番外編

48.5話◆ピロートーク

※時系列:50話の事後


 軋むベッドの音に混じって、途切れ途切れに少女の声が響く。悲鳴にも聞こえる、切羽詰まっている声。


 千切れそうなほどに締め上げてくる指先を動かすたびに、小さな体が跳ねる。

 そうさせているのは私で、ろれつが回らなくなった彼女もそれを求めていた。


「せっ、ちゃん」


 きもちいい、もっと。

 うわ言のように繰り返している短く甘美な言葉が、理性を毟り取っていく。

 私は、恋人を、紫苑を抱いていた。


 身体は溶けてしまいそうなほどに熱く、触れている境界線が曖昧に感じる。

 長い時間を掛けて体温を絡ませているからだろう。


 私自身も汗だくで内側から湧き上がる熱さは止まりそうになくて、そのまま混じり合ってひとつになってしまいそうだ。


 息を吸うと、濃厚な芳香に目眩を覚えた。私の好きな、食べてしまいそうになる特有の甘い香りがどんどん濃くなっていく。

 宣言通り美味しく頂いているのに、どれだけ貪っても足りない、飽きない。私の欲が底なしなだけかもしれない。


「ん、」

 いちばん強く香る胸元に衝動的に顔を寄せて、丹念に味わい尽くしていく。

 脳がとろけそうな嬌声が耳朶を打って、舌先にほんのりと甘さを感じた。



 そんな感じの、夢を見ていた。


 沈んでいた意識がゆっくりと浮き上がってくる。

 寝床の柔らかさ、汗の匂い、閉じたまぶた越しに刺してくる光。エアコンでカバーしきれていない、室内にこもる蒸し暑さ。

 まぶしさと室温から、帰ってきてそのまま昼寝していたらしい。


 いやに生々しい夢だったと思う。

 希薄なはずの感覚がしっかり五感に残っていて、胸いっぱいに甘い香りが満たされているように錯覚する。


 満足感と罪悪感が同時に押し寄せて、へへぇと頭から空気の抜けたような笑い声が漏れた。賢者モードってこういうことを指すのかね。


 現実の感触が肉体に戻ってきても、名残惜しさから私はまだ目をつぶっていた。


 だけど悲しいかな、二度寝で見たい夢にはトリップできない。

 そもそも夢というのは起きた瞬間に忘れてしまうもので、記憶できるほどの良い夢を見られるのは極稀なのだ。

 怖い夢のほうがいつまでも忘れられないからね。


 頭上から降り注ぐエアコンの風に肌寒さを覚えて、思わず身体を丸めた。

 寝ている間にたくさん汗をかいていたらしい。首や額にべったり髪が貼り付いて、汗で湿った皮膚はひんやり冷え切っている。


 ……あれ。

 薄着で寝ていたとはいえ、やけに風通しがいいような。


 ぼんやりとまぶたを開く。

 目の前には、生まれたままの姿で寝息を立てている紫苑の姿があった。


 ……夢じゃなかったわ。

 なぜ裸で自分の彼女と寝ていたのか小一時間前の光景が即座にフラッシュバックして、冷えていたはずの肌にぶわっと汗が吹き出してきた。


 両手で顔を覆って、声を押し殺しながら悶える。

 起こさないように必死に抑えているけど、油断すると足も暴れまわってしまいそうだ。


シーツに頭をうずめ続けた恥ずか死タイムが終わって、やっと冷静さが頭に戻ってくる。

 だるい上体をよろよろ起こして、冷房を除湿に切り替えた。


「ひくちっ」


 おおっと。紫苑も寒さを覚えていたらしく、やたらかわいいくしゃみの声がした。


 それでもまだ覚醒には至っていないのか。

 むぎゅむぎゅと口元を歪ませ、ふたたび規則正しい寝息へと移り変わる。


 そっと、むき出しの肩に触れる。冷えた肌には若干、鳥肌が浮いていた。

 とりあえず、風邪を引かないようにしないと。事後のむず痒さは心配によって吹っ飛んでいた。


 折り畳んでいた薄い毛布を引っ張って、肩の上まで掛けようとする。


「え」


 顔をしかめた紫苑が、寝返りを打って毛布を跳ね除ける。

 それからあろうことか、そのまま滑り込むように私の胸の中へすっぽり小さな身体が転がってきた。背中にぐるっと腕を回されて、一瞬のうちに拘束される。

 待てや。


 肌と肌が、本来衣類に隔たれている部位が、吸い付くように触れ合っている。


 ただでさえ刺激が強すぎる光景が広がっているのに、ここまで密着されて情緒が乱されないわけがない。

 触れるよりももっと深いところまでまさぐっていたくせに、性欲の波が引いた今は悶え殺されるがままだ。


 激しく脈打つ心臓を抑えて、無意識に甘えてきた紫苑の後頭部に手を置いた。


「仕方ないな」


 毛布じゃなく人肌であっためてということですか。なかなか大胆だこと。

 自分以上に汗をかいていたはずなのに、触れている紫苑の身体はすべすべでやわらかい。

 乳白色の肌は発光しているかのように美しくて、いつまでも眺めていたくなるほど。


 ところどころ、蚊に刺されたような赤い痕が見えて心の中ですまぬと手を合わせる。最中にどれだけ刻んだんだ、私。


 胸の中で胎児みたいに顔をうずめて、夢の世界にいるらしきあどけない寝顔を見つめる。


 約束のリップはもちろん塗ってきたものの。今日はさんざん舐めて吸ったから、すっかりグロスは剥がれてもとのチェリーピンクの唇に戻っていた。

 瑞々しくて柔らかそうなそこへ、視線が引き寄せられていく。


「起きないとちゅーするぞ」


 つぶやいて、もちもちの頬を両側からはさむ。一瞬紫苑が身動ぎして、ぴくっと整った眉が動いた。


 ゆっくりほっぺをこねくり回すと、徐々に紫苑の頬から顔が茹で上がっていく。

 少しひんやりしていたはずの肌はじわじわと熱さを覚えて、鼻の頭に汗がにじんできていた。


 固く閉じられていたまぶたも、ほっぺ攻撃が続くにつれてぷるぷると震えが止まらなくなっている。狸寝入り疑惑に拍車がかかる一方だ。


 これは、欲しいということなのかな。

 明らか起きてるのに、本人はあくまで寝たふりを貫いてるって。鼻息を漏らして、応えてやることにした。


 ただし、唇ではなく額に。

 どこにするとは言ってないし。ケアの行き届いたなめらか素肌に口唇を押し当てて、ゆっくりと離す。


「おはよ、しーちゃん」


 もうしばらくすると日没だけど。真っ赤に熱く染まった耳元にささやいて、ふっと吹きかける。


 紫苑の肩が跳ねて、もう隠し通すのは無理があると観念したのか背中に回されていた締め付けがほどけた。

 万歳するように、ぐぐっと細い二の腕が伸びる。


「お……はよ」


 律儀に挨拶を交わした紫苑が、目が合うやいなや顔を伏せてしまった。

 こっちの胸に顔をうずめて、あうあうあうと言語化できない何かを呻いている。恥ずかしいのに胸にダイブはできるんかい。


「本当に……した……んだ」

「そうなりますねぇ」


 他人事みたいに言って、ほどけた紫苑の髪を梳く。必死に余裕ぶってるけど、私も内心は心臓発作起こしそうな勢いだからね。


 ただ、初めてを迎えた子の前でかっこ悪い姿はさらせないってだけで。

 一線超えたんだって、記憶も残ってるし目の前に動かぬ証拠があるのに未だに実感がない。

 幸せすぎて、脳がヘヴン状態に舞い上がって降りてこれていないっぽい。


「痛みとか残ってる?」

「ちょっとね。……あ、大丈夫。最中もそこまで痛くなかったから」


 無理して耐えていたとは思われたくなかったのか、あわてて弁明される。


 や、それまで体液しか通過してなかったとこを無理やりこじ開けられるわけだから痛くないわけがないよ。私だって最初のときは痛すぎて中断しちゃったレベルだし。


 紫苑が我慢強いのかもしれないけど、最後までいけたってことは言葉通りに受け取っていいのかしら。


「でもなんか複雑」


 うちのお姫様はなにかご不満があるのか、むすっと唇を尖らせた。

 どうやら、あまり痛くなかったということは私との経験値の差を思い知らされて、嫉妬しているらしい。


「で、でも。お互い不慣れで痛い思い出になるよりはマシでしょ」

「そうだけど……そうだけど。私が初めて知ることをせっちゃんはすでに知ってるんだなって思うと……」

「私だって毎日が新鮮味しかないよ」


 ずっと恋い焦がれていた人とこうなるって、夢だと思っていたから。

 思い描いていた妄想が現実になっていることに、いまだ追いつかない。


 夢心地にいる意識を実感させてくれるのは、こうして触れ合っているときだ。それを重ね続けて、幸せを噛み締めていくんだろう。


「もう少しこうしてていい?」

「いいけど相当汗臭いと思うよ」

「貴女だって同じようなことをして、毎回いい香りだって言ってるくせに」

「あれは本当のこと言ってるだけだし」

「それと同じ。せっちゃんの匂いって、落ち着くの」


 お世辞で言ってるわけではないと証明するかのように、ふたたび谷間に頬が擦り付けられる。くすぐったい。


「結ばれたってことになるのか、私たち」

「肉体関係を持つことをそう言うよね」


 でも、そこまで行き着かないと単なる交際では結ばれた扱いにならないのってなんか理不尽。アセクシャルの人とか意義を申し立てるんじゃないだろうか。


 幸せになるってのもそうだよね。結婚してって願いをこめて発言する人も少なくないし。

 その理屈だと、独身をつらぬく人や私らみたいな結婚できない同性カップルは幸せと認められないってことになるけど、どうなんだろ。


 ポジティブな意味の言葉も。昨今のジェンダー平等に伴い、古い価値観だと修正されそうだ。

 紫苑の頭を撫でながら、そういった疑問をぽつぽつとこぼす。


「結婚は認めてもらうものじゃなくするものだって言葉に習えばいいじゃない。あの言葉、気に入ってるんだ」

「……そだね」

「私はいま、すごく満たされてる」


 胸元に柔らかい息がかかる。

 顔を伏せたままだから表情は伺い知れないけど、紫苑、笑ってるのかな。


 理屈をごちゃごちゃこねない優しい声がすっと沁み込んで、頬が緩んでいく。


「ところで、おめざのちゅーはまだですか」

「はいはい」


 紫苑の頭を抱き寄せて、唇を落とした。立ち込める甘い匂いに陶酔し、意識をうずめていく。幸せ。

 事後って、ずっとくっついていたくなるんだよね。しばらくは距離感がバグった日が続きそうだ。


 だらだらとベッドの上で取り留めのないピロートークを交わしながら、初めての日は過ぎていった。

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