水平線とキス
「あーあ。見られちゃった」
血まみれの手の君。床に転がっているもう無機質になった人間だったもの。鉄の匂いがするリビング。生ぬるい空気。
私はただ、担任の先生に頼まれて課題を届けに来ただけで。玄関の鍵が開いてたから入っちゃっただけで。
「親友」の君に会いたかっただけで。
「誰にも言わないよ」
ただ、そういうことしか出来なくて。今、私はどんな顔をしているんだろう。私は怖がってる顔を出来てるかな、なんて。
「分かっているよ」
君は笑ってくれた。いつもと変わらない笑みに安心する私がいる。君は逃げることの無い、逃げれない私の手を握った。
「一緒に逃げてくれる?」
私は彼女の手を握った。私の手も血に汚れた。これで共犯になったのだ。
「うん。もちろんだよ」
私はどこか嬉しかった。胸が高鳴っている私がいた。だって、だって、彼女が私を選んでくれたから。
彼女はすぐに服を着替えて、お金を持って、私と電車に乗った。彼女に行き先を聞くと行きたいとこがあると言う。私はどこまでも着いていくよ。私は彼女の「親友」だもん。
「お母さん……しちゃったんだね」
殺した、というとこだけはわざと言わずに聞いた。彼女は頷く。その顔はどこか高揚している。
「うん。だって、あんな母親ではない人間いらないんだもん」
私の知らない彼女の一面。昨日までの彼女は大人しくて、虫も殺せなくて、本と三日月が似合うような子だった。でも、今、隣にいる彼女は無慈悲な天使みたいだ。そんな彼女になっても私は彼女を見る目は変わらない。彼女は彼女なんだから。
「そう思うよ。だって、あの人君のこと守らなかったもん」
守らなかった。それは自分で言っておきながら心に刺さってしまう。小骨みたいだ。
私は彼女があんな苦しみを抱いてるのに、それを知らなくて、早く私が彼女と出会ってたら変わってたのに。
「いいの? 私についてきて」
もう戻れない電車の中、彼女が聞く。私は迷うことなく頷いた。
「もちろんだよ。私に帰る場所なんてないんだから」
「そっか。そうだよね。私たち似た者同士の親友だもん」
似た者同士って言葉が嬉しくて。でも、彼女は決定的に私と違っていて。私はあの汚くて、醜い世界の中で彼女が綺麗で仕方なかったのは今でも鮮明に覚えている。
電車の中には小さな子供たちがボックス席に座っている。兄弟、姉妹、友達と言ったところだろう。
「ねぇ、この電車の中にいる子供たちの何人が性に溺れずに育つんだろうね」
私の質問に彼女は子供たちを見る。彼女はどこか憎しげに、どこか諦めたような視線を子連れに送ると私に微笑んだ。
「一人いればいいとこじゃないの」
やっぱり彼女はわかっている。私の苦しみも汚くて、生臭くて、人工的な甘ったるい世界で生きてきたことも。だからそう答えてくれるんだよね。そういう所が、大好きなんだよ。
「私もそう思う。ここにいる結婚願望ある人、みんな、ちゃんとお母さんになれるのかな。
私の家族に関する記憶は退廃的そのものだ。
照明の紐が遠くて夕暮れが過ぎるといつも自室は暗い。小さかった頃の私には紐まで手が届かなかった。ご飯は机に置かれたお金で買っていた。
るみちゃんは美人でおっぱいが大きくて、同じぐらいお尻も大きかった。太もももむっちりしていて、なのに太っていない不思議な体型だった。血縁上は私の母親にあたる人。ぽってりした唇がそっくりなのに、るみちゃんは私と違ってタレ目だ。くっきり二重の。彼女と同じくっきり二重のタレ目。
るみちゃんはタバコと生臭い匂いがしていた。魚じゃない、でも同類の匂い。それが分かったのは私が小学五年生になってからだ。
私は彼女の目を見る。真っ黒でしっとりした色。濡鴉のような。
「そんなに、目元が似てる? るみちゃんと」
彼女が微笑みながら聞く。その微笑み方はどこか大人で。るみちゃんと同じ「大人」だけど、るみちゃんとは違う綺麗さがあった。
「違うよ。るみちゃんの目の色はアンバー系だし」
「良かった」
るみちゃんと同じ含みのある声。たっぷり蜜を含んだ花のようで。百合のように大きくて、牡丹のように花弁がたくさんあるような。でも、その花は毒があって。それでも飾りたい愚かな人間たちなのだ、私たちなんて。
電車はどんどん郊外から田舎へと行く。この先は海だ。適度に栄えている郊外にはありがちなラブホが照明を付けられるのを待っている。
るみちゃんは我が母親ながら官能的な女性だ。私の勉強する時のBGMも子守唄もるみちゃんのセックスしてる声だ。普通なら吐き出したいぐらい嫌な声のはずなのにるみちゃんは大丈夫だった。あー、るみちゃん今日もモテてるな~とか、今日は何人男連れ込んだのか声だけで一人クイズしたりとかそんな風に暇を潰していた。
中学生になると、私は少しずつ女性になっていって。小学五年生には生理も始まっていた。るみちゃんは母親としてはクズだけど、同じ女性としてはいいお姉さんだった。Cカップのブラを買った日には、
『えっちする時はゴムしろよ~。高校卒業したら何でも好きにしな。でも、ゴムもしない男はやめとけよ』
と、何故か私が、るみちゃんと同じことになる前提でブラの付け方を教えてくれた。私は聞かないけど知っている。私は望まれない形で産まれたこと。ううん、違う。るみちゃんだけが望んでくれて産まれたこと。だから顔も名前も知らない父親も、身内も、なんかいるらしい血の繋がりのない兄弟もどうでもいい。今更、誰に対しても家族愛など感じないし、そんなものいつの間にかなくなった。
でも、るみちゃんは私が女性でも、るみちゃんみたくモテなくても、愛してくれている。それが家族愛じゃなくても、嬉しいんだ。
私たちは電車を降りた。寂れた田舎の駅の近くには学校があるのだろう。ダラダラと電車を待つ生徒たちがいる。
「この辺り、高校があるんだって」
そう彼女が指さす方角には大きな建物が見える。彼女の手が先程から震えている。
「大丈夫。私がいるから」
私は彼女の冷たい手を取る。緊張が伝わってきてどんどん体温が高くなる。
「ありがとう」
「こんなとこまでアイツらは来ないよ」
「だよね……。私、だからここを選んだのに」
彼女の顔が少しだけ曇っていた。不安なんだね。だってアイツらも高校生だもんね。
アイツらは私の大事な君から無理やり純潔を奪った大罪を背負うことなく逃げやがって、今ものうのうと生きている。私が神様なら死ねなくして永遠に苦しんでもらうのにアイツらはまだ死が選べる。罪を認めても自殺で逃げれる。君はこんなにも傷ついてもなお、ここまで逃げることなく生きてきたのに。
だから、君はもう楽になっていいんだよ。私がついているから。一緒に幸せになろう。
彼女の行先は分からない。でも、バスに乗った先らしい。バス乗り場から少し離れて私と彼女はバスを待つ。彼女はバス乗り場に集まる女子高生たちを見やる。
「今日の宿題マジでダルいよね」
「わかる~。宿題やる意味あんのかな。だって大人になったらいらないでしょ。進学校でもないんだからさ、受験でも使わないし」
「それな。こんなことしてるならバイト入れたいわ。それで服買うの。デートするなら服もコスメもいるからさ」
「女って本当に金いるよね。恋愛だけして人生過ごしたいわ~」
今どきの高校生らしい会話に私はなんの共感も出来ない。恋愛だけして人生過ごすなんてるみちゃんじゃん。いや、るみちゃんはセックスにしか興味無いか。セックスしたい為にミレーナしてるんだからさ。避妊目的だから自費なのにさ。私を産んだ時何があったのかは聞いてないけど、やたら避妊しろって言うからわかるんだよな。
でも、恋愛に浸りたいのはわかるよ。好きになった人が全てだもんね。世界の中心だもんね。好きな人がいたら自分なんてどうでもよくて、好きな人を傷つけるものは誰であっても敵になるんだよね。好きな人には全てを捧げたいよね。でも、私は君たちとは違う。君たちはまだ承認欲求で好きになるお子様だけれど、私は私を選んでくれて、ただいてくれるだけでいいんだから。
「あの学生たち、みんな綺麗なんだろうね。羨ましい」
「私には君だって綺麗だよ」
「違うよ。だってあの人たちのほとんどが望んでセックスしてるじゃん」
その言葉に私の喉から声が出なくなる。彼女が自分の母親を殺した理由がそこには詰まっていた。
「ねぇ、なんであの時、こんな私を綺麗だと言ってくれたの?」
彼女と出会った高校一年生の冬。ちょうど今頃。みんな人肌恋しくなって頭がおかしくなる頃。るみちゃんもこの時期は出かけてる日が多くなる。
私と彼女の通う高校は決して頭のいい学校では無い。かと言って偏差値が低いわけじゃない。でも、高校生なんてお盛んだし、多感な時期だ。休憩時間には彼氏彼女の話はもちろん、何組のなんとかがエロいだの、セフレにプレゼント買ってもらっただの、そんな話が行き交っている。クラスの大人しそうな女子に限ってエグい話題を楽しげに話してたことにはびっくりした。あまりにも落ち着かなくて帰ってるみちゃんに話したほどだ。るみちゃんはタバコ吸いながら笑ってたけど。
そんな中、一度たりとも性的で退廃的な話をしない人がいた。それが彼女だった。
スラリと伸びた背筋に、前下がりボブ。重たい前髪から覗く大きなタレ目。二重がくっきりの。小柄でおっぱいが大きくてブラウスがこんもりと膨らんでいる。長めのスカートからは柔らかくて肉付きのいいふくらはぎが伸びている。文学少女という言葉が似合う彼女はいつも大人しそうに本を読んでいた。
視線を感じた彼女が私を見た。その目が深い海の底みたいで。神秘的で。私は思わず彼女の前で呟いてしまった。
『綺麗だね』
そう、鳥肌のたった皮膚と脈打つ鼓動を抑えきれずに。
「知ってると思うけど、私はたくさん退廃的なものを見てきた。るみちゃんのことは好きだけど、あの人はセックス依存症だから。君が望んだ形でセックスした訳じゃないのも知ってる。奪われた側っていうのも」
彼女は俯いた。手の震えが強くなる。私も感染していくように手が震える。
「でも、君が綺麗で仕方なくて、これ以上傷ついて欲しくないぐらい大事だよ。君のお母さんは傷ついた君を守らなくて、むしろ君を傷つけた。だから殺してよかったんだよ」
「そんな、こと……」
「だって君の心は一度殺されてるじゃんか」
その言葉に君は初めて泣いた。純潔を奪われた時も、君のお母さんが君を汚いと、君が悪いと、罵倒した時も、ただ受け入れて泣かなかった彼女が初めて泣いた。
「あり、がとう……」
いいんだよ、言葉しかかけてあげれない私でよければなんだって言うよ。それで君の心が少しでも救われるなら。
バスの着いた先は閑散とした場所だった。如何にも自殺の名所みたいなところ。海に落ちていけば幸せになれる場所。
あぁ、そっか。彼女はここで自殺するために来たんだ。私と一緒に。ありがとう、私を選んでくれて。
「ここまで来てくれてありがとう」
「こちらこそだよ。大丈夫、どこまでも私がいるからね」
彼女は私の前を歩く。握る手は震えていない。
「私、子供が産めないんだ」
「うん。あんなトラウマあるなら仕方ないよ」
「あなたに叶えて欲しいの。私の代わりに。あなたはたくさん汚いものを見てきたけど、綺麗なものも、愛も知っている。だから、いいお母さんになれるよ」
彼女が振り返る。その背中の向こうは海だ。私はなんだか嫌な予感がして背中がゾワゾワした。
「そんな、勝手だよ!」
「勝手だよね。分かってるの。でも、あなたは優しいから信じてる。今度は私のお母さんになってね」
彼女が私を抱きしめる。血の巡りがおかしくなりそうだ。心臓がバクバク止まらない。お腹が熱くて、ひっくり返りそうだ。
違う、違う、違う! 彼女は、私の好きな彼女はそんなこと思わない! 言わない!
違う、違う、違う! 今から死のうとして気がおかしくなってるんだ。何もかも諦めてるんだ。私も一緒に着いていかないって誤解してるんだ。
「大好きだよ」
そう、彼女は私の頬にキスをすると一人、海に落ちていった。白い泡が大きく立ったのは一瞬で、元の青い海に戻った。
「待って! 置いてかないで!」
返事は無い。代わりに海の声が聞こえる。意気地無しの私は足が震えて追いかけれない。
「私も連れて行って! お願い! お願いします! 私には君しかいないの!」
ただ、私の無力な泣き声が響き渡るだけだった。
彼女がいなくなって一年が過ぎた。私は高校を卒業して、就職が決まっている。でも、私はずっとやりたいことがあった。
「あんた、またどっか行くの?」
財布と携帯。簡単な荷物を持って玄関を開けようとすると気だるげなるみちゃんの声が引き止めた。いつもはどこに行こうとしても止めないのに。
るみちゃんはわかってるんだ。私がこれから行くところが。
「うん。大事な人のとこ」
その言葉にるみちゃんは今まで見た事がない真剣な顔で質問した。
「その人のこと好き?」
無論だよ、そんなの。
「大好き。ずっと一緒にいたいの」
「じゃあ、行ってきなさい」
生まれて初めてるみちゃんのお母さんの顔を見た。温かくて、優しくて、しっかりしていて、私を信じてくれているのがわかる。るみちゃん、確かにるみちゃんは母親としてはクズだけど、私はるみちゃんがお母さんで良かったよ。
「……るみちゃん」
「なに」
だから、ちゃんと言わせて。最後の言葉を。
「大好き
「あたしも。大好き
ごめんね、るみちゃん。私の「大好き」はたった一人だけのものなんだ。
私は一人で一年前と同じ道を辿った。
電車から見えるラブホ街、田舎の学校。全部、一人で通る。でも、私の隣に彼女はいなくても、彼女は海で待っているから。
彼女が落ちていった場所を覗くと真っ青な海が両手を広げて待っている。彼女が、私を待っている。
「ねぇ、なんであの時、私の頬にキスしたの? なんで唇じゃなかったの? おかしいよ」
イライラして喉を掻き毟る私。無駄に伸びた爪で引っ掻くから喉の皮膚が切れて、チリチリと痛い。
「そうだよね。あの時、ズレちゃっただけだよね。君は本当は唇にキスしたかったもんね」
わかってるよ、ちゃんとわかっているよ。君は私のこと愛してくれているって。親友だってお互い言ってるけど、本当は好きだったもんね。でも、私たち女性同士だから言えなかったんだね。
「言ってくれたら私、OKしたのに。でも、我慢出来ないから最後にキスしてくれたんだね」
この海の中にはたくさんの元同類の生き物たちがいる。海はこの世界の水へと繋がっている。海が、目の前にある。
「この一年、ずっと君のことを考えたよ。魚を食べる度に、水を飲む度に、君を取り込んでいるみたいで嬉しかった。嬉しくって、嬉しくって、もっと君を欲しくなっちゃった。もう一年耐えたんだから、いいよね?」
『うん、いいよ。おいで』
そう、海のさざ波が君の声に聞こえた。
私は海へと飛び降りる。顔を海面に向けて。朝日が登って海を照らす時。私は水平線とキスした。
これで、ちゃんとキス出来たね。
首が焼けるように痛い。海と同じ味の涙がこぼれる。その痛みと苦しさのあまり私は口を開いて、海水を飲み込んで、肺に水が入ってもがいた。生きてるってこんなに痛くて愛おしいんだ。これから君のところに行くってこんなに嬉しくて苦しくてはち切れてしまいそうなんだ。
海の中なら私たちがどんな性別でも、何者でも、どんな過去があっても、これで関係ないよ。これで一つになれるね。
これで、君の願いが叶うね。お母さんになった君を私は海の底でずっと守るから。
世界の最期の日まで、ずっとずっと一緒だよ。
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