水彩紙

裏掟シニメ

水彩紙

人はいつから電球の集合体に美しさを見出したのだろう。

夜というものはもっと自由で寄る辺ない、ただ深くて冷たいものだ。その静寂を見抜いたとき、やっとその夜を掬うことができる。手の中にある夜に涙が出る。

そう思っていた。だから、イルミネーションなんてものは夜を拘束して踊らせるだけのものだと、今も信じている。


「僕もそう思ってる。つくづく気が合うよね」

サークル飲みの帰り。帰る方向が同じで一緒になった、背の高い後輩が笑った。

あたしは一浪して入ったので、歳は二つ上なのに学年では一つ上だ。君とは高校から同じ部活で仲が良かった。そして君とは、そう、、のだ。

「やっぱり考え方似てるんだろうね、あたし達。こんなこと言って引かない友人は君だけだよ」

歳下なのに君が敬語じゃないのは、あたしがそう頼んだからだ。部活でーー高校は文芸部で今は同名のサークルなのだがーー初めて読んだ君の詩があまりにあたし好みで、最早あたしが書いたのではと思うほどに、あたしの創るものに似ていた。あたしが書くのは小説だったが、それをあれだけの字数に収めたらああなるのだと言われても納得してしまうような。その瞬間にあたしは君の追っかけになり、むしろこっちが敬語を使いたいくらいだった。その提案は君が却下し(君も同様の感情をあたしに抱いていたとそのとき聞かされた)、お互いにラフに話している。

酔いが回ったのだろう。駅前のイルミネーションが歪み始めた。やっぱり美しさを見出せないねと話しながら歩いていると、あたしのスマホが鳴った。

「恋人?」

「うん、明後日のデートの話」

恋人とは付き合って二ヶ月。付き合ってまだ一回しか会ったことがなく、友人によれば他に女がいるとのことだった。確証がなくて放置しているが、こうして連絡がくるたび今後どうするか悩んでしまう。それでも大切な人には変わりなくて、結局返信をする。

「いいね、楽しいときだね」

「でも、君との時間を邪魔されたから少し腹が立っちゃった!」

「…冗談は程々にしてよ。僕だって彼女いるんだからね」

そう君は戯けた。

「知ってるよ。だから諦めなきゃって思ってるんだもん、高校のときから君が好きだったの」

ぼんやりする頭であたしは君を見ていた。自分が何を言ったか分からず、君の綺麗な目が長いまつげに二度、三度、素早く隠されるのもちゃんと見ていた。やがて君は目を逸らして、呟く。

「そうだったらいいのにって思ってたよ」

君はお酒が強い。

だから、きっと、その言葉の重みもちゃんと分かっていたはずだ。分かっていて、君は。


「頭痛薬持ってない?」

酔っ払っても記憶が残るタイプだ。あたしは自分の発言の重さに気付き、考え、散々悩んだ挙句、図書館で執筆中の君に、小声でそう言うしかなかった。

「昨夜の発言、無かったことにしようとしてるの?天音あまねさん」

敬語は使わないくせに、さん付けは抜けないんだ。いつもの君だ。こんなに動揺しているのはあたしだけなのか。あたしは向かいの席に座ると黙ったまま原稿用紙を広げた。

「あんたは一人にならなきゃ作業できないの、僕知ってるんだけどなぁ」

君は顔を上げずに言う。あたしはハッタリを見破られ、なす術もなく机に突っ伏した。

「人の話聞いてるー?無かったことにしようとしてるの?」

ちょっと生意気なところもいつも通りだ。あたしは人からクールだのとっつきにくいだの言われるが、君だけはこんなふうに話してくれる。それが好きだった。

「そうするしか、ないでしょ?あたしには晴斗がいて君には由芽ちゃんがいるんだから」

あたしは仕方なくスマホを取り出して眺めていた。君もこっちを見ずに呟く。

「…あんたならそう言ってくれると思ってたよ。これまで通り、なんら変わりない、友人として仲良く、やっていけるよね、僕ら」

「やらなきゃダメだよ、ここを地獄にしたくなかったらね」

そう言いながら、スマホの画面では彼氏に別れ話をしようとしているあたしは、なんというか、馬鹿正直とでもいえばいいのか。今までずっと隠して上手くやってきた君への感情をやっと自覚してしまって、彼氏と付き合っているのがまるで悪いことをしているかのように思えたのだ。

君を知ったとき、君には既に彼女がいた。彼女からの猛アタックを断りきれず付き合ったのだと言っていたが、真偽は定かではない。もう付き合って何年も経つのに、キス以上は無いようなか細いお付き合いだということはその彼女から聞いて、それとなくデートのセッティングなんかさせられるような関係だった。あたしは君を忘れるために彼氏を作った、と言っても過言ではない。それなのに酒に弱いせいであんなことを口走るなんて、あたしは余程君が好きなのだろう。こんなに似た者同士なのは中々いないし、あたしは密かに“内面ドッペルゲンガー”と呼んでいた。好きな本もよく似ていて、お互いのオススメは絶対ハマってしまう。

「そうだよね。上手くやれるよね、でも」

その先の言葉が分かった気がした。君はそれを一語一句違わず紡ぐ。

「地獄に堕ちる覚悟は持っておかなきゃね、お互いね」

「案外、地獄のほうから迎えに来たりして〜」

ネイルを気にするギャルを思い浮かべて、その真似をしてみた。だがあたしの爪はなんの色味もなく、淋しいだけだった。あたしの心もきっと、こんな淋しさを抱えているのだろう。その水を張った水彩紙に絵の具を落とせるのは、きっと君だけなのだということも、どこかで分かっていた。


次の日、僕はテラスで、印刷してもらった天音さんの小説を読み耽っていた。この小説は天音さんが僕と出会う前に書いたものらしく、まだ少し初々しさの残る文章を指でなぞっていく。直筆の原稿用紙を印刷してあるので、筆跡は確かに彼女のものだ。小さくて雑に書かれた癖のある字。何度も何度もこんなふうになぞったのだから、分かる。

僕は彼女のファンだ。

高校入学当時、僕は帰宅部だった。帰宅部のくせに真っ直ぐ帰らず、図書室で本を読んでいた。その日は惹かれる本が見つからず、文芸部のオススメ本コーナーを眺めていたら、高崎天音の名が目にとまった。本当になんとなく、紹介文に目を通した。そのときの言葉選びが僕とよく、それはとても、似ていると思った。僕は彼女が推していたその本を読んで、そして、それを返すついでに図書担当教師に頼んで文芸部に入部した。彼女が好きと言った本をこんなに好きになるんだから、きっと彼女が書くものはもっと好きになるだろうと、読みたいと思ったのだ。ところが彼女自体を好きになってしまうなど誤算だった。

その頃には僕には恋人がいたが、それは相手を拒みきれずだった。しかしそんなことが免罪符になんてならない。僕は彼女への感情を隠し、ただのファンをやった。何枚と原稿用紙を読んだ。友人になってからは、お互いに助言し合った。それが幸せで、恋人とも天音さんとも、この関係でいるのが真っ当で、やがて天音さんにも恋人ができて、このまま生きていくのが普通なのだと、思っていた。

「なぁ中江、お前と同じサークルの美人の先輩、別れたってほんと?」

不意に知らない人に話しかけられ、顔を上げると五人ほどに囲まれていた。その五人ほどの中には同サークルの先輩もいる。先輩はそれなりに大きな声を出して、嬉々として告げた。

「だから、俺は何度もそう言ってるだろ?高崎天音は今、フリーだって」

今、なんて。

「…先輩。それって、本当ですか」

焦って口に出した言葉たちが、震えていることに漸く気づく。僕は、彼女ほど強くはないんだ。

「本当だが?彼氏だった上野晴斗から連絡を受けた。加えて、さっき高崎天音に会って問い詰めたら明るい顔で、別れたと言われたぞ」

先輩の言葉にまわりの人間がどよめく。天音さんは美人だ。まつげは長いし、髪は真っ黒で長くて、でもどこか人を寄せ付けないオーラがあって、客観視すればクールな印象だ。もっとも、打ち解けてみるとお茶目で可愛いのだが。それを知らなくともこんなに人気があるのだから、天音さんはきっとまたすぐに恋人ができてしまうだろう。そしてもし、僕が独り占めしているあの素の天音さんを誰か他の人間が見ることになったら?そうしたら僕はもう用済みかもしれない。何より天音さんが誰かの隣にまた並んでしまうかもと思うと、吐き気がした。

僕は立ち上がった。彼女の小説を読み切らずに原稿用紙をしまうのは初めてだった。先輩達に軽く挨拶をして、早足で駅へ向かう。まだ明るいので、電球の巻き付いたただの木が並んでいた。このほうが綺麗だ。

カフェに入って、恋人を呼び出した。多分僕から連絡したのはこれが最初だと思う。僕が天音さんと似ていないところは、自分の意見をはっきり言えないところだ。僕は恋人さえ何年も騙し続けてしまう最低な人間なのだ。

恋人は喜んで来てくれた。それが余計に辛くて、やっぱりやめようかと思った。でも、彼女がこのタイミングで別れたということは、そういうことだ。僕だってちゃんとけじめをつけないといけない。このままずるずるとどっちにも嘘を吐き続けるのはもう沢山だ。

「由芽。突然で悪いけど、僕とは別れてほしい」

恋人は少し悲しそうな顔をした後、「そうかなって、ちょっと思ってたの」なんて言った。こんなに長い間騙されてくれていたのは、僕を大切に思ってくれていたからなのだろう。だがもう引き返せはしないのだ。天音さんと僕と共同作業で取り付けた時限爆弾は、刻一刻と地獄までのカウントダウンを始めている。

恋人を見送った僕は、駅前のベンチ、ちょうどこの間天音さんが爆弾発言をしたあたりに座ってスマホを取り出した。

“天音さんにその気があるなら、僕は午後十時まで一昨日の場所にいるから、来てください。”

十分間は画面を凝視して待ったが既読はつかなかった。僕は画面を閉じて彼女の小説を読み進める。その主人公はこんな台詞を口にした。

“何もかも遅すぎたときって、どうするのが正解なの?過去に戻るくらいしか、私は思い付かないのだけれど”

何もかも、遅すぎたときーー。

もう、遅いのだろうか。あのとききちんと告白を断れていたら、天音さんの横に並ぶのは、僕だったかもしれないのに。


あたしは図書館で太宰治を読んでいた。だから気付けなかった、というと少し言い訳になってしまう。何も考えたくなくてスマホの電源を切っていたのだ。再び電源をつけたのは、午後九時を過ぎてからだった。駅前のスーパーで買い物でもしていくかと、スマホ内の買い物メモを見ようとしたときだった。

君からの連絡があった。

かつて書いた小説の主人公は言う。“何もかも遅すぎたときって、どうするのが正解なの?”と。

それでも気が済むまで動くしかない。君が待っているのなら、遅すぎたとしても行くしかない。考えていることは、もしかしたら、あたし達のことだから、同じかもしれないから。

音巴おとはっ……!」

息を切らしたまま君を呼ぶと、君は困った顔をして言った。

「ペンネームで呼ばないでって、何度も言ってるでしょ」

「だって、本名を口にするのは、あまりに烏滸がましい気がするんだもん」

「聞き飽きたよ。はい、原稿用紙は返すよ。面白かった。中盤の主人公の台詞がいいね。何もかも遅すぎたときって、のやつ」

なんだ、それだけの用事か、という安堵と、その台詞が残るなんてやっぱり君はあたしと似ているのだ、という欣喜雀躍が渦巻いた。原稿用紙を受け取って横に腰掛け、君の横顔を見上げた。綺麗な目だ。軽めのコートは君に不釣り合いで、それがまた堪らなく愛おしくなる。

「でしょ〜?いいでしょ。なんか残っちゃうのよね、その台詞」

「うん、すごく良い」

「ねぇ、君はさ。何もかも遅すぎたとき、どうする?」

何気なく口にしたはずなのに、自分の声が裏返ったのに気がついた。恥ずかしくって消えたくなる。点灯した電球たちが、夜を縛って動けなくしている。そんな夜の中に閉じ込められたあたし達も、身動きが出来ずに焦ったい。夜はもっと、深くて冷たい。

「それでも動くかな。お互い、ちゃんとけじめはついてるみたいだし、僕の気が済むまで」

やっと目が合った。

君の中にあたしがいる。そしてきっと、あたしの中には君がいる。淋しい色をした水彩紙が、段々淡く染まって、そして、やがて、君がそこに絵を描くんだ。今まで通りでも構わない。あたしは君しか絵の具を持っていないことを知っている。夜が拘束されていると、そう言ってしまえるのは他に君しかいないのだ。だから、あたしは、やっぱり気が済むまで動くしかない。

「「一緒に地獄に堕ちてくれる?」」

君の声とあたしの声が重なって、まるで絵の具を溶かした水が一気に降り注がれたようだった。水彩紙は破れて、気がつけば視界までもが滲んでしまう。

「いいよ……堕ちようよ、どこまでも、戻れないとこまで堕ちてしまおうよ」

君に背中をさすられながらそんな気取った言葉を吐く。本当に、奥の奥からやっと吐き出すように言った。もう何を言っても余計なことにはならないのだから。

「天音さんーーあんたは、遅すぎたときどうするの」

「動くよ。気が済むまで動く。だからここに来たんじゃない……まだ、遅すぎたなんてことはなかったんだね」

「それどころか、本当に地獄のほうから迎えに来てくれたな」

「地獄、地獄って。君となら地獄じゃないのに」

どこまでも、どこまでも堕ちていけると、本気で思ってしまった。君があたしの死神で、爪を研いで待っていたのだとしたとて、あたしは君の手を取ってしまうだろう。どんな君でも、愛せる自信がある。

「天音さん、イルミネーションって、こんなに綺麗でしたっけ?」

君の声が頭上で聞こえる。あたしも君の目線の先を捉えて、不思議に思った。本当だ、綺麗だと思える。夜は拘束ではなくて、装飾されていたのだろうか。だがそれを認めてしまうのは少し悔しくて、あたしは強がってみる。

「視界がぼやけてるからだよ」

だってほら、君の水彩紙も、破れてしまったようだったから。

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