湖畔の蔦這う小屋敷より

仔羊

夜を撫でる風

  


 やけに目が冴えている。1時間ほど前に飲んだ珈琲の茶素カフェインの所爲だろうか?

就寢前に飲む加密列紅茶カモミールティーの茶葉を切らしてしまっていたので、仕方なく珈琲を淹れたのだ。ミルク多めで、砂糖は角砂糖をひとつ。優しいミルクの香りと、珈琲の苦味が混じりあって、夜想曲でも奏でているような具合だったのを思い出す。

幾ら珈琲の味を思い出しても、目は冴えたままだった…―――柔らかい枕にうずめていた顔を上げ、身体を起こす。あんまり眠れそうに無いので、絹織寢閒着ネグリジェを搖らして立ち上がり、シェリルは部屋の小窓を開けた。

優しい微風が麗絲製窓掛レースカーテンを揺らし部屋に入り込んでくる―――彼女の長い髮を搖らし、頬を擽る様に撫ぜた。心地良さに目を伏せ、窓の縁に手をかけ風に身を委ねる。夜に染った風に、窓際を這う蔦と主張の控えめな花が踊っている。靜かな夜を風が囁く様に撫で、草木の葉が擦れる音が微かに唄っている様だ。

雲の隙閒から、僅かな月明かりがシェリルを照らす。花紺靑スマルトよりも深い深い夜に煌めく、何光年も過去むかしからの星々の光の一部が、今夜いまを搖蕩う雲に遮られていた―――。


 ホー…ホー……遠くから、梟の鳴き声こもりうたが聞こえてくる。

伏せていた瞼をあけると、遠くの木の枝に梟の羽根が羽ばたくのがちらりと見えた。

目を瞑っていて見えなかった景色が、眼前に広がる―――月光に照らされきらきらと輝く湖の水面と、周りの草木がまるで油繪の様に美しく、思わず見蕩れてしまう。窓際に腕を組み、服のシルクに頬をうずめて……夜を撫でる風が、優しく搖らめき続けていた。

 夜に浸っていると、先程まで鳴いていた梟が此方へ飛んでくる……大きく羽根をはためかせ、窓際に降り立つ。くちばしに手紙のようなものを咥えていて、如何やら其れを渡そうとしているようだ。

からかしら。」

小さく声を漏らし、手紙を受け取る。薔薇の模様付の、洒落た紅い封蝋の付いている面を裏返すと、差出人の名前が記されていた。

“ ヴィヴェカ・ロビン ”…踊る様に華奢な線で書かれた英字を瞳に映すと、シェリルは少し驚いた様な表情かおをする。ヴィヴェカ・ロビン――彼女はシェリルの舊友きゅうゆうであり、同僚である。以前は此の小屋敷で共に働いており、生活を共にしていた。數年前すうねんまえひとり立ちし、此處ここを離れていたのだ。―――シェリルは其の名に懷かしさを憶えながら、僅かに色褪せた思い出に浸る―――そして、思い出より少し鮮明な紅の封蝋を開けた。


『 親愛なるシェリルへ


 此方の生活が一段落したので、やっと貴女に手紙を出せたわ。何年も待たせてごめんね。

貴女の事だから平氣だと思うけど、體調たいちょうを崩したりしてない? まだひとりだと思うから… まぁ、貴女はポジティブだから大丈夫そうね。

それより、いい話があるの。少しの閒其方へかえるわ。1年から2年くらいになるかしら、長めの休暇をとったの。

此方の地方の珍しいお土產とかたくさん持って歸るわ。貴女がこれをんでいる頃、私は夜行汽車に乘っていると思うの。晝頃ひるごろには着くと思うから、よろしくお願いするわ。

こっちは風が强かったり寒い日がつづいていたから、早くそっちに行きたくて、ふふ。

屋敷の蔦がどのくらい伸びてるか少し樂しみにしているわね。

じゃあ、おやすみ。夜更かしをしてはダメよ。


                     雪の降る夜より ヴィヴェカ 』



“あらまぁ、なんということでしょう、ベッキー!歸ってきてくれるのですね、何年ぶりでしょう。”シェリルは心の中で、舞い踊るような嬉しさに包まれた。

梟が首を傾げて此方を見つめている。――梟の視線に氣づき、はっと我に返る。寢て起きたら早く支度をしなければ。晝閒燒いたパウンドケーキの殘りがあるのを思い出し、彼女が歸ってきたらそれでもてなそうと――いけない、夜更かしはだめと言われたばかりでしょうに。つい、密かに氣分が高揚するのは、シェリルの惡い癖だった。


“いけないわ、これではベッキーにまた怒られてしまうわね。嗚呼、こんなにも夜が早く明けて欲しいと思うだなんて、何時ぶりかしら……。”――シェリルはトントンとかるく胸を叩き、心を落ち着かせる。窓際を飛び立ち、夜の闇に姿を眩ませる梟に、別れを吿げ、そして窓を開け放した儘――夜を撫でる優しい風を肌に感じながら、柔らかい布團ふとんに身を包む。瞳を閉じて、明日の訪れを待ちながら………そのうち、深い夢へと誘われるのだった。




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