聖夜をどうしよう

チャガマ

聖夜をどうしよう


 オフィスから漏れる蛍光灯の光に、黒い空から降る白雪が照らされては闇に落ちていく。オフィスビルの四階。私は早くこの空間から逃げ出したかった。この生ぬるい暖房の効いた、少し浮足立った空間から一刻も早く。


 私は手早く仕事を片付け、コートをはおり、彼にもらった赤いマフラーを巻き、荷物をまとめ、愛想交じりの笑顔で一言挨拶して足速にオフィスを去ろうとした。


「あら、もう帰るの?」


嫌味ったらしい上司にそう言われるが、


「仕事も終わりましたし、今日は予定があるので」


 と笑って言い返した。そのまますたすたと速足にオフィスを去った。

同時に携帯で彼にメールを打つ。


『今、仕事が終わったから、待ってて』


 彼が見るかも分からないメールを願うように送信した。

 いつも使っているエレベーターを待つ時間がじれったい。暫く待っても動かない表示を睨みつけてから、逃げる様に階段を駆け下りた。ヒールの固い音で空気が甲高く揺れた。その音が妙に頭に響く。


 ビルを出ると僅かに雪が積もっていた。このへんでは珍しい、ホワイトクリスマスだ。厚着をしているのに、触れる空気がツンと冷たい。雪が肌に落ちるとじんわりと溶けて、肌の温かさを再認識する。


 雪の降るクリスマス。どうしてこんなにもロマンチックなのだろう。よりにもよってこんな冬に。私だけが置いてけぼりをくらったようだった。


 まだ、彼からメールの返信はこない。いつもならすぐ返信があったのに。私の携帯は音一つ立てない。


 けれど、私は溶けて水っぽくなった雪を撥ねながら帰路を急いだ。いつもは無視していられる周囲の会話の端々がいちいちしつこく主張してくる。それをどうしても意識せざるを得ない私自身がどんどん哀れに思えてくる。


 私の足は確実に家に向かっているはずなのに、私の足取りは不安定に彷徨っている。体が待っているのだ。彼からのメールを。


 私の足取りは自分でも分かるぐらい力がなく、フラフラとしていた。前を見て歩いていなかったからかもしれない。注意が散漫していて、今にも積もった雪で滑ってしまいそうだ。


 赤信号の横断歩道で止まる。周りの賑やかな二人組たちは足が止まっても、他の動きを止めることはない。口を開いて、甘い挙動をする。


 自分だけが止まっていた。独り、悴んだ手の平を自分の溜息で温めた。首に巻いたマフラーを巻き直してから、コートについた雪を払い落とす。


 雪はサラサラとまだ降ってくる。髪の毛についた雪が冷たい。折り畳み傘を持ってこなかったことを少し後悔した。どうしようもない寒さで歩きだせそうにない足を、青に変わった信号機が動かした。横断歩道の黒い部分を踏まないように渡って行く。


 煌びやかに装飾された街を避けるように通って、私たちの家への道を探した。慣れていない道は外灯が少なく薄暗い。街の中心の賑わいからは一歩引いて閑散としていた。その静寂はヒールが雪を踏む微かな音が聞こえるほどだ。その身に染みるような静けさが今の私にとっては微かな安らぎであり、寂しさだった。


 帰り道を探るように歩いている時、ふと『トライアングル』にケーキの注文をしていたのを思い出した。それは街の有名なケーキ屋さんで、毎年そこにケーキを注文していたのだ。


 しかし、それは煌びやかな街の中にある。『トライアングル』に行くには、引き返してあの街に入っていくしかない。私の足は迷っているようだった。彼からの返信はまだ来ない。だから、私は家に帰ることが恐ろしくて『トライアングル』に足を向けた。


 街はクリスマス一色だった。街中を駆け巡るクリスマスソング。クリスマスの装飾に身を包んだ店頭の数々。街の中心にそびえるクリスマスツリー。そして群がる人々。視界に入れなくても想像できてしまう。かつては私もそこにいた。

 

 彼と一緒に。

 そして、今年も。

 いるはずだった。


 三年前のクリスマス。私は街のクリスマスツリーの下で彼を待っていた。彼はいつも通り遅れてきた。反省した様子がちっともない笑顔で。それでも私は嬉しかった。このクリスマスという特別な日を私と過ごすことにしてくれた彼を、私は心から愛していた。


 良い聖夜だった。雪は降っていなかったけど、彼と街を歩いて、豪華なディナーを食べて、注文していたケーキを買って、二人の家に帰って、晩酌をして、クリスマスプレゼントの高級な赤いマフラーとたくさんの愛を貰った。


 私は幸せだった。あの日、誰よりも幸せだったと確信できるほど充たされていた。自分が勝ち取った幸せだった。この私の全てを彼は全て愛してくれた。それが実感できた。そんな聖夜だった。


 それから、彼は私のものだった。そして、私は彼のものだった。ずっと一緒にいて、ずっと愛し合っていた。一昨年も、去年も。今年も。

 今日は、私一人。ふとした視線の先で、寒そうなサンタクロースの服を着た店員が、店の前でケーキを売っている。




 トライアングルについた時には、クリスマスカラーに彩られた店内に複数のカップル達や女性が蠢いていた。若く生き生きとした子たちだった。自分がそこに入っていくのは場違いな気がした。年齢的にも、心情的にも。


 私の気分はすぐに萎えて、ケーキを買うこともなくその場を離れた。とはいっても、私はどこへ行けばいいのだろう。考えはしても行く先など思いつかない。私は歩道の点字ブロックの上をぽつぽつと歩く。一旦、横断歩道で点字ブロックが切れた。目の前はぽっかりと真っ暗になっている。


 私は少し道を引き返して、街を避けるように裏路地に逃げ込んだ。心の落ち着く場所に帰りたいと思った。けれど、家に帰る気には全くならない。人気のない裏路地にある店のほとんどは煌びやかな装飾などなかった。私と同じみたいに表の世界から切り離されているようだった。


 店の看板だけがぽつぽつと仄かに光を灯している。薄暗い路地の隅、すでに閉まった店の前に白い外灯がステージ上のスポットのようにベンチを照らしている。そこに私は腰かけた。ベンチに積もった雪が服越しに肌を濡らした。


 ぼうっとしながら、建物に狭められた黒い夜空を見上げていた。絶え間なく、雪が外灯に照らされて橙色に光っては地面に落ちて溶けてゆく。微かに街の喧騒が聞こえる。まるで遠い夢の国から聞こえてくるみたいに。




 どれほど座っていたのか、自分でも分からなかった。コートやマフラーには雪が積もっていて、指先から手の甲まで赤く光っていた。手首に巻いた時計の針は十一時を指しかけていた。もうすぐでトライアングルが閉まってしまう。私は見慣れない裏路地をひとひとと歩いて行った。


 トライアングルについた時には、もう店じまいが始まっていて、ちょうど店員さんがクリスマスケーキの広告看板を片付け、シャッターを閉めているところだった。私は少し躊躇った。けれど私はなんでもない風に、その店員さんに話しかけた。


「あの、すみません」

「はい?」


 店員さんは労働時間外だというのに、実に明るい笑顔で答えた。今日はお客さんも多くて忙しかっただろうに。私も少し笑顔を作って、


「ショートケーキの予約をしていたんですが、今からでも受け取れますか」


 店員さんは看板をシャッターに傾けておいて、


「少々お待ちください」


 と微笑んで言って、速足に裏口から店内に入っていった。暫くして、


「寒いですから、入ってお待ちください」


 そう私を店内へ促した。ショーケースに並べられたケーキは一つ残らず綺麗になくなっていた。外にいるのも寒くてつらかったが、この店内にいるのもつらかった。厚着をしたサンタの人形が私を見つめている。


「お待たせしました」


 さっきの店員さんが店の奥から小さなケーキの箱を持って出てきた。私は鞄から財布を取り出しながらレジの方へ向かう。


「ありがとうございます」

 

 私がそう言うと、店員さんはますます明るく笑って、


「いえいえ。今日は特別な日ですから」


 と私に言った。私はまた「ありがとう」と無理に笑顔を作って店を出た。特別な日。店員の彼女にとっても今日は特別な日なのだろうか。羨ましい。彼女はまだ若い。特別な日から、私だけが外れている。


 私はトライアングルを出て、まっすぐ家の方へ向かった。向かうしかなかった。私の住んでいる家は家賃十五万の立派なマンションの8階。2LDKの一室。


 入口の手短なセキュリティと広々としたエントランスを抜けて、一人でエレベーターに乗る。白い密室に包まれ運ばれて、私たちの家に戻ってきてしまったのだと後悔した。ドアが開いたその先の廊下に踏み出すのに、自動でドアが閉まりかけるまでかかった。


 廊下を辿ってある私たちの部屋。仕事終わりのメールの返信は無かった。家のドアの前で立ち止まっていたら、彼はやっぱりもういなくて、いつもみたいに中から開けてくれないことを知った。ドアノブを手に取った。ドアを開けようとするとガッと音がして開かなかった。私は鞄から鍵を取り出してカギを開けた。ガチャリと久しぶりの感触があった。


「ただいま」

 

 力ない声は真っ暗な部屋にやけに響いた。返事なんてあるはずもなかった。

なんで「ただいま」なんて言ったのだろうと思った。後悔で一気に体が重くなったような気がした。雪水で濡れた靴を脱ぎ棄てて、でも揃えて、鞄やコート、マフラーをいつもの場所に片付ける。


 トライアングルで買ってきたケーキの箱。私はいつもより広く感じるリビングの机の上にケーキの箱を置いて、白い立派なソファにもたれかかる。そこで自分のズボンが濡れていることに気づいた。それでも体はソファに沈んだまま、ぼんやりと部屋を眺める。無くなった彼の荷物と、二人掛けソファの私の隣。


 彼は昨日、唐突に自らの荷物と共に姿を消した。三年間の同棲生活が嘘のように消えてしまった。仕事から帰って来た時、彼は私を優しく出迎えてくれた。温かい夕食を用意して待ってくれていた。食事を終えてシャワーを浴びた後、彼と夜の時間を過ごした。そして朝起きたら彼と彼に関するものは何もかも消えてなくなっていた。

何か悪い夢を見ているようだった。


 彼に私以外の女がいるのは知っていた。彼は美しい顔と甘い声と私を包み込む大きな体と心を持っていた。つまり、完璧だった。


 そんな彼は私と共に暮らしてくれていた。他に女がいようとも、同棲しているのは間違いなく私だった。私だけなはずだった。だから、最後に愛してくれるのは私だと思っていた。そんな彼は、私を置いてどこかへ行ってしまった。

 こんな時に連絡もなしに。


 私は可愛らしいケーキの箱を開けた。中にはクリスマス風に彩られたイチゴのショートケーキが二つ入っていた。私はソファから立ち上がって、食器棚に入っていた小皿とフォークを机に出した。冷蔵庫にはクリスマスのために買った高級なワインが一本入っていて、それとグラス二つも出した。二つのショートケーキを二つの小皿に分けて、二つのワイングラスにワインを注いだ。そしていつものように彼の座る席の目の前に座って、静かに乾杯のふりをした。


「メリークリスマス」


 ワインを少し口に含んだ。柔らかな口触りのワイン。すっきりとして飲みやすい。口に残る僅かなワインの渋みに、甘すぎるショートケーキを一口。ふんわりとした生地にまろやかなクリームが絡んで、口の中に甘みが広がる。とても、おいしかった。

これをなんどか繰り返した。ショートケーキの苺だけを残して、ようやくそれらを胃に収めた。二人分の時間をかけて。けれど、目の前のワイングラスの水嵩は一つも減っていない。彼はお酒が好きなのに、珍しい。いつも私が一杯飲み終わるころには彼は三杯目に入っていてもいいぐらいなのに。


 私は彼の分まで自分のグラスにワインを注いで飲んだ。私のケーキはもう残っていない。二杯目のワインを飲み終わった時には、アルコールとワインの香りが体中を覆っている感じがした。そんなにお酒は得意ではない。


 彼のショートケーキも残ったまま。今思えば、彼は甘いものはそれほど好きではなかったかもしれない。少なくとも好んでは食べなかったようにも思える。いつもカカオの多いチョコレートをつまみにしてワインを飲んでいた。


 けれど、苺は好きだった気がする。特に酸っぱい苺。そんな彼が苺を食べていないのは少し変だった。私は苺にフォークを突き立てて、口に入れた。果物の爽やかな甘みが舌を撫でる。これなら、彼がショートケーキを食べていなくてもおかしくない。


 その後も、時間を忘れて飲んだ。彼はいつも一瓶空けていたから、そこまでは飲まなければならないという謎の使命感があった。一瓶空いていることが、彼が飲んだ証明になると思った。


 自分の限界も知らないで機械的に飲んだ。顔が熱くなって、頭がぼぅっとして、目の前がぼんやりとしてきた。はっきりしない頭を正そうと軽く頭を振ると、脳の中身が揺れて一層具合が悪くなった。不意にケーキの油っこさのようなものが胸を駆け上がってきて、私はトイレに駆け込んだ。


 思いっきり吐いた。同時に、熱い涙が出た。


 私は気持ち悪くなって、トイレから出たところの廊下で寝転がった。まだ胸には気持ち悪さが残っている。暫くして、また吐きそうになった。トイレに顔を突っ込んだ。惨めだった。


 どうにも気持ち悪くて、服も汗で濡れていたから我慢できずにシャワーを浴びた。温かい水が肌を流れていくが、私にとっては少し涼しく感じた。今求めているぬくもりはこんな生ぬるいものじゃない。もっと動物的で、柔らかなものだ。


 いつものように体を洗って、でもその後はどうすればいい? 私は迷った。そうして彼のことが頭をよぎると、また胸を何かが駆け上がってきて、排水溝に向かって吐いた。途中で胃の中のものがなくなったけれど、悲しさが胸を駆けあがってきて、私は空っぽを吐き続けた。胸を自分の手で撫でながら吐いて、落ち着いてきたら体を洗い、浴槽に浸かって、苦しくなってまた空っぽを吐いて。吐いた。そして、暫く唾も飲み込みたくないほど喉が痛かった。


 私は蹲ったまま、なるべく丹念に体を洗って浴室を出た。まだ酔いは覚めていない。何度も吐いたせいか体が著しく疲労していた。


 そのまま寝室に向かいダブルベッドに倒れこんだ。今日の私は異常に疲れ切っていた。精神的にも、肉体的にも。起き上がる気力もほとんどなかった。


 なのに、リビングの机に置いたままのワイングラスとショートケーキを見つけると、私は体を起こした。何ヵ月ぶりかにパジャマを着た。キッチンからラップを持ってきて、グラスとケーキの上にかぶせて、丁寧に冷蔵庫に入れた。


 寝室に戻ると、窓から美しく煌めく街が一望できた。それは街の外灯の明かりでもあり、立ち並ぶ家々から漏れる家庭の明かりでもあった。冷たい窓に近づくと吐息が窓に靄を作った。あの光の中にいったいどれほどの愛が溢れているのだろうか。愛が渡され、受取られ、また贈り合って、美しい時間が流れている。

 私の彼もあの中にいるのかもしれない。私の知らない他の女と一緒に。

「綺麗ね」

呟いて、カーテンを閉めた。そこからまたベッドに倒れた。寒い。そういえば帰ってきてから暖房すらつけていない。私は掛布団の中に潜り込んだ。まだ冷たいシーツがお酒で火照った肌をさする。ベッドに潜り込んでも一向に体は温まらない。むしろベッドに熱をとられていっているようだった。


こうしてベッドに入っても思い出すのは彼の大きさと温かさだけだ。海よりも大きく割足を包み込んで、太陽より私を暖かくしてくれた彼。こんな寒い夜に限って、どうして彼はいないのだろう。私を温められるのは彼だけなのに。


 彼がいないと、私は萎んでしまった風船のようになる。私の全ては彼で充たされていたから、彼がいなくなった瞬間に、私の中の全てが抜けて、空っぽになって、萎れてしまう。


 私は疲れているのに、全く眠くならなかった。瞼を閉じると、どうしても彼の影が思い浮かんでしまう。それは私の弱さなのかもしれない。私は彼のいない夜の過ごし方を知らないかもしれない。これまで何度も彼を愛し、彼に愛されてきた私は、彼と愛し合う以外の夜の過ごし方を教えられていない。


 過去に一度、彼がどうしても仕事で出張に行かなければならない時があった。私はしぶしぶ彼を送り出したが、その日の夜の絶望的な感覚を今でも忘れていない。嫌な妄想が頭の中を駆け巡る。彼が帰ってこなかったえらどうしよう、彼が他の女といたらどうしよう。悩みは尽きなかった。結果として彼はちゃんと帰って来た。約束した日にちゃんと。


 けれど、今日は違う。彼はもう、きっと帰ってこないのだ。約束も何もしていないのだから。


 まして聖夜。なにもかもがぽっかり空いてしまった。この聖夜を私はどうしよう。彼のいない夜をどう過ごせばいい?


 考えたところで答えはでない。寝返りを打つように枕に頬を擦り付けると、微かに彼の匂いがした。思わずはっと目が冴えた。そして落ち着く、彼の匂いだ。私の頬が緩やかに微笑むのを自分でも感じられた。自分はバカな女だとも思った。


 私は枕に顔を埋めた。彼はもういない。けれど、彼の生活はここに僅かに残っている。彼は確かにここにいたんだと、それを証明してくれる。不思議とそれが私を安心させた。でもやっぱり、彼はもういない。そのことが私の緩んだ心臓をぎゅっと締め付けた。


 だから、私はきっとバカな女なのだろう。でも、今日ぐらい。せめて聖夜ぐらい。愛する人が目の前にいなくても、愛する人を身勝手に愛しても許される気がした。

あぁ、メリークリスマス。


 私は枕に優しい口づけをした。




 いつの間にか眠っていた。起きてすぐ感じたのはひどい頭痛だった。それでも今日も仕事がある。私は仕事になんて行きたくなかった。行ったところでまともに仕事ができる気がしない。


 それでも私は仕事に行こうと、私のぬくもりだけが残るベッドから体を震わせながら降りる。嫌味な上司に会うことよりも、彼がいないのに彼の気配を感じるこの空間に留まることの方が苦痛だった。


 ひやりとした床が足裏をつかんだ。そして、まっすぐにまだ力をしっかり入れることができない足で立つ。私を支えてくれる人は、もうここにはいない。

 私は寝室のカーテンを開け、窓も開けた。柔らかな日差しと凍えるような風が部屋に吹き込んでくる。私はすぐに窓を閉めた。窓から見える街はぽつぽつとした明かりと、微かな白に覆われていた。


 朝食は食べる気にすらならなかった。料理を作る元気も、台所に立つ勇気もなかった。服を着替えて、仕事の荷物を準備した。化粧をしようと鏡の前に立った時、思わず笑ってしまった。今日はいつもより濃い目の化粧をした。コートをはおり、彼がくれた赤いマフラーを首に巻いた。


 喉がきゅっとした。

 靴を履きかけた時、電気を消し忘れていたことに気が付いてリビングへ引き返した。電気を消そうとしたとき、冷蔵庫に目がいった。私は確認してはいけないと思った。けれど、ゆっくりと冷蔵庫を開けた。そこにはラップをかけたワイングラスとショートケーキが入っていた。昨日のそのままそっくりに。


 泣きたかった。

 私は静かに冷蔵庫を閉めた。そして、少し笑った。その笑いは随分と乾いていた。


 もし彼がここから完全に出て行ってしまったのなら、再来月には私もここを出ないといけなくなる。ここの家賃は彼の口座からおろしている。彼が私のためにずっと払い続けてくれることは、きっとない。私だけではこの空間で暮らし続けることはできない。いつか思い出のこの場所が私たちのものでなくなってしまう時が来てしまう。

 

 彼は、私とこの思い出だけを残してどこに行ってしまったのだろう。携帯のメールに返信は相変わらず返ってこない。鍵を持っていることを確かめ、靴を履き、いつも通りの挨拶をした。


「いってきます」


「        」


空っぽが返事をした。

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