水彩紙、青

小説を書くのは好きだった。

言葉がはじめてあたしのものになり、少しずつ細やかに糸を解いたように、考えた物語をなぞる、その瞬間が好きだった。

ただ苦痛だったのが、あたしの書いたものは誰一人完全には理解出来ないことだった。例えば、イルミネーションが美しくないことは、同じ文芸部のメンバーには伝わらなかったようだ。


「文芸部三年、高崎天音たかさきあまねです。小説を書いています。よろしくお願いします」

新入部員はどうせ、あたしには興味がない。部長、副部長、一番多く作品を書く人、気さくで話しやすい人ーーそんな人たちを優先して覚えて、あたしは一番最後だ。毎年あたしのことを冷徹だの感情がないだの、隠れて噂する後輩たちがいて、あたしはそんなつもりじゃないのに弾かれてしまう。人と違う文章を書くことは、創作において利点だと思うのだけれども。

「今日は早速、文芸部のオススメ本コーナーを作る為に紹介文書いてもらうからね!はいアマちゃん用紙配って!」

部長でありクラスメイトのみやびがあたしに話しかけてきた。ぱっとそちらを向くと雅はあたしと目を合わせる気もなく、ホワイトボードに文字を書いている。彼女は忙しいのだから仕方ないのだけど、少し寂しくもなった。

春は出会いの季節だと巷では囁かれている。もしそれが本当なら、あたしはここ数年大した春を迎えていないな。新しいクラスメイト。でも新しい友人はできない。クラスで孤立しない為の、契約のようなともだち。だけどまぁ、それで良いと思っている。深く関われば関わるほど、あたしはみんなにとって悪影響だ。みんなはとても純粋で、綺麗で、己の欲のまま生きていて、いわば子ども。あたしはとても、ずるくて汚い。例えば目を片方瞑ったときのように、少しぼやけて見にくい世界。何かがあたしを蝕んでいって、ある日突然あたしが自覚のないうちにとんでもなく悪なモンスターに変化して、何もかもを滅茶苦茶にしてしまう。そんな気がする。


それは五月の連休明け、まだギリギリ春の季節。あたしは夏休みや冬休みの終わりに体調を崩しやすく、それは五月の連休も例外ではなかった。案の定熱を出したあたしは、一日休んでから登校。あたしだけがいなかったクラスはきっと空気が美味しいのだろう、なんて考えながら教室に入り、今年はじめてあたしを知った人たちがあたしを取り囲んで言った。

「体調はもう大丈夫なの?」

この台詞が嬉しかったのは最初だけだ。今では少し呆れと諦めが混じる。それでもしっかりえくぼを作って、大丈夫だよとにこやかに。あたしはお屋敷のお嬢様なのかしら、なんて戯けて手を叩いて笑って、上手くクラスメイトを演じる。部活に顔を出せば少しはマシになるだろうか。いやそんなことはないな。どこに行っても、誰の前でも、あたしはあたしになれずに仮面を被っている。

重い足を引きずって図書室に入ると、見慣れないひとがいた。背が高いーーでも上履きのつま先が青色だから一年生だろうーー後輩。遅れた新入部員だろうか。勿論大歓迎だ、と思いながらいつもの場所に座ろうとすると、顧問である図書担当教師が「高崎、久しぶり」とあたしの名を口にする。他人に彩られた自分の名前はあまりに不自然で、特にこの教師になぞられるのは苦手だ。図書担当教師とはとても思えない、言葉の美しさが分からないひとで、良くも悪くもない、普通の教師。顧問はその後輩のことも呼んだ。「中江ー!挨拶して!」と。

「昨日入部した中江なかえです、よろしくお願いします」

そう言って頭を下げた後輩は、ふわりとあたたかな毛布をかけられたような、優しく頭でも撫でられるような、なんというかとても落ち着く声をしていて、あたしは思わず呟いた。

「声、綺麗だね」

聴こえないように。そうやって目を閉じた後も、呼吸がこのまま止まってしまいそうなほどに、後輩の声が降り注ぐ。

「高崎天音……先輩」

「えっ、下の名前、なんで」

「その……本の紹介文を、読んで……」

あんなの。

あんなの“普通”誰も読まないのに。ましてやあたしの文、あたしが好きな本は特に。誰にも理解されなくて、いや、良いよねと言ってくれるひとはいたけれど、あたしが本当に伝えたい部分は理解されなかった。いつもそうだし、半ば諦めていたし、どうせ図書室に来る高校生なんて勉強か涼む為だし、誰も見るはずじゃなかったのに。

「あのコーナー見てくれたの?」

「全部は見ていないですけど……高崎先輩のが目にとまって、あの本読みました。心中エンドと……悪役が完璧な悪じゃなくて、はっきり正義と悪が区別されていないところが魅力的だなって」

そう話す後輩がふと昔の自分と重なった。はじめてあの本を読んだときのあたしには感想を話せる相手がおらず、ひたすらメモに残していた。そこに間違いなく“心中エンド、悪役が完全なる悪でないこと”と書いたのを、思い出した。心中エンドに惹かれるひとは多いが、後者は中々共感を得られない。だけどこのひとは、違う。あたしは思いきってあの話までしてみた。

「キーとなる桜の木、主人公は桜が好きだった友人を亡くしたから綺麗に見えないって言ってるけど、あたしはそんなことがなくても、咲いている桜、お花見で眺めるような桜を綺麗だと思えないんだ」

後輩の目が、僅かに見開かれたのが分かった。失敗したか、と思って覚悟を決める。まだあたしたちのやりとりを見守っていた顧問が口を挟んだ。

「だからさ高崎。何回も言うけど、桜の美しさが分からん奴は、美しい文章なんて書けないぞ?もっと日本の心をだな……」

「分かりますよ」

はっと顔を上げると、後輩が優しい顔であたしを見ていた。ほんの数秒に込められたその視線に、ゆるゆると首を絞められる気がして、あたしは慌てて瞬きをして、時間の流れを元に戻す。

「僕は、落ちてる桜のほうが好きです」

「えっ、あたしも!さっきまでひとに美しいといわれていたものが、一瞬で踏み躙られてるのが好き」

「僕も、花見に行く人々を見て、今踏んだのがさっきまであなたが写真に撮ってた桜だぞ、なんて思ってしまって」

頭がチカチカした。カーテンの隙間から差し込む、夏になり損ねた日差し。本の匂いと秒針の音に、淡いヴェールをかける運動部の声。はじめて、自分を理解してくれるかもしれないひとに出会ったとき、あたしはどんな顔をしていればいいのか、まだ、知らないでいたい。顧問が呆れたようにカウンターへ向かうのを横目に、あたしたちはまるで秘密を作ったように笑い合う。

「君は、何を創る?やっぱり小説を書くひとが多いけれど……」

本来は部長である雅がやるべきこの案内だが、なんとなく横取りする気になった。気付かれなければ、見つからなければ、大丈夫。大人しく、先輩らしいことをさせてもらおう。

「高崎先輩は……?」

「あたしも小説書いてるよ。読む?」

冗談のつもりで聞いた。女子高生が書く小説なんて、読めたものではないのだろうなと、勝手に思っていたからだ。ところが君は!君はまるであたしみたいに、見事にその冗談を無視して「読ませていただけるんですか!?」と、目を輝かせてしまう。これにはあたしも降参して、文芸部の棚から一番褒められた小説を引っ張り出す。顧問や部員たちが褒めてくれたものだ。あたし自身はあまり好きではなかったが。

「はい。こっちで、座って読みな」

窓際の、いつもあたしが座る席。そこに君を座らせて、あたしは向かいに座る。君が真剣な目であたしの直筆の原稿用紙をなぞっていく。もう葉桜になった木々が、校庭の隅っこに見えた。

春は出会いの季節。はじめてあたしにも、大がかりな春がきたみたいだ。

「先輩は、作業しないんですか?」

「えっ?ああ……雅たちは執筆に追われてるけど、あたしは一人にならなきゃ作業できないから。いつもこの時間は、皆の作品を校閲したりしてるよ」

「成る程……ところで先輩。これじゃないです」

君は好戦的に、原稿用紙をあたしに差し出した。

「これは高崎先輩の文じゃない」

挑むようなその声に、あたしは珍しく怯んだ。あたしを、本当に。

「……降参。万人受けするように頑張ったやつなんだ、それ。ちなみにあたしは全く気に入っていない」

「やっぱり……」

「はい、これは自信作だよ」

あたしはまた原稿用紙の束を差し出した。君は沈黙に沈むように文字を追いかけて、やがて、何も言わなくなった。ただ言葉を見つめて、他に何も知らないまま。あたしも雅から預かっていた原稿用紙の束を取り出し、校閲の作業を始めた。


夏休み明けには文化祭がある。、文芸部も全員の作品を冊子にして図書室に置く。雅の友人と、時々目にする物好きと、あたしたちが読むだけだが、自分の作品が本になるのは嬉しいものだ。雅はいわゆるラブコメを書くのが好きで、あたしは純文学といわれるものを書く。他には短歌や俳句、詩を載せるひともいた。あたしも時々短歌を載せたりするし、やっぱり創作は楽しかった。

「一年、誰が書いたか知られたくなかったらペンネーム決めて、作者名のとこに書いとけよ」

夏休みも後半。雅が顧問の業務連絡を拾い上げ、ホワイトボードに赤い字で“ペンネームでもいいよ!”と書いた。何やら可愛らしいイラストも付け加えて、友人たちと顔を見合わせて笑っている。雅も明るくて綺麗なひとだ。羨ましい反面、あたしはこうなれないのだと悲しくもある。窓がきっちり閉められて、クーラーの効いた図書室は少し肌寒い。大きな水槽が空っぽになったときみたいに、どこかくすぐったい不安感に襲われた。それをするりと潜り抜け、優しい声があたしの心にすとんと落ちた。

「ペンネーム……天音先輩はあります?」

「だからさ、その敬語、やめにしない?もうあたしたち友人みたいなものでしょ」

君とはお互いの好きな本を薦め合ったり、お互いの作品について言い合ったりするようになった。君は詩を書いていて、それをはじめて読んだときには自分に似たものをひしひしと感じた。あたしの中で君はもう後輩ではなく、仲間であり、唯一の自分の理解者だったのだ。

「でも、僕は天音先輩のことすごく尊敬していて、師匠みたいなものだし」

「あたしだってそう思ってるよ。むしろあたしが敬語を使いたいくらいに」

そう言ってやると君は「それだけはやめてください」と笑って、暫く天井を見ながら唸った。

「じゃあーーお互い敬語は使わない。これでどうですか」

真っ直ぐな瞳に、一瞬全てを見透かされた気がして恥ずかしくなった。出会ってから少しずつ自覚しはじめた君に対する巨大感情が、もしもバレていたなら、あたしはもう生きてはいられないだろう。

「君ねえ……それが敬語だよ」

そう言って笑ったあたしの声は、限られた喧騒に掻き消されてしまう。文芸部のメンバーはやっと十人を超えたほどの少人数。にも関わらず、雅たちが騒がしいからか、図書室はいつも賑やかだ。おかげで、皆より離れた窓際で繰り広げられるあたしと君との会話は、確実な秘密になってくれた。

「ペンネームの話だっけ。あたしは何の捻りもない“天音”だよ。本名で書いているひともいるし、別に決めなくてもーー」

音巴おとは。音巴にします」

君は原稿用紙の端に字を書いて見せてくれた。音色の音に巴という字。また素敵なネーミングセンスだなと感心していると、君は意地悪っぽく笑ってあたしを見た。ふわりと君の前髪が動いて、時間の流れがまたゆるやかになる。

。音っていう字、良いよね」

「え?うん、そうだね……?」

「はは、鈍感だなぁ、天音さんは」

不意に鈍感呼ばわりされたことが気に食わず、あたしは黙って俯いた。確かにあたしはひとより鈍いのかもしれない。


小さい頃から文章を書くのが好きだった。読書感想文、人権作文、授業で書かされる作文。小学校低学年で書いた読書感想文は、あまりに大人びすぎていると教師から気味悪がられた。あたしは気取って書いたわけではなく、本当に、自分の思うまま鉛筆を握りしめていただけなのに、そんなことを言われた。高学年になると、文章と年齢が釣り合ってきたのか、極端に非難されることはなくなったが、あたしは今も“気持ち悪い文を書く子ね”と見下ろされた瞬間を思い出しては指が震える。

小学四年生のとき、読書感想文のコンクールで賞をとった。一番大きい賞ではなかったが、クラスメイトも教師も褒めてくれて、嬉々として家に帰り親に伝えた。その作文を差し出して、読んでみて!と言ったのを覚えている。ところが両親は、目も通さずにその原稿用紙三枚をびりびりに破いてしまったのだ。あろうことか破られるとは!

今になってみれば、両親は、自分たちより出来の良いあたしが気に食わなかったのだろうと分かる。しかし両親だって頭が悪いわけじゃない。あたしがこれだけ言葉が好きなのは、両親が沢山本を読ませてくれたおかげだ。なのに文章を書くという面においてだけ、ずば抜けて両親を超えてしまったあたしは、好きなことをすると怒られるという最悪な環境に陥ってしまった。

それでもやめられずにあたしは作文を書いて沢山の賞に応募した。一番大きい賞をとれば、両親も褒めてくれるんじゃないか。そんな淡い期待を抱きながら全国コンクールに応募して、小学六年生の夏、読書感想文が一番大きい賞をやっととった。全校集会で表彰もされた。嬉しくて、嬉しくて、家に帰って手を洗う時間ももどかしく、急いでランドセルを漁って、原稿用紙五枚を両親に見せた。

「あたしの読書感想文、全国で一番になったんだよ!一回で良いから、読んでみてくれない?」

母親が黙って原稿用紙を掴んで、ゆっくり目を通すのをじっと見ていた。やがて母親は父親に何やら告げて、二人してゲラゲラ笑い出したのだ。

「あんたさぁ、感想文って知ってる?小説じゃないんだよ?何この気取った文章、気持ち悪いなぁ!」

“電気をつけることも許されない、うす暗いリビング。遠くで聞こえる五時のかね。血の気が引いて、世界にたった一人だけ残されたようで、すごくこどく感を覚えた。”

当時の日記ですらこんな文章で書いてしまうあたしは、ひととして大切な部分が鈍って生まれてきたのかもしれない。

その後中学では図書室に入り浸り、司書教諭にそのことを話した。司書教諭は「じゃあ、いっそのこと小説を書いてみる?」とあたしに原稿用紙をくれて、あたしはそれから、両親に隠れてひたすらに小説を書いた。小説を書くのは中々に難しくて、でも楽しくて、あたしは今も両親に秘密のまま書き続けている。


夏休み残り一週間。自室に鍵をかけて、万が一開けられてもすぐにはバレないように、クローゼットの中に小さい机を持ち込んで、原稿用紙を広げる。クーラーと扇風機の風で原稿用紙が吹き飛び、慌てて拾った。もうあと少し、少しで終わる。早く仕上げて、君に読んでもらいたい。あたしはいつの間にか、小説を書くのが好きなのか、それを君に読んでもらえることが好きなのか、分からなくなっていた。夏休み中も時々連絡をして、街の図書館で待ち合わせて、作品を読み合う。たまには本屋へ行って、好きな本を語り合った。君は花火をどう表現するのだろうと気になって、花火大会へ誘ったけれど、その日は残念ながら断られてしまったな。なんて、ぼんやりと君のことを考えては、また手が止まっている。

「天音〜?今日のお昼は……」

遠くで母親の声が聞こえて、慌てて立ち上がって部屋の鍵を開けた。なに?と出来るだけにこやかに微笑んで、首を傾げて。

「素麺にするか冷やし中華にするか悩んでてね〜」

そのとき足もとを冷たい風が通った。はっとして横目でクローゼットを見ると、今日に限って扉を閉め忘れている。そこに置いていた扇風機がゆっくりと首を振り、そしてーー原稿用紙の束をこちらに向かって吹き飛ばした。バラバラになったあたしの小説が母親の足もとまでやってきて、やがてゆっくりと拾われる。

「……天音、まだこんなの書いていたの?中学生になってから見なくなったのに、隠れてやっていたの?なんて親不孝なの……しかも気味悪い文章なのは相変わらずだね」

「お母さん!それはあたしの大切なーー」

声が震えた。あと一週間もしたら提出しなければならない原稿。明日には完成して、君に読んでもらう原稿。死守しなければ。あたしは恐怖を押し殺して必死で手を伸ばした。母親はあたしより背が高い。

母親はあたしの部屋に足を踏み入れると、ゆっくりと原稿用紙を拾い集めた。良かった、ちゃんと戻してくれるんだ、そう思って油断したのかもしれない。母親は全部揃った原稿用紙の束を、あたしが届かないくらい高い位置で持った。そして隣の部屋の扉を開ける。

まさか。

その部屋は納戸だ。ドライバー、ミシン、プリンターなど、毎日使うわけではないが必要なものたちが沢山置いてある。そしてそこにはーーシュレッダーがあるのだ。

「お母さん!返して!」

悲鳴に近かったと思う。泣きそうだったけれど、涙を見せたら終わりだと思った。母親はそんなあたしを冷たい目で見て、あたしの目の前で、夏休み前から書いていた原稿用紙二十枚を超える小説を、シュレッダーにかけた。


息が止まるかと思った。


「で、天音。お昼はどっちがいいの?」

このひとは悪いなんて思っていないのだ。あたしの大切なものを壊しても、今日のお昼ご飯の話が出来るくらい、娘の好きなものを奪うのは、当然のことなのだ。

「……あたし、出かけるから、お昼ご飯は要らないよ」

母親の返事を待たず、スマホと財布だけを掴んで駆け出した。多分サンダルを履いたと思う。だけど裸足のように足裏が痛くて、熱くて、最寄りの駅で適当に券売機にお金を入れて適当に切符を買った。どうやら近場の海まで行けるらしかった。

電車に乗って、空いた席に座った途端、一気に感情が押し寄せて吐きそうになる。どうしたらいいか分からなくて、気付いたときには視界がぼやけて揺れていた。大好きなものを奪われて、どうやって生きていけば良いのだろう?声を押し殺すので精一杯で、海に着いた途端、あたしは砂浜に座り込んでしまった。そうだ、君に連絡しなくては。読ませる小説がなくなったと言わなくては。その一心で電話をかけて、君の柔らかな声が少しくぐもっていることではじめて、そういえばご飯どきだったと思い出した。

「天音さん?僕いまお昼食べてるんだけど……」

「あっ、ごめん……そうだよね、気付かなくて。なんでもないから、またーー」

明るく、出来るだけ明るく。電話越しじゃ伝わるはずもないのに、えくぼまで作って、笑った。なのに。

「声震えてんだよ。なんでもないように聞こえないんだけど」

君が立ち上がったのだろうか。がたりと椅子を蹴る音がした。

「どこにいるの。僕、そっち行くよ」

「え、でも」

「いいから!どこにいるか言って。その状態のあんたを放ってご飯が食えるほど、僕はあんたを嫌いじゃない」

あたたかな毛布をかけられたような、そんな声。はじめて話したときと変わらない、綺麗な声。波の音で嗚咽が隠れて助かった。あたしはありったけのを振り絞って呟く。

「海……」

「天音さん。海だけじゃ、分からないよ」


雅になんて言おう。それより、君になんて言おう。この夏のすべてを捧げて、溶かして、書いたのに、もう戻らないのだ。ぼんやりと波を眺めていて、急に海の向こうで名前を呼ばれた気がした。行かなくちゃと使命感のようなものに急かされて、何もかもを呑み込んでくれそうな青色のほうへ、ふらりと歩き出す。今更足もとを見て、左足は裸足だったことを知った。貝殻が刺さったのか、親指のあたりから血が出ている。生温い海水が足を掬って、あたしはやっと息をした。着ていたロングスカートが冷たく重たくなったことで、膝まで浸かってしまったのだと悟る。もう一歩、踏み出そうとしたところで、誰かに強く、後ろから引っ張られた。

「天音さん!」

「音巴……」

君の顔を見たら涙が止まらなくなった。水面から顔を出したように、やっと音がクリアに聞こえてくる。強い力で軽々と抱き上げられたあたしは、数年ぶりに声を上げて泣いた。好きなものが一瞬にして奪われて、そして壊される絶望感と、黙って見ていることしか出来なかった無力感。両親が怖くて怖くて仕方なかったこと。なくなっちゃったんだ、なくなっちゃったんだと泣き叫ぶような、そんな幼い子供のような訴え方しか今のあたしには思い付かなくて、君が、優しく背中をさすってくれて、漸く安心感が加わった。

砂浜の端にある階段まで連れて行ってくれた君は、あたしが座ったのを確認してから隣に座った。暫く沈黙が落ちて、あたしが泣き止んだのを知ってから君は口を開いた。

「何がなくなっちゃったのか、聞いてもいい?」

あたしは頷きながら、恐る恐る名前を口にする。

「……“秒針などなくても”」

「それって、明日読ませてくれるって言ってた小説のタイトルだよね……?失くしちゃったの?」

「違うよ。壊されちゃったんだ」

「……そっか」

君は大きな手であたしの背中をさすった。たぶん、なんて声をかけたら良いか、分からないのだと思う。あたしも次の言葉を全く想像出来ない。内面ドッペルゲンガーの君とあたし。もういっそあのまま二人して、海に沈めば良かったのに。

「……僕ね、最近、短歌やってみないかって、部長さんに声をかけられたんだ」

「部長?ああ、雅のことか」

「部長さんって、そんな名前だったっけ?天音さんしか覚えていないからなぁ」

罪なひと。あたしの痛みをどんどん和らげて、まだ生きていく理由を作ってしまうのだから。潮風があたしたちの髪を撫でて、そこだけ夏から切り取られたみたいに穏やかになる。

「でも、僕ひとりじゃ納得いくものが創れなくて。下の句を考えてくれない?」

目を擦って視界をクリアに戻す。首肯してーーでも上手くできるか分からないよと付け加えた。

「じゃあ天音さん。試しに、一句詠もうよ。はいーー冷たさが、覆い隠した、身長差」

ああきっと今のことを詠っているのだ、そう気付いたら自然と言葉が溢れた。

「……このまま心も、隠してくれと」

きっとあたしは、君のことが好きなんだ。どうか、その心が見透かされることのないまま、安らかに、眠るように、君の手で、殺されていきますように。そう願うしか、あたしには手段がない。

「字余りだよ、天音さん」

「うるさいよ」

濡れたスカートが乾くまで、まだ、君と二人でいられる。夏の日差しはもう少し、弱くても良いかもしれない。


「え、マジか。アマちゃん、書いてた小説失くしちゃったの!?」

次の日、あたしは朝から学校で作業しているという雅のもとに赴いて謝った。

「ごめん雅……あたし、どこかに置き忘れちゃったみたいでさ」

失くしたことにすれば、誰のことも恨まないで済むと思った。あたしはへらへら笑いながら、雅に手を合わせて謝罪する。雅は「何やってくれてんの……」と呟きながらも、どうにもならないし仕方ないなと許してくれ、まだ頁を調整出来る段階だった為、大幅にはしょってしまおうという話になった。

作業しているのは雅だけーー図書室にいるのは雅と顧問とあたしだけだった。活動は昼過ぎからだし、全員揃わないのは当たり前だろう。

「雅は髪短くて涼しそうだね」

「そう見えるでしょ?でも伸びかけのショートボブって結べないから、首のとこ暑いんだよ!?冬に切るんじゃなかった……」

「でも、可愛いよ」

「じゃあ、良いかっ!ねぇアマちゃん、アマちゃんの頁空いちゃったけど今回はもうパス?」

雅の手元には沢山の書類が積み重なっている。文芸部には、全員分の原稿を集めて冊子にするくらいしか、大がかりなイベントがないのだ。一大事である。

「そのことなんだけど。あたし、音巴と短歌やろうと思って」

「音巴……ああ中江君か。二人っていつも一緒にいるよね?」

「まぁ、気が合うし」

皆の原稿を校閲する為下を向いていたら、雅ががさがさと書類を漁っていた音がぴたりと止んだ。気にせず文字を目で追っていたが、あまりに雅が動かないので何事かと顔を上げる。雅はにやにやしながらあたしの顔を覗き込んできた。

「アマちゃんってもしかして……中江君のこと好きなの?」

海で二人を見逃してくれた夏が、急速にあたしの中に入り込んできた。きっちり閉じたはずの窓の隙間から、やけに煩く蝉の聲が流れる。あたしを目敏く見つけた夏が、あたしの体温をぐんと上げる。心臓がぎゅっと怯むように、叫ぶように、激しく動き出す。クーラーの風で揺れるカーテンが、途端にゆっくりに見えた。いつもの窓際の席じゃない場所で、君のことを考えている。

「そんなじゃないよ!ただの友人だよ」

お決まりのえくぼを作って笑うと、雅はふっと息を吐いた。途端にカーテンの波が滑らかに戻る。

「良かったあ。中江君、中学からの彼女いるって言ってたから!」

早送りになった視界で、雅の純粋な笑顔がぐるぐるまわりだす。どうやら今年のあたしの夏は、別れの季節らしかった。

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