彼女たち、あるいは彼女の可憐な日常

チャガマ

第1話 愛の挨拶

 ふいに、切なくなってしまうときがある。


 そのとき、私は「いけない」と思う。何かちょっぴり苦くて、鈍くうごめく何かが体内を胸から喉にかけて、駆け上ってくるような感覚に襲われる。


 テレビの横にあるスピーカーから、静かにクラシックが流れていた。何の変哲もないマンションの一室で、今はいないはずの彼氏の姿を追い求めてしまう。

 彼に会いたい、という気持ちが、期待と不安とがごちゃまぜになって、ぐるぐるする。もうすぐ就活が本格的に始まることもあって、ストレスが溜まっていたのかもしれない。


 少し落ち着こうと、曲を変えた。

 エドワード・エルガー『愛の挨拶』


 窓の外にはひらひらと雪が降り、ベランダの観葉植物たちの上にひっそりと雪が積もっている。結露の滴る窓を開けると、肌を切るような冷たい空気が流れ込んできた。そして、ささやかな日差し、曇りのない空。上の階から滴ってくる雪解け水が、陽光に照らされながら階下へ流れ落ちていく。


「きれい」


 ささやくように口にする。肌寒さを全身に感じて、窓を閉めた。冷気の流れが途絶える。そして、室内に澄み渡った空気の匂いがした。


 パジャマの上に紺色のセーターを着て、キッチンへ向かう。ケトルでお湯を沸かし、カップにダージリンのティーバッグを入れる。

 カップに湯を注ぐと、ダージリンの香りを纏った湯気が鼻孔を誘惑した。その鮮やかに赤く透明な液体を受け入れると、私の中の切なさのようなものはじんわりと沁み込んで温もりに溶かされていく。


 この一室にはエルガーの『愛の挨拶』が流れている。

 ベッドに腰掛けると、朝まであったはずの私の温度はとうの昔に冷え切っていた。

 私は愛について考える。大学の友達のこと、家族のこと、彼氏のこと。


 誰かが言った、『恋は下心、愛は真心』。

 私は愛されているだろうか。彼は私に下心があるのだろうか。

 そして、私は正しく彼を愛しているだろうか。

 

 キッチンから雫のシンクを打つ音が聞こえる。窓の外から電車の揺れる音、身じろぎした時のシーツの衣擦れの音、スピーカーからは穏やかな音量の『愛の挨拶』。

どうして私は今、一人なのだろうか。


「あー、もうやめやめ」


 ダージリンを喉に流し込み、ベッドに横になった。携帯を取り出し、昨日の彼氏とのやり取りを確認する。そして、私の送った文と、彼の返信と、その内容を凝視した。

 

 まだ寝ぼけたままの目をぱちぱちと瞬きし、こめかみに手を当てる。ぴりりり、とベッドの枕元にあるデジタル時計が鳴った。アラームを止めて、今日はいつもよりも早起きしたことを少し誇らしく感じる。


 再び携帯に目を向ける。彼とのやり取りは昨日の夜遅くに終わっている。


『おはよう』


 何気なしに送ってみる。


『おはよう』


 すぐに返信が来た。

 朝の澄んだ空気の中に、エルガーの『愛の挨拶』が流れている。


『今日も会える?』

『もちろん』


二月十四日。今日が、とびきり甘い日になったらいいな。

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