第9話 死が迫る

 土日に大学の講義はないのに目覚まし時計に叩き起こされた。と思ったら枕元のスマホが鳴っていて慌てて電話に出た。

「ごめん、取るのが遅くなって」

『それはいいが酷い声だな。風邪か?』

 響輝の半笑いの声を聞きながら喉の辺りに手をやる。

「カラオケだよ。四時間、歌いっぱなしで声枯れしたみたい。それでそっちの用は?」

『最初に謝らせてくれ。ごめんな』

「もしかして要がらみのことなのかな」

『そう、それだ。拓光の秘密を勝手に喋って本当に悪かった』

 最後の方の声が遠くなる。スマホを離して土下座でもしているのだろうか。

 声が遅れると自責の念を強めるかもしれない。僕は意識して朗らかに答えた。

「体質のことを要に聞かれただけで何もなかったよ。素直に話したらわかってくれて、それに――」

『それに?』

「なんでもない。結果として悪くなかったってことで」

 要に口止めされていなくても性に関わる問題を軽々しく話すことはできない。だけど響輝に隠し事をするのは心苦しいこともあり、片手を顔の前に持ってきて形だけでも謝った。

『これで安心して続きができる』

「どういうこと?」

『まだなの? 早くエッチしようよ』

 甘い声が聞こえた瞬間、通話が切れた。響輝の慌てぶりが目に浮かび、まったく、と僕は呟いてもう一眠りすることにした。


 平穏な土日を過ごして月曜日を迎えた。僕はいつも通り、土手の道を歩いて大学に向かう。柔らかい日差しが心地よく、風に吹かれた黄色い花々が緩く踊っていた。

 パーカーのポケットに入れたスマホが鳴った。誰かのメッセージが届いたことを知り、アプリを起動した。

 相手は要だった。男らしいスタンプはなくて、素っ気ない一言が表示された。


『話がしたい』


 なんの話題も振られていない状態なので僕は返事に迷った。深刻な内容をチャットや電話で済ませるのは不誠実に思える。

 また新しいメッセージが入った。

 目にした瞬間、僕は後ろから突き飛ばされるように走り出す。要のアパートまでの最短ルートを頭の中で弾き出し、土手の階段を落ちる勢いで駆け下りた。


『死にたい』


 最後に送られたメッセージが僕の限界を引き出した。

 もう何も考えられない。走ることに専念した。


 アパートの敷地に入って、一番、奥に当たる左のドアノブを掴んだ。鍵は掛かっていなくてすんなり回った。

 ドアを開けると中は薄暗く、甘ったるい洋酒の匂いがした。

「上がるよ」

 声を待たず、靴を脱いで廊下を突き進む。

 途中にある浴室を目にして生唾を呑んだ。手首を切った要の姿が頭に浮かんで激しい悪寒に見舞われた。引き気味の顔で中を見ると、そこには誰もいなかった。

 安堵あんどは一瞬で僕は廊下に戻る。突き当りの引き戸を躊躇ためらいながらも開けた。

 黒いジャージ姿の要がいた。壁に背を預けて項垂れている。胡坐を崩したような脚の側にはスマホがあった。空になった酒瓶も転がっていた。コップが見当たらないのでラッパ飲みしたのだろう。急性アルコール中毒が頭に過る。意識はあるのだろうか。

「要、大丈夫? 気分は悪くない?」

 強く揺することはしないで肩に手を置いた。

「……最悪だよ。もう消えて、しまいたい」

「どうして、そんなことをいうんだよ。なにがあったのか教えて欲しい。その前に水を飲んで」

 要の反応は鈍い。酒のせいなのか。空に放たれた風船のようにふらふらとしながら頭を上げる。

 ほっとしたものの安穏としてはいられない。洗い篭にあったコップを持ち、浄水器に通した水をたっぷり入れた。

「僕がコップを持つから」

 頬の涙跡が気になりつつ、まずは虚ろな目の要に水を飲ませた。ゆっくりと刻むようにして根気よく続けた。

 飲み終わると要は力なく笑った。

「あたしの、告白は、ダメだった」

「カラオケで話していた彼女だね」

「そう、中身が男でも、ダメなんだ。どう見たって女だし」

 泣きそうな顔で笑う要を見ていられない。目を逸らすこともしたくない。困った僕は抱き寄せた。ここまで走って汗だくになった身体で強く抱き締める。

「あったかいな」

 泣き声にも聞こえる一言に何も返せない。同性の僕では恋人になれないし、瀕死の心を癒す言葉も思いつかなかった。

「余計に、死にたくなる」

「それはダメだよ」

「でもさ、本当に、好きだったんだよ。告白したら、気持ち悪いだってさ」

 自嘲するような声は震えていた。心から流した血が多すぎて冷たくなっている。その寒さで今にも事切れそうで、ダメだよ、と僕は言葉を繰り返すしかなかった。

「……あたしが、本物の女なら、拓光に惚れてたかもな」

「それなら僕と――」

 要は僕の胸に手を当てて突き飛ばした。その力に僕は易々と転がされた。

「できないこと、言ってんじゃねぇよ! もう、死にたいんだよ!」

 怒鳴った要は何かを目で探す。ふらつく状態で立ち上がると一方に向かう。そこにはカッターナイフが無造作に落ちていた。

 先に走った僕は急いで拾い上げる。

「返せよ! あたしのもんだぞ!」

「返さない! それに要が正気になるまで、僕は帰らないから!」

 強い言葉を受けて要はしゃがみこんだ。その姿のまま声を殺して泣き始めた。

 小さくなった要を僕は黙って見ている。掛ける言葉がなくて、悔しい気持ちに苛まれた。

 この状態の要から目が離せない。シンクの下の棚には包丁もあるだろう。酒の影響で、そこまで頭が回っていないことにほっとした。それも時間の問題で窮地きゅうちは確実にやってくる。

 どうすれば要の自殺を阻止できるのだろう。考えても手掛かりさえ、掴めない。手は何かを求めてあらゆるポケットに当たった。

 円筒状の瓶に行き当たる。掴んだ瞬間、方法を思いついた。妙案ではなくて悪手かもしれない。人の心を弄ぶことへの罪悪感は免れないだろう。


 それでも僕は――。

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