2 紅い眼

 微かな寝息が静寂の中で漏れていた。

 ラキアはその音を横で聞きながら、辺りに落ちていた枝を焚火に投げ入れる。ぱちりっと爆ぜ、枝は炎に包まれた。頬杖をし、その光景を凝視する。

 炎は静かに揺らめいていた。

 サラは丸くなって寝ていた。

 ラキアは、炎の奥底で何かを見つけた。

 それは瞳だった。憎悪を孕んだ、人を殺しそうな目線。

 気づいてしまった。背筋が粟立ち、身体が反射的に炎から逃げようとする。しかし瞳だけは離せない。揺らぐ瞳孔は炎の中で形成して浮かび上がる像をただ見つめる。

 少女だ。彼女は炎と一体になり彼を睨めつける。

 ラキアは恐れ息を呑み、生えていた草を手の中で握り潰す。

 不意に風が吹いた。さっきまで無風だったのに、まるで炎の中の少女が呼び起こしたようだ。頬を撫でるその生ぬるい感触はいつかの感覚を呼び起こさせる。彼女は風に身を任せ、ラキアの方へ炎の腕を伸ばす。

 彼は喉の奥で悲鳴を上げた。

『嘘……つき』

 少女の口が歪み、紡がれた言葉が脳へ直接響く。

 呪いの言葉だった。彼を蝕む呪詛だった。声はラキアの心を掴み、今にも握り潰そうとしていた。

「ラキア?」

 サラの声が鼓膜を震わせ、ラキアの幻想は解けた。呪詛は鳴りを潜め、炎は元に戻る。

 彼は何事もなかったかのように、サラに笑顔を向けた。

 その微笑みは誰から見ても、嘘だというのが解るものだった。

 サラは胸に手を当て服を強く掴む。あまりにも痛々しいその姿に心が軋む。何度か覗いたその表情はいつ見ても慣れるものではなかった。そして踏み込めないものだった。

「……ラキア、番変わる?」

 小首を傾げてサラは問う。

「いいよ。サラは寝てて」

 ラキアは首を振り、サラの申し立てをその偽りの笑顔で切り捨てた。自分の卑劣さに心中でため息を吐く。

 サラは毛布を纏い、静かにラキアの隣にきて音もなく座る。

「あ、ちゃんと寝るから安心して」

「……あ、うん」

「あのね、『何か思い出せることはない?』って言ったよね」

「うん」

 あの時のことを思い出す。彼女は虚ろな瞳で何かを探り当てようとしていた。結局『光と闇』という謎だけがサラの口からこぼれ、直接的なことは思い出せなかった。

「それで私、闇と光って言ったよね。でも、それは少し違うの」

「違う?」

「うん。よく思い出してみるとあれって『暗いところから明るくなった』って感じなの」

 サラの言葉にラキアは引っかかりを感じた。昔そんな場所を聞いたことがあった気がするのだ。

 唇に手を当て思案する。親指で頬を二回叩くと不意にその場所が浮かんできた。

「ねぇ、サラ。その場所が生まれ故郷ってことはないと思うんだけど、言葉にぴったりな場所がこの近くにあるんだ」

「え……」

 サラは目を丸くしてラキアを凝視する。

「それって本当?」

「うん。今から歩かなきゃいけないけどいい?」

「うん!」

 サラは頷き、微笑みを浮かべた。ラキアの頬も自然と綻ぶ。偽りの仮面は剥げ、本当の笑みがこぼれた。

 その表情にサラが安堵したことをラキアは知らない。

 ……紅い瞳が見ていたことも知らなかった。




 弱く消えてしまいそうな月明りと、強く道を指し示す松明の炎が二人を照らしていた。道は舗装などされておらず、歩くごとに草を踏みつける音が鳴った。

「大丈夫?」

 何度目かの確認に、サラはこくりと頷く。

 目的地を決めて歩き出してから、この動作が一連の流れとなっていた。サラが頷くとラキアはまた前を向き歩き出す。しばらく歩き、なんとなく足が止まると問う。

 それがまた二、三度繰り返され、ラキアの足は完全に止まった。短くなった松明を掲げ、周りをぐるりと見回す。前方が薄明るい。

 サラの方を向くと、今までとは違う言葉を口にした。

「着いたよ」

 サラは言葉に頷くとラキアの前に出た。

「間に合ってよかった……」

 吹く風に髪をなびかせる彼女の背に呟く。

 黄土色の彼の髪が、真っ黒な彼女の服が、だんだんと色を取り戻す。

 二人の目の前で世界が色づき始めた。足元の草が闇から這い出て緑と朝露を輝かせる。闇に閉ざされ見えなかった部分が、眼下に照らされる。

 赤く染まった太陽が地平線から現れた。小高い丘の上にいた二人には切り立った崖の下に群生する森の間から出現したように見えただろう。太陽は世界のもつ純粋な色に赤を混じらせる。

「綺麗……」

 サラの口から感嘆のため息が漏れる。

 ラキアも同感だった。太陽はゆっくりと昇っていき、真っ直ぐに金色の光を丘に降り注ぐ。光の架け橋ができた。何か生まれ降りてくると錯覚させる橋。

 実際、近隣の村からここは生誕の丘と呼ばれていた。子が生まれてきそうな母親はここで願掛けをし、願いを叶えたい者は生まれてくるかもしれない神に祈る。

 神聖な光と心地よい風に身を晒し、サラは瞳を閉じる。ラキアはその横顔を見つめ祈った。

(君の記憶が戻りますように。君が……)

 全ての願いを神に言えなかった。首筋がちりちりと痛みだし、間を置かず背後で殺意が膨れ上がった。

 振り向きざまに腰に差した剣を抜く。金属の噛み合う音にサラは息を呑んだ。

 鮮血を溶いたような眼球がラキアを射貫く。レイピアを操り、一旦間合いを広げる。遠ざかる瞬間、舌打ちがラキアの耳に届いた。

「サラ、僕の後ろに隠れて」

 冷汗が頬をつたい落ちる。目の前の奇襲者は全身から殺意をぎらつかせていた。

 細身ながらの長身、真っ黒な上着にパンツ、白髪から覗く瞳は鋭く、表情は硬い。

「貴女は誰ですか……」

 ……奇襲者は女だった。

「お前には言う意味がない……死ね」

 唇から言葉が紡がれたかと思うと、女の顔は目と鼻の先にあった。レイピアがラキアの心臓を狙う。彼はそれを剣の表面で受け止めた。

 ガチリと音が鳴ると、女は即座に手を引き、顔面へと切っ先を向けた。首を捻り急所は避けたが、こめかみに痛みがはしる。

(動きが速すぎる)

 こめかみから血が流れ、頬を赤に染める。

 ラキアは激しい攻撃の中どうにか剣を振るうが、女は軽々と躱し彼の目の前から消える。

 全身が悪寒に襲われた。振り向きざまにサラを抱きかかえると、女は崖の傍に鎮座する岩の上に降り立った。

 「ラキア……血……」

 サラが赤く染まった頬に触れる。その手は震えていた。

 ラキアは彼女の肩を強く抱き、真っ直ぐに女に剣を向ける。

 女はその姿に……何故か表情を曇らせた。しかしそれも一瞬で、まばたきひとつでまた険のあるものになった。ゆっくりとレイピアを構える。

「女、退け」

 女の声にサラは睨む。

「嫌です……」

「お前は殺したくない、退け」

「嫌です! 何故ラキアを殺そうとするのですか!」

「……幸せのためだ……」

 風に流れてきた微かな声。女は無表情で二人を見下す。憐憫も下卑な笑みもない彼女の表情では意図を探れなかった。

 ラキアは身を硬め……サラの耳元に囁いた。

「僕が離したら、一目散に逃げて」

 サラが驚愕した表情でラキアを見る。ラキアは微笑みながら、肩に置いた手の指を一本一本剥がしていき、トンッと軽く肩を押す。サラはバランスを崩し草原に倒れこんだ。

 脚をバネにして女は跳躍し、ラキアに突っ込んでくる。

 真っ向から受け止めレイピアをねじ伏せる。下りた自らの刃を女は滑らかな動きで背に流す。

「……優しさだけは認めてやる……だが、お前はここで消えろ!」

 左手にレイピアが握られていた。両利き、と思うよりも先に右肩に激痛が走った。思わす剣を落としそうになる。

 レイピアが肩に刺さっていた。血が服を汚し、腕をつたい地も赤く染まる。

 サラは声にならない悲鳴を上げた。

 ラキアは歯を食いしばり剣を握る手を強める。しかしぬるりとした自らの血のせいでうまく握れない。

 腹に蹴りが入り息が詰まる。女は反動で肩からレイピアを抜いた。

「ラキア!」

 サラの悲鳴がとても遠くで聞こえる。地面に崩れたと分かっても立ち上がれない。目の前がチカチカして女がどこにいるか分からない。

「……!」

 視界が戻ってきた瞬間、女が間近に立っていた。無表情でレイピアを振り上げている。

「この時に生まれたきた自分を呪え」

 女の声が冷評のように降りかかる。

 サラの絶叫がどこかで聞こえる……。

(ごめんね)

 誰に対してなのか。そう心中で呟いていた。

 女の刃が煌めく。それが……視界から消えた。

 ラキアは目の前で起こったことが信じられず、痛む身体を無理矢理に起こした。

 岩に叩きつけられ、女の身体が二度跳ねる。

 ラキアは動いていた。出血している肩を構わず、剣を振り上げ、女の胸から腹にかけて赤を刻み付けた。

「……貴様ぁ」

 憎悪の呻きをあげた口から鮮血が滴る。ずるずると体を引きずり、岩から離れると女は数歩後退し、崖から身を投げ出した。

 ラキアは女を止められなかった。体が思うように動かない、重い。

 自分が倒れたのにも気づかず、彼は闇の底へと落ちていく。

 最後に聞こえたのは、彼女が自分の名前を呼ぶ声だった。




 深い暗い闇の底で彼女は立っていた。呪詛の言葉を永遠と紡ぐ。

『嘘つき、嘘つき、嘘つき』

 虚ろな瞳で僕を見下す。

『裏切者、裏切者、裏切者』

 僕は逃げられなかった。耳を塞げなかった。

 身体は胴まで闇に沈み自由を奪っている。這い上がることもできず、僕は彼女の呪詛を聞く。

 彼女は呟きながら、一歩前に出た。彼女の足が微かに闇に沈む。

『嘘つき、裏切者、嘘つき、裏切者』

 一言発するごとに彼女は近づいてくる。彼女の体は沈み、肌に黒い亀裂が入る。

『嘘つき……裏切者……冥府に堕ちて苦しめばいい』

 ぎらつく少女の瞳が上目遣いで僕を見る。体はほとんど沈み、瞳から頬にかけての亀裂が黒い涙のよう。

 僕は彼女に一言、言いたかった。

 しかし彼女はそれを赦さなかった。

 言葉にしようと動いた首に、彼女の手ががっちり絡みつき器官を一気に締め上げる。

 僕は空気欲しさに口を開くが、無様に喘ぐだけで呼吸はできない。

『嘘つき、裏切者』

 耳元で囁かれているはずがどこか遠い。

 彼女の罰によって罪死する。それは摂理として正しい気がした。

 微かな息をこぼし、瞳を閉じようとする。

『駄目……』

 誰かの声がした。少女は呪詛を続けている。

 右手が仄かに温かい。薄く開いた瞳で見ると、手が発光していることを知る。温かみのあるオレンジ色。

 少女の手が緩んだ。

『ラキア、死んじゃ駄目だよ……』

 彼女のすすり泣く声。

 右手が闇から剥がれ天を向く。僕の目線も合わせて向いていた。身体が浮く。

「……ごめんね」

 僕は黒髪の美しい彼女に謝っていた。

 君の記憶を戻さないと。償いをしないで死ぬなんて駄目だよね、サラ。


 重たい瞼を開くと、木目調の天井が飛び込んできた。

「っ……いてて」

 痛みの走る右肩を庇いながら体を起こすと、黒髪が足元で広がっていた。サラの顔には涙の跡がある。寝ている彼女の頬に触れようとしてラキアは気づいた。

「ありがとう」

 サラの左手と繋がっていた右手でラキアは強く握り返す。

「ラキア」

 サラは夢の中ながら微かに呼んでくれた。

 ラキアは空いている方の手で彼女の頭を撫でる。

『あそこで死ねばよかったのに……』

 穏やかな空気を切り裂く声が響いた。ラキアが顔を上げると、壁の一角に少女が浮いていた。瞳がラキアを睨めつける。

『どうせ貴方に幸せなんてないのに』

「……ないかもね」

 ラキアは薄く笑い、サラを見た。

「でも、まだ死ねないんだ」

『苦しむと分かっていて……馬鹿な人』

 少女は毒づきながら消えた。

 ラキアは右手の温もりを大切に身体に沁みこませた。

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