11月7日 立冬 とうとう冬が近づいてきた。

11月7日 曇り 立冬りっとう

 秋が世界に枝葉を広げ、その影からそろりと冬が活動を始める季節。


 紫帆が風邪を引いた。悲しい。僕がいない間に悪化してしまったりしないだろうか。

 仕事を休もうとしたけど紫帆に止められた。

「そんな大したことないわ。少し疲れが出ただけ。熱も7度2分くらいだし」

「でも心配だ」

 冬が近づいている。すでに風は冷たく、僕が外に出ている間に忍び寄る冬がこの家ごと紫帆を凍りつかせてさらってしまう。そんな気がして耐え難かった。紫帆がいなくなるなんて嫌だ。考えただけでも世界が終わりそうなのに。どうしていいかわからない。不吉な予感に足元から小さな震えが広がる。

「成、泣かないで。本当に大丈夫だから」

「僕が大丈夫じゃない」

「そうねぇ、困ったわ」

 紫帆の吐息がほんの少しだけいつもより熱い。少しだけ無が近寄っている。嫌だ、知らない間に紫帆がいなくなってしまったら。それが一番怖い。僕がいない間に何かわけのわからないものに囚われてどこかに連れ去られていってしまいそうな、そんな予感。

 出かけるなんて無理だ。思わず縋るように紫帆の手をとる。離したくない。世界は蜘蛛の糸のように細く穴だらけに僕や紫帆に絡まっていて、歩いた弾みで糸が破けて世界から落っこちて失われてしまいそうな。だからやっぱりくっついていよう? もうずっと。怖い。


「成は私と心中したいの?」

「心中? どうして?」

「私がいないと駄目なんでしょう?」

「うん駄目だ。ずっと一緒にいたいんだ」

「一緒にいるにはお仕事しないと駄目でしょう?」

 そうなんだ。世の中はとても回りくどくて面倒くさい。

 本当は紫帆を抱きしめたかった。けれど調子が悪そうだから手の甲に頬ずりする。世界は僕から紫帆をとってしまうの? 他に何もいらないから紫帆だけは下さい。この部屋の中でずっと出ずに一緒にいたい。でもそれも許されないなら、どうしようか。

「今日は仕事にいきなさい」

 少し厳し目の声が響いた。けれども離れがたい。

「やだ」

「困ったわねぇ。じゃあこうしましょう。パソコン持ってきて」

 紫帆はwebカメラを調整してストリーミングの設定を始める。

「これで大丈夫。私はトイレ以外はここを動かない。お昼ごはんは……そうね。戸棚にお菓子があったと思うから持ってきて」

「お菓子で大丈夫?」

 紫帆はあきれたようにため息をつく。

「成が駄目なんでしょう?」

「うん、ごめん」

「代わりに帰りにデリで美味しいもの買ってきてちょうだい。晩ごはんは一緒に食べましょう?」

「わかった。我儘でごめん」

「大丈夫。私も色々我儘をきいてもらってるから」

「そう?」

「ええ。いってらっしゃい」


 とても心配だ。けれども紫帆はずっと一緒にいることは許してくれない。渋々何度も振り返りながらアパートの階段を降りる。ギリギリまで粘ったから急いでチャリを回して大学に急ぐ。その間は紫帆の動画は見れなくて、自転車置き場に自転車を突っ込んでから研究室まで走る間にストリーミングで確認すると、どうやら紫帆は寝ているようだ。大丈夫かな?

 こちらから話かけることはできるけど、寝ているのを起こしてしまうのは忍びない。

 走るうちに研究室に着いちゃって、仕事中はばたばたして結局ほとんどストリーミングは見れなかったけど、いつでも紫帆の姿がみられるということは少しだけ僕を安心させた。ちょっとの隙間に覗くと紫帆は横を向いて本を読んだり、また眠ったりしていた。大丈夫そうなのかな。

 とても心配だけど小さな四角のなかで動く紫帆を見ると少しだけほっとする。


 紫帆は僕の運命で、紫帆にとっても僕は運命だ。けど、考え方は少し違う。そこはなんだか不思議だ。紫帆は僕の心が紫帆にあることを知ってるから、僕と離れていても構わないらしい。心っていうのがよくわからない。けれども、心だけじゃなく僕の全ては紫帆のものだ。紫帆は僕の運命だから。

 僕は紫帆の全部が欲しい。目を離している間にいなくなるのは絶対に嫌だ。それがとても怖かった。

「緑木、美味しいデリしらない?」

「デリ?」

「緑木詳しそうだし。テイクアウトするんだ。彼女が風邪ひいたから」

「あー。相変わらずラブラブっすね」

 緑木は僕が紫帆と付き合ってることを知ってる。春に一度紫帆は研究室に挨拶にきた。それ以前の僕はダラダラと研究室に残っていたのに、4月からは用事が住んだら速攻帰ることもみんな知っている。

 緑木と話すのは久しぶりだ。緑木とは仕事の関係がないから。あ、しまった、そうか。でも駄目だったんだ。紫帆が悲しむ。


 でも僕は美味しいデリとか知らなくて。これは必要な会話に入らないかな。紫帆に聞いてみよう。

 実験が終わったらすぐに自転車に飛び乗って緑木に教えてもらったデリでお惣菜を買う。野菜が散りばめられたケースの中のお惣菜はたしかにどれもすごく美味しそうで、値段もそこまで高くもない。紫帆が好きなエビマヨがある。よかった。

 アパートの階段下に自転車を放り込み、階段を駆け上がって急いで紫帆を探す。よかった。ちゃんといた。ほっと息をなでおろす。

「調子大丈夫?」

「大丈夫よ、ちゃんとお仕事できた?」

「寂しかった。デリ暖めるからちょっとまってね、えっとそれで僕、緑木と話しちゃった。美味しいデリ教えてもらったんだ。これは駄目?」

「うん駄目。スマホ貸して?」

「えっと、17時半くらい」

 スマホを渡すと紫帆はレコーダーを開いて僕と緑木の会話を確認する。

「これは駄目。仕事じゃないから。この人はお仕事の関係ではないんでしょう?」

「うん、同じ研究室にいる友達だ。ごめんなさい、本当に」

「ううん、わざとじゃないし、私のためなのはわかってる。でももう駄目」

「わかった、消して。あ、でも最後にデリのお礼だけメールしていい?」

「いいよ」

 メールの画面を開く。

 さようなら緑木。少し寂しい。

 デリとても美味しそう。ありがとう。

 紫帆に渡せば僕のスマホから緑木のデータを消す。

 電話番号のリストに乗っている人は、話しかけられた時に僕が話してもいい人。

 緑木は消えてしまったから、話しかけられてももう話しちゃ駄目な人。

 ちょっと悲しい。けれども紫帆がそのほうが喜ぶなら構わない。もともともう、紫帆以外と話したいとは思わないし。

「お仕事の関係になったら言ってね?」

「うん、ごめんね。ありがとう」

「大丈夫? 本当にちゃんと言うのよ?」

「うん、でも緑木は研究素材が違うから多分ないかな」

 紫帆は優しいから、仕事に加わった人はリストに入れてもいいって言ってくれている。

 いざという時に連絡の必要があるし、そういった人間関係は必要だから。

 紫帆はいつも僕のことを考えてくれている。ありがとう。


 紫帆の風邪は3日くらい続いてその間寝込んでいた。

 紫帆は風邪が感染ると言っていたけど、感染ってもかまわないんだ。でも感染ると仕事いけなくなるもんね。

 心中。紫帆はそんなこと言っていたけど、心中したら2人ともいなくなるだけじゃないかな。たぶん死んで魂になると、また離れ離れになりそうだ。輪廻転生ってそういうことだよね? 僕は仏教徒ではないけれど、生まれ変わってまた会うとか冗談じゃない。意味がわからない。僕はもう片時も離れたくないのに。

 少し汗ばんだ紫帆の髪の匂いを嗅いでそう思う。ここにいる紫帆が好き。

「くっついて寝ていい?」

「本当に風邪が感染るわよ?」

「舐めないから大丈夫」

「そういう問題じゃないと思うんだけど」


 向き合って抱きつくと怒られそうだから隣で横になる。紫帆の左腕を僕の胸の上に連れてきて置く。電気を消すと天井の紫帆の写真は見えなくなる。けれども隣にいるから大丈夫。腕をさわさわと撫でる。夏に比べて少し痩せた。そういえば夏バテしたかもとも言っていたけど。

 今年の夏は酷く熱かった。

 テレビで連日最高気温が報道されるような熱暑。夜も熱かったけれど、日中は熱の檻に閉じ込められたようで、強烈な紫外線を放つ太陽の光がはるか上空から攻撃的に降り注ぎ、それがアスファルトに跳ね返って上下からじりじりと熱せられる。熱くなった空気はどんどんその体積をまして膨らみ、でも複雑なビルのすき間から抜け出せなくて、いつまでももやもやと地面や建物を温め続けていた。

 僕らは不必要に家から出ることもなかった。紫帆は外出のときはいつも日傘をさしていた。それでも太陽は紫帆を捕らえて離さず、ちょっとのすき間を狙って紫帆の肌を焼いた。赤く膨れた紫帆の肌は舐めることもできなくてお預けだ。太陽が憎いと思いながら、それが乾いて落ち着いて、日焼けで薄皮がぺりぺりと剥がれるようになるとそれを剥がして眺めた。

 なんだか極端に薄くて、セロファンのようにぼんやり向こう側が透けて見える。ボンタンアメのオブラートみたいだと思って口に含んでみると溶けなくて、口の中で丸まった。これはこれでいいかなと思って舐めていたけど、いつのまにか唾液と一緒に喉の奥に消えていった。

 夏の間は紫帆の皮膚の端っこがふよふよと漂ってくるとそれを狙って引っ張った。肘とかよく動くところが特に剥がれやすい。


 そんなことを思い出して紫帆の肘を触っていたんだけど、夏に触ったのよりすこし薄くなって、たるたるしていた。痩せて中の肉が減ったのかな。不思議な変化。紫帆の中身が少し減る。減った中身はどこにいってしまったのだろう。どうかいなくならないで。

 肩の周りはどうだろう。でも触ると怒られそう。第一、紫帆を起こしてしまう。手の中にある紫帆の腕に口づける。手の甲を頬に当てる。紫帆はここにいる。大好き。どこにも行かないで。

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