赤い老婆

 風のやいばが、檸檬れもんの月を激しく裂いた。いつの間にやら、雲は足を速めて退散したものらしい。

 塔の天辺に赤い老婆がいる。髪も肌も両眼も、セーターからほつれた糸の、その隅々までも、どこまでも赤い。───それは月の血。裂かれた月の血の所為せいである。

 にわかにピエロが君に寄って言う、「ここは今からHighlands。舞い降りた星を背にして、赤い老婆を祝う場所」。無数の星々は紙屑の顔で、ただパラパラと落ちてくる。レンガ造りの町並みは、ガララガララとわめいて無造作になりを変えていく。烏の羽ばたきに人はく。

 赤い老婆の言の葉は、君のもとへは届かない。その代わり、君の頭蓋骨は窒息した蝶々に満たされて───……嗚呼、嗚呼! 精神の鏡! それが夜と朝の首を掴み、ときの小舟の真ん中にさらしている。櫂の担い手の顔には、ふと見覚えが……


 (Hung up.)














 (Rebooted.)


 ………────。

 赤い老婆の赤い舌が、器用に夜の闇を舐める。老婆が舐めたその跡は、欲望のように赤く、絶望のように深い。「ハレルヤ、闇の老婆!」。ピエロが叫ぶと、二人ににん、三人と声を重ねる者達が増えていき、それはやがて、空の塵を大きく震わせるほどになった。しかし、愚かな雲の群れは未だに帰って来やしない。

 赤い老婆を見ていた者達の中に、「死は生きている」とポツリと呟く男が一人。翼をはためかせた夢は七色の永遠とわを孕み、それから烏の瞳にギィギィと吸い込まれていく。烏は飛び立つ。ただ、ただ、生の深淵を友にして。

 ピエロの指先がタンバリンをしゃらしゃら鳴らすと、赤い老婆のてのひらから羊の群れがむくりと湧き出して、大地に向かってガツンと叩きつけられる。肉塊の数はいつしか星のそれを超え、少しずつ、少しずつ、赤い海が産み落とされる。そしてついに今、君は、君の脚はおろか、頭までもがすっぽりと、赤くて赤い、赤い、赤い、赤い海に沈んでいる。

 君の肌に、赤い海がザクリと食い込んでくる。辺りには、胸を一突きされてそのまま腐った勇気の欠片かけらが、音も立てずに海月くらげのダンス。やがてそれは海中の雲となって、赤い闇を暗く飾る。……嗚呼! しかし、君は生きている、生きている、生きている───。

 すると、赤い海の中から仰ぎ見る赤い闇に、青白い光が、すうっと。ゆらゆら。まゆの命のように軽くて重い安らぎが、君の柔らかな白鳥の瞳に宿る。

 赤い海に埋もれた塔の天辺に、もはや赤い老婆の姿はない。君は、かつて老婆の佇んだ場所へと静かに泳いでいく。セーターに染み込む赤が、人を殺めた罪のように重い。

 眼前に漂ってきたものは、他でもない。君の母の亡骸だ!(嗚呼、一体これはどうしたことか!) 想い出と混乱が同時にハッと目を覚まし、さめざめと哭く赤い君。「母よ!……我が母よ!!!」。すると亡骸は、あたかも待っていたかのように笑う、笑う、……嗤う!! 母はアッという間に獰猛な赤い獅子へと姿を変える!! そして突然ガブリと喰らいついたのだ、君の瞳、君の揺れる両目、君の溺れる二つの赤い眼球に────!!!! 君の叫びが血水ちみずの藻屑と消え失せる傍ら、天より与えられし水晶体の、不様ぶざまに、けたたましく、下劣に咀嚼される音、音、音!! ただそれだけが、君の耳にしかと届く!!───瑠璃色の雀の、自らくちばしを折っては萎み、枯れ、大地の歌にひっそりと溶けゆく様が、君の脳裏にふと飛び込んで───


 (Hung up.)








 

 風の刃が、幾つ目かの檸檬の月を激しく裂いた。相変わらず、雲は足を速めて退散したものらしい。

 塔の天辺には、今も赤い老婆がいる。「母よ!……我が母よ!!!」と、あらん限りの声で叫ぶ、哀しき赤い老婆がいる。髪も肌も両眼も、セーターからほつれた糸の、その隅々までも、どこまでも赤い。───それは月の血。裂かれた月の血の所為である。












  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る