第一部 

第一幕

脱獄

 シミ一つない真っ白な壁紙。ぴかぴかに磨かれた掛け鏡。ふかふかのクッションに、少女の髪と同じ青色の天蓋付きのベッド。窓からは柔らかな陽の光が差し込み、チュチュチュという小鳥のさえずりが聞こえてくる。そんな、ノーランディア王国の子供なら誰もが憧れるであろう、青で統一された部屋。だが、彼女にとってはそれは「監獄」でしかなかった。


 朝、目が覚めるとティーセットと共に、手元のタブレットに大量のデータが送られてくる。栄養バランスだけが考えられた食事も、温室で品種改良されたみずみずしい果実も、不思議なほど何も味がしない。金品目当てに「おはようございます」と形だけ頭を下げる使用人は掃いて捨てるが、肩を叩いて笑ってくれる友達はもう隣にいない。


 つまらない勉強と、終わりの見えない仕事に日々を消化していく人生。

(恵まれているとは分かっています。だけど私、お姫様より「普通の女の子」がよかった)


だから、少女は顔を上げた。透き通った空を思わせる青色の目に、くるぶしまでスカート丈があるメイド服が映る。黄金の月を背景に、錆びた昇降機ファールシュトゥールの前に佇む従者は、少女の一夜だけの協力者であった。


「ここまでありがとうございます。鍵を渡してください。後は自分でできますから」


そう言って少女はポケットから麻袋を取り出した。この袋の中の金貨は純金だ。電子化が進み、硬貨などとうに廃れた社会でも、質屋に入れればまとまった額が手に入るだろう。


 だが、雪の結晶の髪飾りをつけた従者は視線を彷徨わせた。


「殿下。僭越ながら申し上げます。どうか、ご再考願えませんか」

「どういうことですか。あ、もしかしてお金が足りませんでしたか?」

「いいえ。わたくしは殿下からすでに多くのご寵愛を賜りました。ですが、引き返すなら今が最後の機会です。これ以上は、もう……」

「帰るって、あそこにですか?」


細くて真っ白な指が西の方角を示す。雪の結晶をかたどった国旗を華々しく掲げる堅牢な要塞は、つい三時間ほど前まで少女がいた城、ノーランディア城である。行政の中心であり、王族の住まいであり、そして少女にとっては自由を奪う檻であった場所だ。


「あそこには帰りません」


突き抜けるような声が従者の鼓膜を震わせた。


「それに、あなたに連れ出してもらったときから私は……『僕』は自分の名前も、身分も、性別も捨てました。だから今はただの『シエル』です」

「ですが、この昇降機ファールシュトゥールの行先は最下層だと伺いました。ただの地下世界ではございません。わたくしは直接赴いたことはありませんが、大犯罪者ハイラガードがそこかしこに蔓延っていると祖父が言っておりました。彼らは人ではありません、獣です」

「危ないのは知っています。でも、だったら尚更捜査隊も来ないでしょう。違いますか?」


 空を彷彿ほうふつとさせる青色が従者の瞳を捉える。

 従者はしばらく逡巡すると、肩をすくめて息を吐いた。


「承知いたしました。ですが、このことはくれぐれもご内密に」

「ええ。ありがとう」

「取引ですので。それでは行ってらっしゃいませ」


 シャラン、シャラン。少女の手に鍵が、従者の手に麻袋が渡される。従者は麻袋をエプロンのポケットに隠すと、プリムを正した。夜が明ける前に城に戻らなくては怪しまれてしまう。


 互いに振り返ることはない。


 従者が最後に聞いたのは、ギイギイと不穏な音を立てながら昇って来る昇降機ファールシュトゥールの音だった。

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