春をもたらす者
ナナシマイ
第1話 とける季節の隙間にて
今日から私の名前は、リィラ・ォト・リィラとなりました。
リィラは古い言葉で「海」や「母」という意味を持っているそうです。なので多分、名前の意味は「母なる海の母」。今の私にぴったりで、素敵な名前だと思います。与えられた役割にふさわしいはたらきができるか、心配でもありますが。
そう。私がこの地へやってきたのにはわけがあります。
――命は海からやってくる。
――呼び声が海に春を自覚させる。
――子供たちの鼓動は海に繋がっている。
誰もが聞いたことのあるおとぎ話。古代人が想像し創造した世界の始まり。
長い長い冬の隙間、わずかに顔を覗かせる穏やかで美しい春。すべての生物はそれを渇望し、失っては、また巡りくることを祈る。
なにに? ――そう、私に。
おとぎ話なんかじゃない。全部ほんとうの話。
私は、リィラ・ォト・リィラは、またこの始まりの海へやってきて、世界に春をもたらすのです。
*
「リィラさまぁっ! 早く早く!」
「はい、ちょっと。ちょっと待ってください。……はあ、皆、足が速すぎ、ます」
子供たちが私の手を引いて、サクサクと軽快な足取りで霜の降りた丘を駆け下りていきます。滑らないよう気をつけながら引っ張られる私は早々に息が乱れ、だらしなく開いた口から漏れ出る白が視界を遮ります。火照った身体からはじわりと汗が滲みました。
繋いだ手から伝わってくる、ひんやりとした……いえ、異常なほどに冷たい体温が今は心地よいです。
けれど普通、子供というのは体温の高いものではありませんでしたっけ。
「リィラさま? どうしたの?」
私が考えに浸りそうになると、進みが遅くなったことを不思議に思ったのか、一人の女の子が首を傾げながらこちらを見上げました。
澄んだ水のような、明るい色彩の瞳と目が合います。ここの人たちは皆、瞳も髪も肌の色も、淡い冬の色をしているのです。
なんでもないと首を振ると、先を進んでいた男の子が「ほら、見て!」と声を上げます。
「あれが始まりの海!」
「今日は風がないから、遠くまで見えるって、思った通りだね」
子供たちのはしゃぎ声に私も前を向きました。
薄く曇った空を映した、一面の灰青。海面が微かな陽光を反射してきらめき、それだけが空との境を作り上げています。
「あたしたちの帰る場所なんだよ!」
「え……、帰る場所、ですか?」
「そうだよ。『子供たちの鼓動は海に繋がっている』、リィラさまも知ってるでしょ?」
困惑しながらも頷きました。勿論、その話のことは知っていますし、それが真実であるとも知っています。けれど、子供たちが始まりの海へ帰るというのは、初耳でした。
「皆は、あそこへ行き……帰りたいのですか?」
「うん!」
「帰りたい!」
「でも、始まりの海はすっごく冷たいから、だから帰れないんだ」
「パパもママも、あたしが『どうしたらいいの?』って聞いたら『リィラさまに聞いてごらんなさい』って、そう言ってたの」
「リィラさまは知ってる? どうやったら僕たちが帰れるか」
子供たちのこの願いが春をもたらすことに繋がるのだと、ピンときました。しかしどうやら、その方法は私自身が見つけなくてはいけないようです。私は溜め息をつきそうになるのをこらえて、「よし」とひとつ頷きます。
「今は忘れてしまったのです。皆、私が思い出せるよう、お手伝いをしてくれますか?」
正直なところ、私が知っているのは、私がリィラ・ォト・リィラであるということだけなのです。前回の春をどのようにして迎えたのか、そのためになにが必要なのか、そういったことの一切を覚えていません。
名前の意味を知るのだって、今回が初めてではないのでしょう。
リィラ・ォト・リィラは、一人であり、私たちなのです。長すぎる冬を巡り、春をもたらすのは、人間の身体ひとつでできることではありませんから。
そうして、大人たちにも協力してもらい、ご先祖さまから伝え聞いていることや、わずかに残っている古文書の読みかたを教わっているうちに、少しずつわかってきたことがありました。
海というのは、母を意味するだけでなく、命を生み出す春そのものでもあるということ。
さまざまなおとぎ話に出てくる、命や呼び声、鼓動などの、春が訪れるきっかけとして描かれているものはすべて、血を示していたということ。
リィラ・ォト・リィラの役割。母なる海の母。
子供たちの鼓動は海に繋がっている。
「……私は、あの子たちの母になるのですね」
始まりの海はあいかわらず、穏やかに陽光を反射していました。時折、風に揺られた波がチャポリと跳ねます。
どこまでも冷たい色彩は、しかし、豊かな命を内包しているのだと私にはわかります。
握った小さな手は今日もやっぱり冷たくて、走ったあとのように身体がポカポカしているときでなければ、凍えてしまいそうでした。私は鈍く広がる痛みを感じなかったことにして、子供たちの、白い花のような手を握りながらお話を続けます。
私が話すのは、勿論、春の物語です。
子供たちと同じで、今の私は春を見たことがありません。けれど、それがどのようなものであるかは知っているのです。伝えたいと、思います。
「リィラさまは、手も、声も、あったかいねえ」
「あったかあい!」
「うん、あったかくて、ふにゃふにゃする」
「ふふっ、眠くなってしまったら、おやすみなさい」
「はあい……」
そう、これでいいのでしょう。なにもかもを閉ざしてしまう冷たい季節がとけたなら、そのときは、きっと。
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