五節 文化祭準備

 夏休み明けの実力テストは、まずまずの結果だった。もう二年の夏も終わりなのだから、これくらいは当たり前でなければいけない。


「玉木くん、どうだった?」


 先生から答案をもらい、席に戻ると後ろから伊藤さんが話しかけてきた。


「まあまあできたかな」

「うわ、すごい」


 僕が答案を見せると、伊藤さんは関心高そうな目で言った。

 そうだ、友貴は。そう思い隣の席に行くと、友貴は自分のノートを開いて答案と見比べていた。


「友貴は何点だった?」

「ん? ああ、五十点だった。もう去年の僕はいなくなったね」


 友貴はうれしそうに答案を見せてきた。

 本当に頑張っているようだ。


「野球部なんて特に忙しいだろうに、すごいじゃん」

「あー、まあ部活はね。確かに休み全然ないけど、やりたくてやってることだから」


 友貴は少し照れながら笑った。何でも頑張れて本当にすごい。


「玉木くんって田原くんと仲いいよね」


 自分の席に戻ると、また伊藤さんが話しかけてきた。


「仲いいっていうか、まあ中学一緒だから」

「へーそうなんだ。でも二人ってけっこう違うタイプだよね。なのになんか仲いいからすごい不思議」

「そうかな、でも友貴はおもしろいよ」

「まあ、それはわかるけど」


 隣の友貴は、上機嫌そうに答案を見ながら、僕たちの会話を聞いていた。

 学校が始まってしばらくすると、また席替えが行われた。

 友貴とはかなり離れたが、今度は小林君が近くなった。伊藤さんは、今度は僕の前の席だった。


「また近いね。よろしく」


 伊藤さんは体を横に向けて、僕のほうを見て言った。


「ああ、うん。よろしく」


 文化祭の準備が始まる頃になると、伊藤さんはやたらと話しかけてくるようになった。

 このクラスはお化け屋敷をすることになり、各々準備を進めている。おとなしいクラスには似つかわしくない出し物だが、僕を含め誰も他の意見を出さなかったのだから仕方がない。

 ほとんど勢いで決まってしまったが、仕事はしっかりと割り振られているので、そこまでの苦労もないだろう。このクラスなら、見切り発車でもなんとかできるように思う。


 そうして割り振られた役割を僕はこなしていた。僕は黒幕の取り付けと、当日午後のおどかし役だ。

 そして、なぜか伊藤さんも同じだった。最近この人は、いつも僕の視界にいる気がする。授業中にはいつも後姿があり、文化祭の役割も同じで一緒に行動をすることが多かった。

 普通にしている分には特に問題はなかったのだが、最近の伊藤さんは過剰に絡んできている気がする。


「ねえねえ、玉木くん。はさみかして」

「……はい」

「ありがとう」


 伊藤さんは僕を呼びかけるとき、軽く肩を叩いたり、腕に触れたりしてくる。仲良くなったということだとは思うのだが、正直にいえばやめてほしかった。


 僕は昔から、人に触られるのが苦手だ。布越しであればそこまで嫌悪感もないのだが、皮膚の接触はどうしても苦手だ。汚いなどの意識があるわけではないのだが、体温や汗から伝わってくる自分以外の何かが嫌いだった。


 そうして、僕の伊藤さんに対する印象は悪くなっていった。そのほんの少しの嫌悪感を発端に、連鎖的に他の良くないところにまで目がいくようになった。

 こうなると、今まで特に気にしていなかった悪い部分が、浮き彫りになってくる。

 そもそも伊藤さんは、距離感が近すぎる。友好的といえば聞こえはいいが、伊藤さんは相手の心理的距離を考えていない。誰とでも仲良くできると思い込んでいる人のようだった。


 きっと、今まではそうだったのだろう。でも、そこには相手の妥協もあったはずだ。おそらくこの人は、それに気付いてもいない。気付こうともしていない。

 これは、僕だけが例外なのかもしれない。これだけ話すようになって、まったく心を許していない僕の方が、おかしいのかもしれない。

 だけど、それでも、僕にとって伊藤さんの人付き合いの仕方は不快だった。距離が近くなることによって、嫌なところが鮮明になっていった。

 それから僕は、できるだけ伊藤さんから距離を置くようになった。



 文化祭の舞台発表の前日、午前で授業が終わった。予定通りであれば準備は今日が最後だ。

 準備は順調に進み、暗幕の取り付けも終わった。やることがなくなった僕は、廊下の壁にもたれていた。

 外から聞こえる雨音が、みんなの楽しそうな声にかき消されている。ぼんやりとしていると、伊藤さんがきた。


「なにさぼってるの玉木くん」


 伊藤さんはあきれた風を装い、冗談めかして言った。


「僕らのところはさっき終わったじゃん。これってもう帰っていいんだっけ?」

「たぶんいいんじゃない? けどまだ終わってないところもあるよ。さっき、ビニールテープ足りなくなったから取ってきてって言われたし」

「そうなんだ」

「で、玉木くんは帰るの?」


 伊藤さんは後ろに手をまわし、僕を見上げるような姿勢をとった。

 通常の下校時間と比べると、まだいささかはやい。少しくらいなら、手伝ってもいいと思った。


「何かあるなら手伝おうかな」

「そっか。じゃあ、一緒にビニールテープ取りに行こうよ」

「そんなにたくさんいるの?」

「いやぜんぜん。少し足りなくなっただけだから」

「じゃあ一人でよくない?」

「いいじゃん、暇そうにしてるんだから一緒に行こうよ」


 そう言うと伊藤さんは僕の手首をつかんだ。そして僕の表情の変化に気が付かないのか、そもそも見てもいないのか、そのまま手を引いた。


「わかったから離して」

「うん」


 さいわいにも僕が歩きだしたのを見て、伊藤さんはすぐに手を離した。

 だが、やはりこの人は苦手だ。



 僕たちは職員室に行き、貸出棚からビニールテープを借りた。


「透明でよかったのかな?」


 伊藤さんはかなり舞い上がっているようで、普段よりも声が大きかった。


「指定されてないならなんでもいいと思う」


 僕は伊藤さんから少し距離を開ける。


「それもそうだね……ていうかさ」


 伊藤さんは急に立ち止まった。僕もつられて歩みを止める。


「最近玉木くんとあまり話してないよね。前は休み時間なんてほとんど座ってたのに、最近いないし」

「そうかな」

「そうだよ、いつもいないもん。なにかしてるの?」


 伊藤さんは僕が開けた少しの距離をつめてきた。


「いや、そういうわけじゃないけど」

「けど?」


 はっきり言っていいのだろうか。態度が、接し方が、気に障るからだと。


「まあ、たまたまだと思うよ。僕はいつもと変わらないから」

「そう? ならいいけど」


 伊藤さんはビニールテープの穴に指を入れて遊び始めた。

 いっそのこと、はっきり言ったほうがいいのかもしれない。

 伊藤さんが僕のことを、どう思っているのかは知らない。何を思って僕と関わろうとしているのかは知らないが、何にせよ僕には、この関係を続ける気はない。

 だからこそ僕は、はっきり言ったほうがいい気がした。

 この距離は、距離感は、居心地が悪すぎると。表面上での付き合いにとどめてほしいと。


 そもそも、伊藤さんが求めている僕は、こうして繕っている僕なのだろう。

 だったら、僕はそんな人間ではないと、ちゃんと教えたほうがいいのではないだろうか。

 そうして考えていると、伊藤さんはまた僕の手首をつかんだ。


「ねえ、玉木くん。どうしたの? もどろうよ」


 やっぱり無理だ。これ以上踏み込まれるのは嫌だ。


「あのさ、悪いんだけど……」

「どうしたの?」


 伊藤さんは手を離さない。


「そういうの、やめてほしい。僕、手掴まれるの苦手なんだよね。中学のときから……」

「あ、そうだったの? ごめんごめん」


 伊藤さんは僕の言葉を遮り、慌てて手を離した。


「その……まあそれだけじゃなくて」

「え?」

「はっきり言えば、僕は伊藤さんの態度、というか空気感が、あまり好きじゃない。クラスメイトとしても、人としても」

「……え?」


 伊藤さんは僕の言葉に驚いたようで、体の動きが止まった。


「だからその、できればもうやめてほしい」

「…………うん、わかった」


 伊藤さんは、頷きながら空返事をした。


「じゃあ、そういうことだから」

「……うん。あ、ごめんね……その、今まで」

「ああ、うん。それはだいじょうぶ」


 その後会話は起こらず、教室に戻ってからも、一度も言葉を交わすことはなかった。




――――登場人物――――

玉木悠太たまきゆうた 僕

 中学時代はバレーボール部。

 父親と兄との三人暮らし。


永野司ながのつかさ かさ

 小学校からの付き合い。

 僕をまこと呼ぶ。

 京都に住むために勉強をしているらしい。


前川倖成まえかわこうせい 倖成くん

 中学時代は、僕と同じくバレーボール部。

 二年間クラスも同じでよく話をした。

 僕をまこと呼ぶ。

 高校でもバレーボール部に入った。


今井俊いまいしゅん 今井くん

 僕と似た空気を感じる。

 親戚の家で暮らしており、少しだけ僕と境遇が似ている。

 曜子という人ともめたらしい。

 一年生の文化祭のときに、曜子という人ともめた話を聞いた。

 それからは、距離が開いてしまった。


小林正樹こばやしまさき 小林くん

 昔やっていたゲームの話をした。気が合わないわけではない。

 勉強に打ち込んでおり、部活もしている。

 高校一年生のときは室長もしていた。


田原友貴たはらともき 友貴

 中学は同じだが、話したのは高校受験の日が初めて。

 部活をやっている。坊主頭。


森島もりしまさん

 今井君のことを教えてくれた人。

 冷静な人のようだが、意図はよくわからない。

 曜子という人の友人。


伊藤恵いとうめぐみ 伊藤さん

 吹奏楽部。フルートが上手らしい。

 わかりやすい感情表現をする。

 気さくな人でクラスの中心的存在。


江口えぐち先生

 高校一年生のときの担任。担当科目は国語。

 役者めいた話し方をする人。

 表面を繕って核を守る振舞いが、僕に少し似ている。


中川なかがわ先生

 高校二年生のときの担任。担当科目は国語。

 やさしい笑顔が特徴。

 いろいろと見抜かれている気がする。

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