第五話「洗い場でばっちり身を清めるべし」③
「――はい。これでどうだい?」
頭に手ぬぐいを巻いた職人肌の男が、ちかやにも中が見えるように屈んで箱を差し出す。
「わあ……!」
ちかやは感嘆の吐息を漏らした。
箱の中には二膳のお箸が入っている。どちらも同じ形状だが、塗られている漆の色が違う。片方は黒、もう片方は赤――いわゆる「夫婦箸」だ。持ち手のところには「駿太」「絵里子」と刻まれている。無論、ちかやの両親の名前だ。
ちかやは職人に向かってぶんぶんと首を縦に振った。
「ありがとね、秀さん」と、結衣奈は言った。
「なあに。このお嬢ちゃんからお代をいただいて、俺が腕をふるう。大人と大人の取引よ」
箸屋の秀はそう言ってニッと笑うと、ちかやを呼んでプレゼント用のカードと包み紙の準備に移った。自分のお金でプレゼントを買えたことが嬉しかったのか、ちかやもとてとてと人見知りせずについていく。
その背中を微笑ましく見送って、結衣奈は店の外で待つことにした。
ここは草津温泉のメインストリート、「西の河原通り」である。湯畑から西に延びるこの通りには歴史ある旅館と個性豊かな土産物屋が建ち並ぶ。「バスターミナル」→「湯畑」→「西の河原通り」というのは、草津温泉を観光する王道のルートだ。
「あっ、結衣奈ちゃん! 見つけたべ~」
「ちかやちゃんのプレゼント決まった?」
湯畑方面から那菜子と彩耶が現れた。那菜子は箱詰めの温泉まんじゅうが入ったビニール袋を、彩耶は緑茶のペットボトル四本を抱えている。
「うん。秀さんのとこの夫婦箸にしたよ。そっちは……って!」
そして、ふたりはバラ売りで買ったらしき温泉まんじゅうを頬張っていた。
「あああーーっ!! 温泉まんじゅう食べてる! ずるい! なんで!?」
「なんでって……サービスでバラ売りのをもらったんだよ。お財布のお礼に檜さんのお店で買い物してきてって言ったの結衣奈だよね?」と、彩耶が苦笑した。
「サービス!? わたしがそっちに行けばよかった……」
結衣奈はがっくりと肩を落とした。
「ふふっ。もちろん結衣奈ちゃんのぶんもあるべさ~」
「やったーーっ!」
結衣奈はすぐさま持ち直した。
袋の中をまさぐり、那菜子が艶やかな黒皮の温泉まんじゅうを取り出す。高温で知られる草津の源泉を活かし、その湯気で直接蒸して作る本格的な一品だ。
那菜子に包みを解いてもらって、結衣奈は温泉まんじゅうにかぶりついた。
「ん~~~~♪」
もぐもぐと咀嚼する。濃厚な餡をもっちりした黒皮が包んで――、
「……あれっ?」
と、結衣奈は首を傾げた。「いつもと味が違うね。蒸し方変えたって言ってなかった?」
「そう? 私たちには分からないけど……。結衣奈が言うならそうなのかな」
「餡子の味は変わらないんだけど、皮が違う気がする。あとで聞いてみよーっと」
結衣奈は彩耶からお茶を受け取って口に含んだ。餡子の甘みがお茶の渋みに溶けていく。
「あ、そういえば」と、彩耶が思い出したように言った。「『結衣奈が舞ってる間、湯畑にお財布が落ちてないか探しておいてほしい』って檜さんたちに指示しておいてくれたの那菜子なんだって」
「えっ、そうだったんだ!」と、結衣奈は那菜子を見た。
「いやあ、どうだべか……」
「檜さんに直接聞いたよ」
はぐらかそうとした那菜子を彩耶が制する。
「那菜ちゃあ~~~~ん! 愛してる~~~~っ!」
結衣奈は那菜子の脇腹に抱きついた。
「わたしも愛してるべ~~!」
那菜子も結衣奈を抱き留めた。
「……ふたりとも、ちかやちゃんが見てるよ」
彩耶が苦笑して言った。
「……♪」
ちかやはふたりの痴態を特に気にした様子もなく、ラッピングされた夫婦箸の箱を手にニコニコしている。彼女はそれを大事に大事にリュックサックの中に入れると、クマのぬいぐるみ――いまさら聞いたところによると、「カプチーノ」という名前らしい――をぎゅっと抱き寄せて、結衣奈を上目遣いで見つめ、言った。
「……ごじ」
「ん? なにが?」
「おむかえのじかん」
結衣奈は時計を見た。まだ二時間以上ある。
「……だから、もうちょっといっしょにいてもいい?」
「もちろん!」
結衣奈は即答した。もっともっとちかやに見せてあげたい場所があった。
「じゃあ……そうだなあ。温泉でできた川を見せてあげる!」
「おっ、いいね。すぐそこだし」
「ちかやちゃんのぶんの温泉まんじゅうもあるから、歩きながら食べるベ~」と、彩耶と那菜子も乗ってきた。
こくり、とちかやが頷く。
「よーし、行ってみよーっ!」
結衣奈はそんな彼女の手を取って、西の河原通りを湯畑とは反対方向に歩き出した。
すれ違う観光客が「あっ、結衣奈さまだ」と手を振ってくる。先ほど広場で見た顔だ。
「こんにちはー」と、結衣奈も挨拶を返す。
すると、くいくいと結衣奈の腕が引っ張られた。
「……おねえちゃん、神さまなの?」
ちかやが純粋に疑問を持ったという顔で見上げている。
「そうだよー」
結衣奈はあっけらかんと答えて、「後ろのふたりもね」と付け足した。
「でも、普通の人間と変わらないべ」
「ちょっとした有名人みたいな扱いだよね」
那菜子と彩耶が補足する。ちかやは「ふーん……」と言って、何度か口をぱくぱくさせた。
興味がないわけではないが、なにをどこから質問していいのか分からないのだろう。
海外にも温泉むすめはいると聞いていたが、日本のようにその辺をぶらついているような存在ではないのかもしれないな、と結衣奈は思った。
日本の観光客から見れば、温泉むすめは単なる縁起物のひとつだ。彼女たちは普通にしていればその辺の女の子と見分けがつかない。仮に会えたところでご利益があるわけでもない――のだが、旅行の土産話にはちょうどいいようで――喜んだり、珍しがったり、一緒に写真を撮ってほしいと頼んできたりする旅行客もそれなりに多い。
他方、地元の人にとって――少なくとも草津温泉の人にとって、温泉むすめは「おらが村の娘」扱いだ。温かい眼差しで見守ってくれる一方で、イタズラをすれば叱られるし、仕事の邪魔をしたら邪険にされる。要するに、少し特別なだけの女の子として接してくれている。
どちらがいいという話ではない。両方揃って「温泉むすめ」なのだ。
「……おねえちゃんのこと、おばあちゃんに送るおてがみに書いていい?」
「もちろん! かわいく書いてね!」
そんな話をしながら歩いているうちに、結衣奈たちは「温泉の川」に辿り着いていた。
「じゃーん! この川、なんと温泉が流れてるんです!」
一見すると普通の渓流だ。上流と下流があって、澄んだ水がその方向に勢いよく流れていく。川の流れの周りに草木は生えておらず、白や灰色の石が一面に転がって河原を成している。水面を覗き込めばヤマメやイワナが泳いでいそうな光景である。
しかし――この川に魚は棲んでいない。
「わ、水があったかい……!」
結衣奈に促されて川の流れに指先を浸したちかやが驚きの声をあげた。
「澄んだ水」は水ではなく温泉だ。草木が生えていないのは硫黄などの温泉成分にやられるからで、水質は強酸性だから魚は一匹も棲んでいない。
生者の世界にありながら、死の匂いを色濃く感じる場所――ゆえに、「賽」の河原。
ここもまた、湯畑と同様に草津温泉でしか見ることのできない観光名所になっている。
「もっと上に行けば温泉の滝もあるよ!」
「行く」
ちかやは珍しく即答した。かなりテンションが上がっている様子だ。
右手に温泉の川を眺めながら、結衣奈たちは遊歩道を上流へと向かっていく。道中には、他にも稲荷神社や、ここで詠まれた有名な俳句が刻まれた石碑などの様々な見所がある。
川には小さな橋もかかっており、そこを渡って行くと縁結び地蔵尊もある。ちかやはまだ縁結びという年齢ではないかもしれないが、念のため寄り道するか尋ねようとして――結衣奈はなにげなく縁結び地蔵の方角を見た。
「あっ、人がいる」
一組のカップルがべたべたイチャつきながら地蔵尊にお参りしていた。
彼らはお参りを済ませて肩を寄せ合うと、幸せそうに見つめ合う。
結衣奈は嬉しくなった。結衣奈理論では、草津温泉で幸せそうにしている人は皆いい人だった。
カップルは愛を囁き合っている。付き合いたてかな? と結衣奈は思った。
「うんうん、よきかなよきかな。……うん?」
結衣奈が若者を見守る老人のような気持ちになっていると――異変が起きた。
見つめ合うカップルの視線に熱っぽいものが混じり始めたのだ。
ふたりは口をつぐみ、さらに顔を近づけると――ゆっくりと目を閉じた。
「えっ……、えっ……!?」
結衣奈が見ていることを知らず、ふたりはうっとりとした表情で顔を近づけ――
「ええーーーーっ!?」
――キスをした。
「……? おねえちゃん、どうしたの?」
「だあーーっ! 教育的バリアー!」
結衣奈はちかやの視界を塞ぐように両手両足を広げた。
突然の奇行に走った結衣奈を、彩耶が気の毒そうに見た。
「結衣奈……。温泉まんじゅうの食べすぎで……」
「彩耶ちゃん! ほっ、ふっ、はっ!」
結衣奈はボディランゲージで「ちかやちゃんの気を逸らして!」と彩耶に伝えた。
「……? なにやってるの?」
いま考えたジェスチャーである。もちろん彩耶には伝わらなかった。
「はわわわ……。の、濃厚だべ……」
「那菜ちゃーん!?」
那菜子にいたってはがっつりキスを観察していた。口元を両手で隠して頬を赤らめている。
彼女の視線を辿ることで、彩耶とちかやも結衣奈の背後になにかがあるのに気付いた。
「なんだろう……あっ」
彩耶は硬直した。
「彩耶ちゃん!?」
「…………はふぅ」
「彩耶ちゃあーーん!!」
彩耶の顔が一瞬で茹で上がって、蒸気が抜けるようにへたりこんだ。
結衣奈はすぐさま駆け寄って、彼女が頭を打たないように抱き留める。
「そうだった……。彩耶ちゃん、こういうのに免疫ゼロだった!」
「ドラマの……あわわ……キスシーンも……はわわ……ダメだったべ、彩耶ちゃんは」
「な、那菜ちゃん……」
那菜子は会話に参加するふりをしてチラチラとカップルを盗み見ている。
「……こ、これは……」
結衣奈は辺りを見回した。
心ここにあらずの那菜子。
意識がどこかへ飛んで行ってしまった彩耶。
ふたりのフォローが追いつかない結衣奈。
「……壊滅……!?」
ただ一度のキスで、神さま軍・温泉むすめ小隊は壊滅状態に陥った。
「あれっ……?」
結衣奈ははっと我に返った。
「……ちかやちゃん!?」
ちかやがいなくなっていた。
そもそも結衣奈はちかやにキスシーンを見せないために大騒ぎしたのだ。小学校入学前の女の子にキスはまだ早いと結衣奈は思っていた。いなくなってしまったということは、あの光景をもろに見てしまい――刺激が強すぎてどこかへ逃げ出してしまったのだろうか。
照れ屋なちかやなら充分にありえる。早くフォローしなくては!
そう考えて、結衣奈が前後の道を見回そうとしたときだった。
「――パパ! ママ!」
ちかやの嬉しそうな声が、カップルの方から聞こえてきた。
「えっ!?」
結衣奈は背後を振り返った。
キスしていたカップルにちかやが駆け寄っている。カップルは驚いてちかやを見たが、すぐに笑顔になって彼女を迎え入れた。
「えっ、あのカップルが……えっ?」
「はあ~っ……。お子さんがいてもアツアツ! 素敵だべ……!」
那菜子は胸の前で腕を組んでうっとりと家族を見つめていた。完全に自己投影を始めている。
結衣奈は距離感の近い夫婦を見ながら言った。
「い、言われてみればなんか……イギリスに住んでた一家っぽいか……も?」
「あれこそ真の夫婦の在り方だべさ! 結婚しても、子どもが産まれても、ずーっとお互いの体温を伝え合うことで夫婦仲は円満になるっちゃね~! こないだネットで記事になってたべ!」
「夫婦仲の記事をいまから読んでるの!?」
「備えあればうれしいな、だべ」
「憂いなしだよ! ……はっ!? 結衣奈!? 那菜子!?」
見え見えの釣り針に引っかかった彩耶が意識を取り戻した。見上げたツッコミ役根性だな、と結衣奈は思った。
「き、キスは!? あれはちかやちゃんにはまだ早いんじゃない!?」
彩耶は必死の形相で言った。
「あー、うん。それが……」
「結衣奈さま!」
どう説明したものかと結衣奈が口ごもっていると、夫婦の方からやってきてくれた。
事態を呑み込めない彩耶が「わあっ!」と顔を真っ赤にして目を逸らした。那菜子は夫婦仲の秘訣でも聞き出そうとしているのか、興味津々といった表情で一家を見ている。
ふたりがこれだけ取り乱してくれたおかげで――結衣奈はかえって冷静になった。
「お、おほん。はじめまして。ちかやちゃんのご両親ですね」
「はい。うちの子がたいへんお世話になったみたいで……」
「いえいえ。むしろ――」
結衣奈はちかやのリュックサックをちらりと見た。中に夫婦箸の箱が見える。
そのままちかやに目配せすると、彼女ははにかむように笑った。
結衣奈は言った。
「むしろ――わたしの方が、幸せな時間を過ごせました!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます