短編集「わたない」
譜錯-fusaku-
虚構-fiction-
❑❑❑
「犯人は、あなただ」
そう言って皮手袋を付けた探偵がその手で女を指差す。
「わ、私は、殺してなんかいません」
探偵に指摘された哀れな加害者が、目を伏せて訴える。
舞台は城を通り越して黒くなった空の下、吹雪に包まれて立つ大きな森の洋館。
そこに迷い込んだ者たちの間で、惨劇が起こったのだ。遭難者の中に混ざっていた探偵が、彼の推理を披露している。加害者に指定された女は、柔らかい色のガウンを着て、寒さとは無関係に小刻みに震えている。スカートにかかる手はぎゅっと強く握りしめられ、スカートの白さと対比されてもなお、手は青白い。
「いいえ、彼女を殺したのはあなたです」
事件の解決率が百パーセントなのだという夢のような探偵が、冷徹で平坦な声で彼女を押さえつける。静観する周りの人々からは、安堵と驚きの混じったため息が聞こえてくる。自らに災厄の降りかからなかったことが、それほど嬉しいか。
「それでは、ど、どうやって殺したというのですか」
もうその文句を言ってしまってはおしまいだ。彼女の弱弱しく震える肩と声。しかしその上擦った声は観客の心をつかむことなど到底できない。よって彼女の有罪はここで確定してしまう。
「知りません」
探偵のはっきりした返答は彼が言うにはあまりにも無責任な言葉。そんなことを言ってよいのだろうか。周りも観衆も固唾をのんで事の行方を伺うばかりだ。
「わたしにはこの事件のトリックも殺害方法も分からない。ただ分かるのは、あなたが犯人であるということだけ」
その手を角ばった顎に当て、円状に歩き回り、頷きながら探偵は言う。
それだけで探偵を名乗れるものではないだろう。しかし、私たちが信用できるのは彼しかいないのだ。彼を疑うことはできない。
「ふ、ふざけないでください」
「ふざけてなどいません。なぜなら——」
探偵の言葉を待ち構えるのは場の静寂。人々を納得させることができなければ、たとえ探偵であったとしても彼はこの世から追放される。
「ここは小説の中ですから」
その言葉を聞いた登場人物達は、戸惑う。自らの存在の危うさに気付き、騒めく。平気な顔をしているのは私と探偵のみ。
そう。この世界は小説の中。冷たい青色の光に照らされた部屋の中も、冷たい床に横たえられただただ虚ろな目と傷ついた肢体を晒す骸も、それを見て嘆き、混乱して叫ぶ私たち登場人物のその所作も、感情も、居合わせて事件の犯人を指摘する探偵までも、すべては作者が描いたものにすぎない。作者が売れるために、読まれるために考えた偽りの世界の中。
私たち登場人物に決定権はなく、五感も脳もすべて形なき物。
探偵に与えられたのは犯人の名前。彼が、ここが小説の世界の中であることを暴露するのも作者の記した道筋の上。私たちは、作者の書く文章で読み取られるようにしか生きられない。手のひら、檻なんて広いものではない。零であり、無限である読者の意識の中であるようでない存在。それが私。
与えられた被害者の娘という役割も、被害者に対するささやかな恨みも、これまで経験したとされるさまざまな出来事も、ミスリードのために与えられ、結局は読者の様々な雑念にかき消されてしまう。
小説を構成する文字。その中に、有限でアナログ的に決まっている私の存在は、果たして必要なのだろうか。そんなことを考えさせられる。あってもなくてもよい。誰に成り代わってもかまわない。それは探偵も同じ。
作者の考えを代弁するその探偵によれば、読者の記憶に残ればいいというものではないらしいが、果たしてそうだろうか。覚えられない文字など、言葉など、ないのと同じではないか。
そんな思考をさせられる。
私はただ読者の記憶に最も根強く残る探偵のために使いつぶされ、消えていく。
いつか、探偵を悲しませるために殺されるのだろうか。それとも、ただの脇役として、その後さえ語られぬまま消えるのだろうか。その問いだけが私に与えられ、答えは持たされることがない。いずれにしても、全て、消える。
私が忘れられたときに、その本まで燃えてしまえばいい。いや、自然発火した不思議なものとして、世界に知られるため、少しは燃え残った方が喜ばしいのだろうか。
インターネット上ではいけない。
何にしろ、読者に気づかれなければ結果は同じ。
そんなことを考えさせられても、作者に支配される私に本を燃やす力など、ない。
すべては与えられた妄想。
この妄想もまた、いずれは雑念に消えるのだ。
〚終〛
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