恋
瀬戸はや
第1話 元気な若い人が入ってきた
それまではただ元気な若い人が入ってきたなぐらいにしか考えていなっかった。特別な感情はなかった。およそ半年、彼女と一緒に春日台に子供たちを迎えに行ったりするうちに僕の中で綾子さんに対する考え方が少しずつ変わっていた。それは自分でも驚くような変化だった。僕は彼女のことが好きになってしまった。二十歳以上も離れている彼女のことをだ。60歳を過ぎている男が二十歳そこそこの女の子のことを好きになるなんて誰にも話せやしない。
車中1
「業務用スーパーに行かれたんですよね」
「どうして知っているんですか?」
「何かいいものありましたか?」
「そうめんが安かったですね。いつも買いにいくイオンの半分でした。」
「そんなに安く...」
「たまたま行った日がセールだったみたいで。」
「でも半額なんてすごいですね」
「昼は当分そうめんです」
綾子さんは楽しそうに笑った。
「私、内海にいた時があって、そこにはディスカウントスーパーどころか商店そのものがないんです。だからディスカウントスーパーを使った節約とかできなくて…」
どうして内海にいたんです?」
「教員資格の実習を受けるためです」
僕はもっと詳しく聞きたかったけれど、あまりしつこく聞くと嫌われるかなと思ってやめておいた。
「でも、内海だったら魚とかは安いでしょう。」
「それが安くないんですよ。」
「どうして?」
「魚はみーんな名古屋の方に持って行っちゃって内海には入ってこないんです。」
子供たちが待っている春日台高校までは片道で30分かかった。今日の運転は彼女の日だった。僕は運行記録を書いてしまうとあとはすることがないので黙っていることが多かった。30分の沈黙は長かった。彼女も気詰まりだったのか、自然に色々話してくれるようになっていった。そしてそれは僕の一番の楽しみになっていった。
「わたし野生のイタチを飼っているんです。」
「イタチ?」
「近くの公園にいたのをペットにしたんです」
「イタチがー」
野生のイタチなんているんだろうか。イタチが犬みたいに公園や道路を歩き回っている姿を思い浮かべようとしたがうまくいかない。
イタチって犬みたいに脚が縦にまっすぐじゃなくて、横に開いた感じだからだろうか。公園や道路にいる感じがしっくりこない。いるんだろうか野生のイタチが多治見には。綾子さんは野生のイタチを2匹飼っているそうだ。
春日台高校は高蔵寺の山を北に入ったところにあった。山の標高はたいしてなかったが、空気の流れが平地とは違うのか、こちらが晴れていても春日台に着くと雨が降り出したりすることが何度かあった。だから春日台に迎えに行く車には傘が常備2~3本入れてあった。
僕たちスタッフも春日台に迎えに行くときは空の様子をいつも気にするようにしていた。
「あの雲ちょっと黒いですねー」
春日台高校のある辺りの上空の雲を指さしながら綾子さんが言った。
「確かに黒いですねー。ちょっと降るかもしれませんねー。今日何人でしたっけ。」
「うちは3人です。スクールの方は何人ですか?」
「うちは2人です。」
「じゃあ、大丈夫ですね。」
傘は3本乗っていた。高学年の子供たちは大抵は自分で傘を持って来ていた。春日台高校には時間通りに到着した。迎えの車用の駐車場には、もう何台も車が停められていた。
「今日は近いところに留められましたね。ここなら、子供たちも喜ぶでしょう。」
今日みたいに雨が降りそうな日は、特に車を止める場所が大切になる。なかには歩くのが不自由な子もいて意外に時間がかかるのだ。
僕たちは子供たちが出てくるドアの前に行って待っていた。あと15分くらいで授業が終わる。今日は幸い雨も降らずに春らしい陽気の日だった。綾子さんは珍しく春物の新しいセーターを着ていた。
「新しいセーターですか?」
「そうなんです。わかります。」
白い花が咲くように、綾子さんは眩しく笑った。
「白いセーター、春らしくていいですね。」
「いいでしょう。冬の間、茶色とかグレートとか暗い色ばかりだったから。」
「いいですよ。似合ってますよ、しろ。」
「でしょう。」綾子さんは嬉しそうにVネックの辺りをつまんで見せた。
嵐の日
毎週月曜日は春日台の迎えに行く日だった。一緒に迎えに行く相手が誰なのかは車に乗り込むまでわからない。今日の相手は綾子さんだった。確か先週の水曜日にも綾子さんと一緒に春日台の迎えに行ったのに、また今日も一緒とはびっくりした。
今日はものすごい雨だったので僕も綾子さんもある程度の準備はしていた。しかし、あまりにも激しく吹き付ける雨に綾子さんは何度も怖いと言っていた。男の僕でも怖かった。ワイパーを一番早くしても視界が悪い。ゆっくり走らせて迎えに行くしか方法はなかった。
春日台の駐車場について少し待ってみたが、雨は一向に止まなかった。もう子供たちが出てくる時間になってしまったので、綾子さんは出ましょうかと言った。僕たちはえいやと覚悟を決めて外に出た。
車に乗せる子供たちが5人いたのに、傘は一人ぶん足りなかった。
綾子さんは何とこの雨を予測していたのか、カッパの上下を着こんでいた。
「用意がいいですね」と僕が言うと。
「でしょう」と、綾子さんは笑って言った。
駐車場から雨に打たれながら上がっていくと大変なことになっていた。元々山だったものを造成して高校を建てたから。場所によっては水はけが酷く悪かった。ちょうどこの辺りは少し雨が降るだけでいつも小さな水たまりが何時までも残っているところだった。今日のような土砂降りでは小さな水たまりは大きくなりちょっとした池ぐらいになっていた。むかえに来たほかのグループの人たちも困って立ち止まっている。
水たまりを前に僕は少し躊躇していた。綾子さんは迷うことなく池の中に足を入れた。僕も仕方なく水の中に足を入れた。
穿きなれた僕のローファーは完全に水に浸かってしまった。
子供達はなんとか傘をもらい、一人は僕の体に巻きつくようにして傘の中に入って歩いた。 次の試練は駐車場手前の大きな水たまりだった。そこには先生達がざら板を敷いて何とか渡れるようにしてくれていた。 僕たちは子供たちを先に渡して車に乗り込んだ。やっと帰れる。
僕たちはお互いに顔を見合わせた。綾子さんもほっとした顔だった。
なんだかこんど綾子さんの好きな白身魚でも食べに行きましょうかとか言ってしまいたくなった。しかし、言えなかった。綾子さんは僕の気持ちを知らない。言ったとしても信じてもらえないだろう。60過ぎのおっさんが23の自分に好意を持っているなんて、想像もできないだろう。思いっきり引かれるに決まっている。
今更ながらだが、文子さんはやっぱりかわいいなぁ。笑顔はちょっとした雑誌のグラビアみたいに可愛し、黙ってる時の顔も綺麗だ。 綺麗に鼻筋が通っている。あの時どうしてこの顔が綺麗でも可愛くもなく思えたのか自分でも不思議だった。 顔のことばっかり言っているが顔ばかりじゃなくて性格もよかった。 さっぱりしている。子供たちを叱ったりする時は、時々男っぽかったりもするけれど、それもなよなよしているよりはずっと良かった。
仕事が終わって帰るとき綾子さん達とすれ違った。 綾子さん達はお客さんと何か話しをしていた。僕は軽く会釈だけしてその前を通り過ぎた。
綾子さんは今度は僕に向かってはっきりと笑いかけてくれた。 それは今までどの笑顔より、親しみのこもった感じだった。
それは友達への笑顔でもなく。六十歳の老人への気遣いの笑顔でもなく。今日は1日大変だったけど頑張りましたね、と言う同僚への笑顔だった。
僕は綾子さんとの距離が一歩近づいたと思った。全く知らないどうしが同僚にまで近づいたんだ。次はどこまで行けるだろう。
僕はかつての同僚の T 先生から娘をもらってくれないかと言われたことがあった。僕は今綾子さんのお父さんと同じぐらいの年齢だ、 だからまた同じことが起こらないとも限らない。 まあ、そんなことは普通に考えてないだろうけどね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます