神々の愛着

二枚貝

第1話




「――まだ、ぼくの声がわかる?」




 その声にのろのろと瞼を開けた。周囲は暗くもなかったが、明るくもなかった。

 わたしの目がとうに視力をなくして久しかった。季神の身に纏う草木の毒に蝕まれ、目も、耳も、舌も、もうろくに機能しなくなってしまった。


「まだ意識がある? 記憶はある? 自分のことがわかる? ……ぼくのことは、わかる?」

 ええ、もちろん。あなたのことがわからないはずがない。

 わたしを伴侶と呼んでくれた神のことが、わからなくなるわけがない。

 そう答えたいのに、もはやわたしの舌は動かない。喉もやられてしまっていて、最後に声を発したのは、さてどれくらい前だっただろう。


「頼む、まだ、逝かないでくれ。まだだめだ、まだ、早すぎる」


 すがるような声、泣きそうな声で神が言う。

 ええ、もちろん。そう答えたつもりで、くちびるからはため息のようなかけそい吐息しか出てこなかった。






 *



 月が本来の位置に戻る年、わたしの祖国では神々への贄が選ばれる。



 その年、まだ十六になったばかりのわたしは神の贄に選ばれた。大変な名誉なことだと、村の皆から盛大に祝われながら、山をふたつ越えた先にある神殿へと送り出された。

 贄の誕生月によって、いずこの神に捧げられるのかは決まる。だから、わたしが遣られる先は季神のもとであることは知っていた。

 わたしは季神を数度見かけたことがあった。背が高く、若木のようにしなやかな体つきをした美しい青年神。不思議な色や形状をした草木を衣のように体に纏わせていて、季節の移ろいとともにあらゆる土地を巡るという。十二の神のなかでもいっとう気まぐれに人間を弄ぶ、残酷な神。

 村にいた頃は、けして近づいてはならないと言われていたその神に自分が捧げられることになるなんて、考えたこともなかった。


 神殿につくとすぐに着ていたものをすべて脱がされて、湯浴みののち、婚礼衣装でもこれほどではないだろうと思うほど豪華な衣装を着せられた。髪に花を飾られ、目もとに紅を引かれ、頭のてっぺんから足のつま先まで整えられて、最後には喉が焼けそうなほど甘い酒を飲まされた。

 そうして身支度が整うと、わたしは頭にヴェールをかぶされて、待っているようにと告げられた。わたしは重たい衣装に息もつけないまま、半日とも丸一日とも思えるくらい、長い時間を座ったままで過ごした。

 さすがにうんざりしてきた頃に、誰かがわたしの前に立った。はっと顔を上げたけれど、ヴェールのせいで何も見えなかった。

『あなたが今年の贄だね。立って。これから私が、あなたを季神のところまで案内します』

 あたたかい声だった。やわらかくゆったりとした抑揚の、男とも女ともつかない声をしていた。

 言われた通りにわたしが立ち上がると、手を握られた。指の長い、ひんやりとした、皮膚のなめらかな手だった。


『被り物をとってはいけないよ。大変なことになるからね。たまにいるんだ、忠告を守らない贄が。怒られることになるのは私なんだから』

『は、はい。被り物は、とりません』

『そう固くならないで、――といっても無理だよね。心配しないで、季神のところへ着くにはまだまだ時間がかかるから。今から緊張していたら、きっとくたびれてしまうよ』


 この人は誰なのだろう、とわたしは思ったけれど、緊張のあまりそんなことを訊ねることなどできなかった。

 神殿の人なのだろうか。

 確か、わたしを季神のところへ案内すると言っていた。


『季神のところに贄が回ってくるのはひさびさだね。かわいそうだけれど、こればかりは仕方ない』

『………かわい、そう……?』

『神々に捧げられる贄の末路はそれぞれだけれど、季神の贄だけはいつも同じ結末になる。人間は天上の毒に耐えられないからね。季神の身に纏う植物には毒があるんだ――だから、季神の贄は例外なく、毒に苦しんで早死にする』


 一体この人は、どうしてそんなことを話すのだろう。

 わたしを怖がらせたいのだろうか。それとも、親切心から教えてくれているのだろうか。


『贄のなかにはすぐに死ぬ者もいるし、逆にいつまで経っても死なせてもらえない者もいる。何が幸せなのか、私にはわからないけれどね』

『わたし……すぐ、死んでしまうのですか?』

『きっとね。怖い?』

『よく、わかりません』

『それはそうだ、贄に選ばれただけでも、わけがわからないだろうに』


 ヴェールをかぶり、前も見えないのに歩きながら、不思議と不安はなかった。

 しっかりと手を引いてくれる力の強さや、声の穏やかさがわたしに不安を抱かせなかった。


『神の贄に選ばれるというのはね……まあ、別に悲観するほどのことでもないよ。神々は贄を食べたりしないし、使用人代わりにすることもない』

『じゃあ、わたしは、季神のところで何をすれば、いいのですか?』

『あなたがするべきことは何もない。あなたができることも、何もない。そもそも神は、人間なんかに何も求めないし、期待しない』


 もしも、と穏やかな声は続いた。


『神に何かを期待されることがあるならば、それはとても、恐ろしいことだよ。神に関心を持たれるということはね。とてもとても、恐ろしいことだ』

『あなたは、どうしてそんなことを知っているの?』

『この目で見たからさ。あなたの他に、何人も、神に捧げられた贄たちを見てきた』


 何人も? 贄が選ばれるのは、数十年に一度のことだというのに?

 それが本当なら、この人はいったい、何歳なのだろう。見えないことは百も承知で、顔を横に向けた。

 気配だけで、その人が微笑んだのがわかった。


『私も贄だよ。人間の世界でどれだけの月日が経っているのか知らないけれど、ここへ来てからそれなりになる』

『ここ、って』

『神の国』


 それきりわたしは黙り込んでしまって、その人も何も喋らなくなった。

 わたしたちは黙々と歩き続けた。信じられないほど長い距離を進んだ。ふしぎと疲れを感じることはなかったし、足が痛むことも、お腹が空くこともなかった。




 やがて唐突に、その人は足を止めた。わたしも立ち止まった。

 といっても、目的地に到着したのか、それともたまたま歩みが止まっただけなのかはわからない。


『たぶんここだ。ここから先には進めそうにないから』

『え……?』

『この先が季神の国になる。――神の国もそれぞれ領域が分かれていて、それを侵犯することは重罪なんだ。今回はあなたの案内というので特別に許しをもらったわけだけど、それでも、これ以上は行けそうにないな』


 だからここまで、とその人は言った。

 そしてわたしのヴェールの端をつまんでそっと持ち上げる。

『これを外そう。動かないで』

 言われた瞬間、目の前がいきなりまぶしくなって、わたしは叫びかけた。

 ヴェールが燃えている! けれどすぐに、それが熱も痛みももたらさないことに、気付いた。

 いかなる不思議の力か、緋色の炎はわたしの被り物だけを燃やし尽くして消えた。わたしは呆然としながら、自分の顔や髪をぺたぺたと触ってみた。


『さあ、お行き。おそらくこの先に季神がいる。人間界で見たことはある? 背の高い、黄金の髪をした男の姿をしているよ』


 そう言ってわたしに微笑みかけているのは、緋色の髪を短く刈り込んだ、長身の人だった。

 背の高さから男の人かとも思ったけれど、柔和な顔立ちと声の優しさは女の人のようにも思えた。不思議な、穏やかな美しさを持つ上品な人だった。


『では、私はこれで』

『待って! お礼を、言わせて。それと、あなたの名前は』


 踵を返しかけたその人は振り向いて、わずかに両目を細めてみせた。


『礼はいらないよ。私はあなたを世にもおぞましい世界へ連れてきただけ。――それに、名前なんて忘れてしまったなあ。もう何百年と呼ばれたこともないのだもの』


 驚き、何も言えないわたしにひらひらと手を振って、今度こそその人は行ってしまった。

 それきりその人と会うことは、一度もなかった。





 *


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