち着いた様子で椅子に座り直した。


「だからね、依頼人、つまり私が好きなものをあなたもきっと好きになるはずだわ。大丈夫、あなたがそうと思えるまでたっぷり魅力を語ってあげる」

「魅力だと、何を」

「それにあなただってね、…ある意味私と同じように思ってることがあるはずよ、私知ってるんだから」


訝しむジャンに有無を言わさず、アメリは得意な様子でにやりと笑ってみせる。


「だってね、私見たのよ、あなたがそのスケッチブックに何枚も…私のことを、描いてくれてるのを」


顔から火が出るかと思うほど一息に熱くなった。ジャンは目に見えて狼狽え、慌ただしくきょろきょろと周囲を見回し、そこら中に散らばって開いたままのスケッチブックを目で追いかける。アメリは悪戯が成功した子供のようにくすくす笑っていた。


「な、何だと…!!おまえ勝手に…!!」

「あら、このアトリエの主人はどこでも勝手に見てくれて構わないって言ってたわ」

「ぐ、そ、それは」

「ねえどう?それってつまりさ…私とあなたっておんなじ気持ちなんだと思うんだけど、まだわからない?それでも自分のこと必要じゃないって思う?」


アメリの言い方にはっとして、彼女を振り返る。彼女は少し困ったように眉を下げて、いつもと同じ、まったくしょうがないわね、とでも言うような顔で笑っていた。


頭の中にふわりとイメージが広がった。午後のアトリエの空気と、暖かな陽だまりのような笑顔。紅茶を片手に他愛もない話をして、傍らに座っているのはー


「…おまえも、一緒なら、構わない」「え?」

「隣に、依頼人の姿を描いてもいいなら…おまえの依頼を受けてやらんこともないと言ったんだ!」

「私を?それって」


もう熱くなってどうしようもない顔を隠すためにカンバスへ向かった。すっごく最高だわ、と彼女が背中に飛びついて、真っ白なカンバスが色を変える予感がした。



その後パン屋に飾られた絵画が好評を博し、少し忙しくなったのはまた別の話である。

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