はからずも、恋に落ちる。

少覚ハジメ

第1話

 家も近くなってきた頃、迂闊にも教室にスマホを忘れたことに気づいた僕は、あわてて学校にとんぼ返りするはめになった。使わなくても無いと不安なのがスマホだし、使う予定はもちろんある。

 部活終わりの生徒がそろそろ家路につく中、逆行して2-Bの教室に向かうと、ドアから出て行く、西高イチのイケメンと呼び声高い大迫君とすれ違った。僕とは違う世界の住人。それを横目に自分の席にあわててたどり着いて、机の中を手で探る。固いものがあたって、ようやくそれがスマホだと知れ、ほっとひと息ついた時、窓際の一番後ろに、赤澤夕衣子が窓を向いて座っていることに気がついた。

 赤澤は音もなく、ただ静かに外を見ているように見えた。顔はショートの茶色い髪の毛に隠れてうかがうことはできなかったが、色白い首筋がなんだか細かく震えているようで、それが少しだけ気になった。

 直後、ピンポンパンという音とともに完全下校時間のアナウンスが流れる。僕は急いでスマホをポケットに入れて、もう一度赤澤さんを見るが、彼女はまるで帰る気配がない。まさか聞こえいないはずもないと思いながら、声をかけてみることにした。

「赤澤さん、下校時間」

 聞こえているのかどうか、しばらく反応が無かったが、少しうつむいた彼女が鼻声で言った。

「誰にも言わないでね」

 そうして顔を上げた赤澤さんの右目からは、涙が一筋流れていた。僕はそれで何が起きたのかを察したが、その涙を、正確に言えば、それを流す瞳を凝視してしまった。涙は蛍光灯の照らす光にきらきら輝いて見えて、僕の胸を打ったし、潤んだ目はじゃっかん赤くなっているものの、濡れた茶色い瞳はこの上なく貴重な宝石のようで美しくて、目をそらした瞬間的に消えてしまいそうな儚さがあった。自分の顔が上気しているのがわかり、胸が高鳴った。

「見ないでよ」

 赤澤さんが苦笑すると、やっと僕はごめんと言いながらそっぽを向いたが、まだいまの熱がさめなかった。

「あーあ」

 彼女は吹っ切ろうとするような声を上げるが、それが成功したのかどうか、僕にはわからなかった。


 なんとなく校門まで一緒に来てしまったが、その間、僕は先ほど見たばかりの涙と瞳を思い返してばかりいた。こういうことは、稀に起こる。初めてではない。ふられたばかりの女の子に、恋をしてしまったのは初めてだったけれど。

 授業中の寝顔に見とれてしまったり、誰かがドジなことをした仕草を可愛いと思ってしまったり。今回は涙だ。自分の中に何かスイッチのようなものがあって、どこを押せばいいのかは自分でわからないのに、押されてしまえば恋という形になって現れてしまう。

 たいていは理由付けができない。可愛かったとか、きれいだったとしか言いようが無いからだ。理由と言えばそれだけで、理由もなく好きだとは言えないので、それは実ることもないし、そもそも告白なんてしたことはない。また気持ちに振り回される日々が始まってしまうことに、どうしたものかと思う。なぜ自分は相手を理解したり仲良くなってから恋ができないのかと呪わしくもある。

「私はこっちなんだけれど…」

 と赤澤さんは僕の帰り道を指差す。同じ方向だとは初めて知った。そもそもこの場は一緒に帰るのが正解なのかどうなのか。

「帰り、一緒なんだ…それならさ、歩きながら話聞いてよ」

 彼女は僕を見ないでそんな事を言う。確かにこういう時は誰かに話を聞いてもらいたくなるのかも知れない。でもだからといって、たまたまいただけの自分で良いのだろうか。それは、さっき恋をしてしまったばかりの自分にとって、嬉しくないわけではないとはいえ。


 最初はポツリポツリと大迫君への淡い思いを聞かされていたはずだったのだが、なぜかこの五分はマシンガンのように悪口を聞かされている。情がない、お前とはそういう関係になれないなんてじゃあ何だったらいいの? そもそも付き合ってるオンナがいる。しかも女子大生! いやらしい! イケメンとか言われて調子にのっている。などなど。

 結局のところ、大迫君には彼女がいたわけで、その時点で終わっていたわけではあるけれど、ふられてメソメソ泣いて、それで終わりにはできないらしい。

「大迫君は年増好きなんだね」

 僕は冗談をボソリと言った。すると赤澤さんは目を見開く。

「それだよ!」

 それだよと言われても、女子大生くらいで年増好きとは言えない。ちょっと面白く言ってみただけだ。

「そっかあ、年増好きかあ。じゃあ私じゃダメだよねえ」

 とたんに赤澤さんが笑顔になる。さっきは涙にときめいていた僕も、今度はその笑顔に惹かれるから本当にどうしたものかと思う。

「まあ、彼女いるんじゃ仕方ないし、他を当たるしかないね」

 他とはもちろん僕のことだが、無論、相手にわかるはずもない。

「探し物じゃあるまいし」

 言いながら赤澤さんは笑っている。教室でとは違い、まるでふられた後とは思えない表情だった。年増がそんなに利いたのだろうか。


 やがて分かれ道に行き当たり、一緒に歩くのもいよいよここまでになった。赤澤さんは、返りたくない雰囲気を醸し出して、角をうろうろし始める。

「言い足りない」

「え、まだ?」

 あれだけ言いたい放題で、まだあるのかと僕は呆れる。赤澤さんだけはふってはいけないと思う。まあ、そんなこと、ないんだけれど。

「加賀見君、LINE教えて」

「LINE?」

「そ、後でトークしよ」

 こうして僕は、はからずも恋に落ち、棚ぼた式に好きな子とLINEを交換することになってしまった。なってしまったはおかしい気もするが、実感としては、うまく行きすぎている気はした。


 赤澤さんのLINE攻勢がはじまったのは、ようやく床に入って灯りを消そうかという頃だった。

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