第51話 居場所③

大きな木造の家の前を通り過ぎようとしたとき、ブロック塀に掲げられた表札を見て思わず足を止めた。表札には「藤沢」の文字。

那澄も表札に気づいたのか、僕の背中から降りると数歩家に近づく。

夕暮れの紅に染められた重厚そうな瓦屋根からは、風情と圧が感じられた。

「那澄、この家って」

「うん、詩乃ちゃんの実家だと思う」

那澄は少し喜びも混ざったような声でそう言った。

「私、ずっと詩乃ちゃんの部屋の中にいたから、家の外観はわからないんだけど、あの松の木は覚えてる」

那澄が腕を上げた方向を見ると、広い庭の中に一本、松の木が立っているのがわかった。藤沢さんの部屋からは、その松の木がよく見えたのだという。

那澄と藤沢さんが十年間暮らしていた家。僕の知らない、二人だけの思い出がここにはあるのだと思うと、少し羨ましい気持ちが湧いてくる。もちろん苦難したことの方が多かっただろうが、背伸びをしながら塀の中を覗き込もうとしている那澄を見る限り、懐かしめる思い出の一つとして、この家はあるようだった。


僕は那澄を近くの茂みに待機させ、一人、塀の中へ入った。家の中の一つの窓に明かりが灯っているのが見える。うまくいけば、藤沢さんと連絡が取れるかもしれない。

恐る恐るインターホンを押すと、家の中で軽快な音楽が鳴ったのが微かに聞こえた。

『――はい』

藤沢さんの母親だろうか、女性の声だった。

「こんばんは、藤沢詩乃さんの大学の後輩の三浦といいます。あの、詩乃さんとよくメールでやり取りをさせていただいてたんですけど、先月から連絡が途絶えてしまいまして――」

そこまで言うと、『あら、ちょっと待ってね』と返事がし、玄関に向かってくる足音が聞こえてきた。

大学の後輩が実家に来るなんていう、なんとも怪しい訪問だが、あまり警戒されていない様子だ。インターホン越しで追い返されることも覚悟していたため、少し拍子抜けする。

ドアが開き、中年の女性が顔を出す。

やわらかい顔立ちで、ぱっちりとした目が藤沢さんにそっくりだった。

再度名乗った後、先月から藤沢さんと連絡がつかなくなり、心配になってやむを得ず来たと嘘をつく。また、自分の実家もこの近くにあり、今は帰省中だということを話し、できるだけ怪しさのない自然な設定にする。

僕が一通り嘘の要件を話し終えると、

「あなたが三浦君なのね」

と話をあまり聞いていなかった様子で、彼女は僕の顔をまじまじと見ながら言う。

ぽかんとする僕を見て、

「ごめんなさいね、詩乃がね、帰省したときによくあなたのことを話してるのよ」

と、ニコニコ笑う。

「ああ、そうなんですか」

僕のことを知ってくれているなら話が早そうだ。安心して口元が緩む。

それからは彼女から僕に対して質問攻めだった。実家はどのあたりなのかとか、大学はどうかとか、出身高校とか、両親の職業とか。本当にそんなことを知りたいのかということまで聞いてくる。僕は話に矛盾が無いよう、嘘を交えながら答える。

本当は地元に帰ってきてほしかったけど東京に就職してしまった、という娘に対する不満話が始まりそうなところで、彼女は「ごめんなさい、喋りすぎたわね」と我に返った。

「詩乃と連絡が取れないんでしたっけ?」

「そうなんです。あの、よろしければ今、詩乃さんに電話していただけないでしょうか」

深く突っ込まれるとぼろが出そうなので、早いところ藤沢さんと電話をつなげるように話を持っていく。

「はいはい、ちょっと待ってね」

そう言うと、僕を疑う様子もなく部屋の中に戻っていった。

しばらく待っていると、スマホを耳に当て、楽し気に喋りながらやって来る。

通話の相手は彼女の口ぶりからしても、藤沢さんだとわかった。

「じゃあ三浦君に代わるわね」

そう言うと、スマホを僕に渡す。

僕はそれを丁寧に受け取り、「もしもし」と言いながら耳に当てる。

『うわ、ほんとに三浦君だ! なんで私の実家にいるの!? 連絡がつかなくなったってどういうこと? 普通につくよね』

藤沢さんの驚いた声がする。

僕はできるだけ藤沢さんのお母さんに話を聞かれないよう、小さな声で話す。

「ごめん、ちょっと理由があって、それ、全部嘘だから忘れてください」

『え、嘘?』

藤沢さんの間の抜けた声が聞こえた。

「今、お金もスマホもない状態で那澄と二人でいるんです。申し訳ないんですけど、迎えに来てくれませんか」

『那澄ちゃんもいるの!?』

「はい、詳しくは後で話します」

電話越しの藤沢さんはひどく困惑した様子だったが、ある程度こちらの状況を理解すると、『今から向かう』と言ってくれた。

僕は藤沢さんに深くお礼をした後、藤沢さんのお母さんにスマホを返す。

「もういいの?」

と彼女は藤沢さんに訊いた後、簡単な挨拶を交わして通話を切った。

「なんの話してたの?」

と、不思議そうな顔で訊かれ、ドキリとする。

「まあ、いろいろとありまして」

「......そう」

彼女はあまり納得のいかない様子で僕をじっと見ている。

「ずっと気になってたんだけど、それパジャマよね」

今朝、着替える間もなく那澄を探しに外へ出たので、それからずっと僕は寝間着姿だった。

「あー、ですかね......」

僕の変な回答に、彼女はクスッと笑い「待ってて」とまた部屋に戻っていく。

今度は、何か入ったビニール袋を持ってきて僕に手渡した。

「これ、よかったら食べて。炊き込みご飯」

袋の中を覗くと、大きめのタッパーがあり、濃い色の炊き込みご飯が敷き詰められている。今日一日何も食べていないのも相まって、本当によだれが出そうになった。

ありがたく受け取った後、深々とお礼をしながら家を出た。

去り際、「詩乃と仲良くしてくれてありがとうね」と小学生以来聞いた覚えのない言葉を言われ、思わず笑ってしまう。

最後までニコニコと愛嬌のよい彼女は、やはり藤沢さんと似ていた。




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