神様があの子を連れ去った

「大丈夫よ。これくらいで死なないから」

 あの子は笑っていた。手からは赤黒い血がダラダラと流れていて、パックリと開いた傷口はブラックホールだった。

 僕の通う小学校にあの子はいる。いつも切りそろえられた前髪が日本人形みたいな女の子。

 あの子が泣いたところを誰も見た事がない。あの子が帰り道、手を怪我して縫うほどの怪我をしても。

「じゃあね!」

 と、あの子は真っ赤になったハンカチを巻いて、止血しながら登下校の列を離れてしまった。

 次の日、あの子の手には白い包帯みたいなのが巻かれていた。四針縫ったんだって。でも、あの子は、

「でもね、縫った数より深さが重要視されるんだよ。医療ではね」

 と、笑っていた。

 そんなあの子をみんな気持ち悪がっている。学校の先生も、生徒もみんな。

 いつも笑っていて気持ち悪いって。

 人間くさい感情を見せないから未知の生物に見えるんだと思う。

 でも、僕にはあの子が誰よりも大人に見えている。

 ううん、あの子は大人なんかじゃない。聖人とか、仏さんとか、そんな感じだ。

 きっとあの子は僕たちが到達する場所へ先に行ってしまったんだ。


 僕の家族が「りこん」した。前から分かっていた。だってお父さんもお母さんもよそよそしいんだもん。

 急に遊園地に行こうとか言い出すし、「大好きだよ」ってたくさん言われるようになった。お金が無いってよく言ってたくせに、最近のご飯は豪華だった。僕の好きなカレーが最後の日の晩御飯だった。カレーの人参がお星様で。ハートじゃないところがなんだか、僕たち家族みたいだった。

 小学生の僕には「りこん」なんてよく分からないけど、苗字が変わることと、家族が別々になることは知っていた。

「しんけん」って言うものがお母さんに移ることが多いらしい。僕はお母さんについて行った。「さいばんしょ」っていう悪い人に罰を与える偉い大人たちが決めたんだって。

 お父さんかお母さん、どちらかが悪い人になったんだ。

 小さな田舎の小学校だから、離婚の噂はすぐ広まった。お父さんが「ふりん」したとか「ふりん相手に子供が出来た」とか。

 お母さんは「いしゃりょう」をたくさんもらったから僕は大人になるまで「ほしょう」されるとお母さんは喜んでいた。僕は好きな「だいがく」に行っていいんだって。お父さんからの「ごめん」の代わりだって。

 そういう大人たちの井戸端会議や、聞いただけの言葉を使いたがる子供たちの言葉の投げつけが、どんなに耳を塞いでも風のように入ってくる。

 僕はあっという間に学校で浮いてしまった。

 あの子と同じになった。

 

 小学校には多目的教室がある。二クラスになった時に使われた仮の教室。

 僕の通っている小学校は一クラス二十人行くかどうかの小さな学校だ。それでも立地はいいから、団地が作られて、引越ししてきた人達で生徒の数が一時的に増えた。それも本当に夢みたいにすぐで。そのクラスが卒業する頃には誰も団地へ引越しに来なくなった。

 クラスも家も居心地の悪くなった僕はそこに逃げ込むようになった。正しくはあの子が貸してくれた。

 あの子は水もない水槽を見つめて過ごしてる。いつも。

 僕はこっそり持ってきたゲーム機で遊んでいる。いつも。

 お母さんは夜遅くまで仕事に行っている。その代わりゲーム機やスマホも買ってくれた。最初は僕の欲しいから始まって、だんだん言わなくても買ってきてくれていた。「ぷりぺいどかーど」ていう、お金の代わりのカードも一ヶ月に一万円も毎月用意してくれる。

 毎日のご飯代に千円も用意してくれるから、お母さんは「りこん」してからお金をたくさん稼げてるんだと思う。

 でも、いつもゲーム機やゲームソフトがプレゼントのラッピングに包まれている。

 それだけが不思議だけど、僕はお母さんが寂しい思いをさせないように気遣ってくれてるんだと思った。

 ここはいつだって先生たちが来ない。五時までに学校を出てしまえば、ここにいたことすら知られないほど影の薄い部屋。僕とあの子みたいに。

「ルール破ってること言わないの」

 一度だけゲームをしながら聞いた。当たり前だけど学校にゲームなんか持ってきたらいけない。

 僕だって悪いことしてることが、ルールを破っていることが「カッコイイ」と思っていない。ただ、こうしてないと僕の体が崩れ落ちてしまいそうなんだ。

 あの子は、

「別に言わないよ。君にとってそれが自分を保つための道具なんだから」

 と、黒い瞳を僕に向けただけだった。


 あの子は時々僕に不思議なことを聞いてくる。

 妙に現実味があって。妙に生々しくて。妙に高尚なことを。

「ねぇ、なんでみんな『せい』って使いたがるんだろうね」

「どういうこと?」

「クラスのなになにちゃんのせいとか、貧乏なせいとか。そういうの」

 なるほど。「せい」だけだと僕は分からなかった。あの子はニコニコしながら僕の回答を待っている。

 いつも落ち着いて見えるのに目が待ちきれないようにキラキラしている。

「だって、それが理由だから」

 僕の答えに、あの子は興味深く頷いた。でも、あの子は否定した。

「もしかすると違うかもしれないんだよ、それ。私には自己防衛のために逃げる理由を作ってるようにしか見えないの」

 僕のゲーム機を握る手が汗で滲んでいく。心臓がギュッとして、モヤモヤして。頭の中がなぜか暴れ回っていた。

 あの子はたった小五の人生で「人間」というものを大人よりも理解しているのかもしれない。

 それを僕に見せつけてるのかもしれない。

 「誰かのせい、病気のせい、天気のせい、なんだって出来る。でも、みんな逃げてるから根本的な解決にはならないの。だから、苦しみ続けている。向き合って、答えを見つけてしまえば一時的に苦しいけど、早く苦しくなくなるのにね」

 僕は何も言えなかった。ゲームに戻るしか無かった。

 多目的教室が静かだ。違和感のある静かさだ。

 ゲーム機からゲームオーバーの音がやけに大きく響き渡っていた。

 それが最初だった。僕はその日からあの子と話す時はゲームをしなくなった。

 ある日には。

「人間ってさ、ストレス溜まるとどうなると思う?」

「すとれすって?」

「分かりやすくいうと緊張したりとか、嫌なことがあった時に苦しいってなることかな」

 なるほど。それを「すとれす」って言うんだ。あの子は僕よりもたくさんの知識があって、もしかすると学校の先生よりも賢いのかもしれない。あの子が難しい言葉を説明してくれても、僕にはまだ想像もできないことばかりだけれど、なぜかとても聞くのは楽しかった。

「僕はお腹が痛くなる……ご飯があまり食べれなかったり」

「うん、そういうの。人間がいつも体に抱えてる負荷なの」

 漫画みたいなことが僕の体でも起こっているんだ。凄いな「すとれす」。僕の頭の中で筋トレみたいな感じを思い浮かべていたら、あの子はニコニコしながら続きを話した。

 「人間ってね、面白いんだよ。ストレスだけで身体はいくらでも悲鳴を上げれるの。自律神経がやられて両手が動かなくなることもあるし、味覚や聴覚がなくなったり、排泄のコントロールも出来なくなる。気づいたら漏らしてしまうんだよ。女の子だと不正出血かな。あと分かりやすいのは胃潰瘍の吐血。肺からの吐血と、胃からの吐血は違うの。肺による吐血は鮮血だから。心臓が近いからかな。でも、そうやって身体は悲鳴を上げてくれるから、助かってるの」

 あの子が教えてくれた「すとれす」はとても怖いものだった。そんなことになっても人間って生きていられるんだろうか。

 そして、あの子はなんでそんなに詳しいんだろう。知らないことだらけの単語をあの子は当たり前のように話す。まるでお医者さんみたいに。

 「私、なんでか心が痛くても、すぐにどっか行っちゃうから」

 この時だけ、あの子の笑顔はどこか狂気じみていた。

 ある日は。

「ねえ、変身ベルト欲しいと思ったことある?」

「そりゃあ……僕だってヒーローになりたかった時はあるよ」

 去年まで日曜日だけは早起きしてテレビの前から離れなかった。悪者を倒すヒーローはカッコよくて、たくさんの人が周りにいて。僕もそうなりたかった。

「私も。かわいい服着て、宝石つけたかった時期はあるよ。でも、たくさんつけすぎはよくないの」

「どういうこと?」

 たくさん宝石をつけてた方がきれいにならないのかな。キラキラして、豪華なはずなのに。

 あの子はニコニコしながら僕の質問に答えた。

「みんなお飾りしたいんだよ。ほら、さっき聞いたけど、一度は宝石たくさんつけたいとか、変身ベルトつけたいとかそういうの思うじゃん。それが、恋人だったり、お金だったり、友達だったり、学歴だったり、SNSのいいねの数だったりで。そういう承認欲求になるアクセサリーをみんな勝手に作って、勝手にマウント取り合ってるの。アクセサリーの正体はただの他人だったり、数だったり……本当の価値にはならないはずなのにね」

 この話は僕にはよく分からなかった。

 たくさんお金があったり、たくさん友達がいたり、たくさん頭が良かったり、たくさんいいねがあることの何が悪いんだろう。

 それって幸せじゃないのだろうか。「たくさん」があると僕は独りじゃないんだって思えるのに。

 あの子にとってなにが本当の価値なんだろう。

 あの子にとってなにが「幸せ」なんだろう。

 きっと僕とあの子は違うものさしを持ってるんだ。

 あの子は思いついたようにたくさんの不思議な話をしてくれた。

 僕の中で一番好きな話は「おかしい」の話だった。

「『おかしい』ってさ、自分の世界での価値なんだよ」

「え、そうなの? でも、みんな『これはおかしい』『あれはおかしい』って言うよ?」

 僕の疑問にあの子は「もう少し私の考えを説明するね」と笑った。

「自分の世界の価値でみんな「おかしい」を決めているの。もちろん、法律とかルールとかそういうもので決められたものもあるよ。でも、ほとんどは自分の価値観での話なの。だから、分かり合えなくて当然なの。だから、言葉があって歩み寄ることも、理由を聞くことも出来るの」

 確かに、僕はあの子の話でわからないことは「どうして?」と聞いている。だから、あの子は理由を教えてくれる。

 僕はずっとあの子を知らないでいたけど、多目的教室に来てからイメージが変わった。

 あの子は確かに僕たちが到達する場所に先に行っている。

 正しくは、あの子は今はまだ体がここにいるけれど、魂は僕の知らないところに行ってしまっているんだって。

「でも、みんな自分の価値観が全てで正しいと信じ込んでるから、聞かないの。みんな。『おかしい』」で決めつけて、自分が勝った気になってるんだよ」

 あの子の言うことが世界の本当なら、みんな「おかしい」で仲間を作って「おかしい」同士が喧嘩をしてるんだ。だから、クラスのグループ同士が喧嘩したり、テレビのニュースが言うように国同士が喧嘩するんだ。

 お父さんとお母さんが「りこん」したのも「おかしい」がお互い分かり合えなかったから。

 僕とあの子がこうして話が出来てるのも「おかしい」で繋がっているからなんだ。

 みんな、みんな「おかしい」で自分を正しいと思いたいだけなのに、みんな、みんな「おかしい」で誰かを傷つけているんだ。

 みんな同じ地球に住んでるはずなのに、一人一つの王国で生きてるんだ。

 この世界の住人はみんなひとりぼっちの王様なんだ。

 

 あの子との時間が数ヶ月過ぎた。夏休みも僕とあの子は多目的教室にいた。

 夏なのにあの子は長袖で、少し痩せた気がした。学校のポロシャツは風通しがいいから涼しいかもしれないけど。それでも最近は暑すぎる。

「ダイエットしてるの?」

 僕は流行りの言葉を意味もわからず無邪気に使ってしまった。

 するとあの子はどこか皮肉めいた笑顔で、

「そうだと嬉しい」

 と、こけた頬を隠すように頬ずえをついた。

 今日、あの子はいつものように不思議な話をしてくれなかった。

 夏の暑い日。いつもは九時半にくるあの子がお昼になっても来なかった。

 僕はあの子がいないからずっとゲームをしていた。

 モヤモヤする。何度もゲームオーバーしてイライラする。いつもは楽しいはずなのに楽しくない。

 あの子の不思議でどこか怖い話が聞きたい僕がいる。

 あの子のどこか別の世界を見てるような冷めた目と、なのに楽しそうに笑っているところがちぐはぐで。

 あの子の王国が見てみたいと思い始めていた。

 たくさんの人が叫んでる。言葉は形になっていないけれどパニックになっているのが分かる。うるさい。

 蝉もうるさい。アブラゼミとミンミンゼミとツクツクボウシの三重奏だ。うるさい。

 外から救急車の音がする。どんどんこっちに近づいてくる。うるさい。

 もう全部いなくなってよ。

 そう、窓を開けた時、あの子が担架で運ばれていた。


「救急車なんて初めてだったからいい経験になったわ」

 次の日あの子は笑いながらやってきた。手の甲には大きなシールが貼ってある。採血したら貼ってくれる白いの。なぜかあの子は手首と、手の甲に貼っている。

 初めてちゃんと僕はあの子を見た。

 他の女子より痩せた体。スカートと長い靴下の間からみえる痣。目の下のクマ。青白い肌。変にピンク色してる唇は色つきリップでも付けてるんだ。

「ご飯食べれてないの?」

「うん。ちょっとね」

 いつもなんでも答えてくれるあの子が珍しく答えたがらなかった。

「どうして?」

 僕は何も知らないからこそ、もう一度聞いてしまった。あの子だったら、大人なら、聞かずにいることなのに。僕はこういう所が子供で。それが嫌なのに、今回だけは子供で良かったと思った。

 するとあの子は少し悩んだけれど、答えてくれた。やけに大きな笑顔で。

「うん、まあ。たまには人間らしいことをさせて。私、虐待されてるんだ」

「ぎゃくたい」が僕にはなんなのかよく分からない。でも、悪いことなのはその響きが証明していた。その言葉がさらりと出てくるほどにはあの子の王国では普通のことなんだ。

「虐待ってね、暴力だけじゃないの。精神的、肉体的、性的、経済的…色んな項目があるの。私、どれも制覇しちゃった。性的はどっちかというと他人にだけど」

 どんな内容かあの子は決して深くは話そうとしなかった。でも、殴られていることは痣が証明していた。いつか大人になった僕があの子の受けた残酷さを知るんだと。

「なんで助けを呼ばなかったの?」

「呼んだよ。でもみんな寄ってこない。行政はもみ消そうとするし、学校も無視。病院なんて昨日の救急車でいつぶりに行ったか…。栄養失調だって。あと低血圧。急に心臓痛くなって呼吸が出来なくなったから、今度こそ死んじゃうかと思った。お母さんが食べさせてくれないのもあるけど、もうなんにも欲しくないんだよね。一応、水分とゼリーとかは取ってるけど足りなかったみたい」

「なんで辛いってならないの」

 その言葉にあの子は一瞬顔が固まった。その一瞬だけ目の奥に真っ黒な感情が見えて。たくさんの感情が僕の中に入ってきた。

 憎しみ。裏切り。悲しい。辛い。痛い。苦しい。どうして。死にたい。殺したい。壊したい。信じない。諦め。

 僕には言葉に出来ない感情もたくさん、たくさんあって。

 一瞬だけブラックホールみたいに底なしの深い黒目だったあの子。すぐに元に戻ったその目の中に、そのブラックホールの先に、誰かがいるような気がした。

「辛い? だって、辛いって言っても、寂しいって言っても、苦しいって言っても、私のこの気持ちを誰も取り除いてくれないでしょ。感情ってね、私にしか抱えれないし、私にしか解決出来ないの」

 確かにそうだ。あの子の苦しみも、僕の苦しみも、手術でお医者さんが取ってくれない。だから、たくさん色んなことを知って、たくさん痛いを繰り返して、たくさん泣いて、大人になっていくしかないんだ。

 あの子が言っていたように誰かの「せい」にするんじゃなくて、自分の中の王国をきちんとその目で見て、ルールや考えを変えて住みやすくして、お互い笑える国にするのが立派な王様なんだ。

「辛いから、寂しいから、苦しいから、異性にすがりついて、離れて欲しくないからお金あげたり、プレゼントあげたり、セックスして。それで、子供が生まれて男に捨てられたり、興味持ってもらえなくなって。今度は子供にすがりついて。サンドバッグにする。それか別の相手に拠り所を見出そうとする。みんな、自分の思い通りにいかないとすぐ相手のせいにして、不安になったり、怒ったりしちゃうんだから。子供を産む覚悟も金もないなら……子供からしたらパンチ、パンチだよね」

 最後の「パンチ」がやけに可愛らしい。でも、すごく納得は出来る。

 お父さんもお母さんも寂しくて誰かにすがりついているんだ。

 だから「りこん」したんだ。

 だから「ラッピング」なんだ。

 僕もあの子もただの「血の繋がった子供」というお飾りでしかないんだ。

 パンチ、パンチ、なんだ。

「異性じゃなくても、友達という名の承認欲求の道具とか、ギャンブルとかお金使って脳内麻薬出してるとかさ。そういう依存ばっかりなのよ、みんな。みんな、そんな気持ち悪い感情ばっかりで繋がっている」

 君には早い話だったねと、あの子は笑った。

 あの子の王国は、僕がこの人生で全て分かるかどうか検討もつかない。それほどあの子は語り尽くせないほどたくさん、たくさん、傷ついてきたんだ。

 僕が大人なら胃の中のものを吐いてしまうほど、この世の黒を経験しているんだ。

 僕が子供だからあの子は最後まで話してくれたんだ。

「大丈夫だよ、君とはそんな気持ち悪い感情で繋がっていない。気持ち悪い感情で誰かと繋がるぐらいなら一人でいた方がいいから」

 独りは寂しいはずなのに。でも、それ以上にあの子は誰かといる苦しさを知っているんだ。

 あの子がもっとたくさん優しい人と出会っていれば、あの子に手を差し伸べてくれる大人がいれば。せめて、あの子の受けた残酷な現実を全て聞いてくれて理解もできる人がいれば。あの子は僕と出会うまで「一人」を選ばなかったのに。

「私はね、自分が辛くて仕方ないからって誰かに迷惑かけたくないの。その代わり、たくさん楽しい話をしたいの。それだけで私は救われる。相手が予想通りにいかないから、面白いし、話をする価値があるんだよ」

 あの子は自分の家族みたいになりたくないんだ。自分の弱さで他人を振り回して、傷つけて、依存して。誰かから見捨てられるのも怖ければ、誰かを見捨てなければいけないのも怖いんだ。

 みんな、あの子みたいに優しくないから「おかしい」って説教するに決まっている。

 違うんだよ。あの子は優しくて、いつだって辛いことから逃げないだけなんだよ。

 僕たちの何倍もえらいんだよ。頑張っているんだよ。

「それに人生、辛いこともいつか笑い話にすればいいでしょ」

 あの子は笑っていた。いつだって、いつだって、笑っていた。

 あの子の不思議な話は、決して不幸自慢や知識をひけらかすとかじゃなくて、純粋に疑問に思ったことを僕と話してみたかったんだ。他の人に話したら「おかしい」て言われるから僕に言ったんだ、きっと。

 あの子は誰よりも強くて、誰よりも弱くて。でも、あの子を助ける人なんて誰もいなくて。あの子も助けられることを望んでなくて。

 ただ、あの子は毎日笑っていたいんだ。毎日辛くて仕方ない、逃げ出したい気持ちを抑えて、現実と向き合うために。笑い続けた先に幸せがあると信じて。

 あの子と向き合って話をしたら、僕は自分がいかに愚かで、自分勝手なんだと気づいてしまうだろう。

 それは図星だから。僕が幼すぎるから。

 まだ僕はあの子の魂がいる場所にいないから。

 でも、僕はあの子を嫌いになる理由にはならないと分かりきっていた。

「明日、待ってるよ。いっぱい話しよ」

 エアコンもかかっていない夏の暑い多目的教室。僕はあの子の骨ばった軽い手を握りしめた。

「うん!」

 あの子は子供みたいに無邪気に笑っていた。


 あの子はそのまま死んでしまった。多目的教室に来なかった。

 心臓発作だって。栄養足りてなかったもんね。既に狭心症になってたかもしれないって大人の人達が話していた。

 あの子受けた「ぎゃくたい」と「せいひがい」は公にされて、あの子のお母さんと一緒に住んでいた男の人が捕まった。どちらも僕にはよく分からないけど、あの子のブラックホールの正体なんだと思う。

 ずっとあの子を無視していた先生も、生徒も悲しんでるフリをしている。あの子の死すら自分たちの評価や承認欲求のために使われている気がして、僕は悔しかった。

 あの子はとっても笑顔が素敵で、誰よりもお喋りな女の子なんだ。

 なんで、それをみんな知らないんだ。

 なんで、それをみんな知らないままあの子はいなくなったんだ。

 なんで、僕はあの子を知るのが遅すぎたんだ。

 葬式で大人たちは「早すぎる」と口々に言っていた。

 でも、きっと違うんだよね。今じゃないといけなかったんだよね。

 きっと、僕の言葉があの子をもう一度子供にしたんだ。ブラックホールの先に隠れていた「女の子」のあの子を連れ出してしまったんだ。

 神様はきっとあの子を連れ去ったんだ。あの子が心まで大人にならないうちに。あの子がおかしいぐらい子供のままのうちに。

 神様はきっとたくさんの大人で子供の人間たちを集めてるんだ。歴史上の偉人から名も無き人間たちまで。神様は僕たちに試練を与えて、乗り越えて、それでもイノセンスを忘れなかった人達を楽園に迎え入れてるんだ。

 試練を乗り越えれなかった僕たちのうち子供を残して、その子供たちのうちいくらかの僕たちがまた子供を残して。そうやって僕たちが死んで、代わりの誰かが生きて、代わりの誰かを残してを繰り返した先に、やっと辿り着いて迎え入れられるかもしれない場所への切符をあの子はもう手に入れてしまっていたんだ。

 僕がどうあの子の手を握り続けたとしてもそれは陽炎でしかなかったんだ。

 でも、きっとあの子に会えた僕は……もしかすると僕の遺伝子を受け継いだ何かは、他の人よりも早くあの子に会えるかもしれない。

 あの子が本当に楽園に行ったのなら、苦しみから解き放たれていて欲しい。

 いつか僕が僕じゃなくなっても、あの子に会えた時。

 一緒に笑いながらたくさん楽しい話をしようね。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る