オバケハイツ

岩久 津樹

四月一日(二〇四号室)

 四月一日。今日の午前十一時半頃に新年号が発表される。そんな歴史的な日に僕はこのアパート「小化こばけハイツ」に引っ越して来た。木造二階建てで各階に四つずつ部屋があるのだが、二階の一番奥の部屋である二○四号室のみが幸いにも空いており、角部屋を希望していた僕は即賃貸契約をした。

 即決できた理由は部屋の位置だけではない。築四十年だと不動産屋からは聞いていたが、内見した際はペンキを塗ったばかりかと思うほどに綺麗な外観で、駅からも歩いて五分ほどの場所に位置しており、家賃も四万円と大学生の僕にとっては十分過ぎるほどに好条件だったのだ。懸念点はワンルームであることとユニットバスであることくらいだ。

 実家暮らしに辟易していた僕は、二年間アルバイトで貯めたお金で残りの大学生活くらいであれば生活できると踏んで、大学三年生となる今年の四月に思い切って一人暮らしを始めたのだ。

「おや、西にしさんかい?」

 不動産屋から貰った新品の鍵を手に持って、いざ小化ハイツの階段を上ろうと左足を上げたその刹那、背後から男性の声が聞こえて思わずふらついてしまう。

「は、はい」

 なんとかバランスを保ちながら地に地に足を着けて振り返り、情けない返事をすると、そこには箒を手に持った七十歳程の男性が優しそうな笑みを浮かべて立っていた。

「ちゃんと鍵は受け取れたかい?」

 その一言で男性が小化ハイツの大家さんである事を悟り、思わず背筋を伸ばした。

「はい、無事受け取れました」

 僕は手に持った新品の鍵を指先で摘むようにして見せると、大家さんはまた優しそうな笑みを浮かべた。

「そうかいそうかい。ああ、私はこのアパートの管理人の小化です。よろしくね」

「初めまして西タケルと言います。よろしくお願いします。あ、これ、つまらない物ですが」

 右肩にぶら下げたクリーム色のトートバッグから「御挨拶」と書かれた熨斗のしが巻かれたタオルを手渡す。大家さんは目を丸くして粗品を受け取ると、また優しい笑みを浮かべた。「いやいや、ありがとうね。若いのにしっかりして。こんなボロボロのアパートだけど大事に暮らしてくれると私も嬉しいよ」

 大家さんはそう言うと我が子を見るような眼差しで小化ハイツを眺めた。築四十年なのだ、自分の子供と言っても過言ではないのかもしれない。

「まあ近所の子からは『オバケハイツ』なんて呼ばれているがね」

 先ほどの眼差しから一転、顔を皺くちゃにしながら破顔する大家さんに、僕も思わず釣られて笑ってしまう。確かに「小化」は「オバケ」とも読める。子供とは残酷な生き物だ。

「しかし築四十年とは思えない外観ですね」

「ああ、外の壁だけ塗り直したんだよ。聞いていると思うが前に小火騒ぼやさわぎがあってね」

「小火騒ぎ?」

「ああ、不動産屋から聞いてないかい? まあ部屋が少し焼けてしまっただけの小さな火事だよ」

「それはどこの部屋ですか?」

「二○三号室だよ。壁も床もボロボロだったし、クリーニングついでに外観も綺麗に塗り直したんだよ」

「誰か死んだりはしていないですよね?」

 失礼なことを口にしてしまったとすぐに反省したが、オバケハイツと呼ばれていると知り、どうしても聞かずにはいられなかった。

「死んどらんよ。本当に小火程度だったからね。その火事では怪我をした人さえいないよ」

 大家さんは少し表情を硬らせながら答えた。

「す、すみません。失礼な事を聞いてしまって」

「はっはっは、良いんだよ。まあオバケハイツなんて呼ばれているわけだし、もしかしたら幽霊は出るかもしれんの」

「え!」

「はっはっは、冗談だよ。今日はエイプリルフールだからね」

 大家さんは高らかに笑いながらその場を去っていった。表情豊かな様子に呆気に取られながら、僕は改めて階段を上った。

 二○四号室の玄関の鍵を開けると、床に置かれた「清掃済み」と書かれた紙が目に入る。その紙を拾い上げて、まだ何もない室内を見渡す。今日からこの部屋が僕の部屋だ。そう実感すると無性に嬉しくなり、鼻歌混じりに靴を脱ぐ。トートバッグを床に置くと、室内の丁度真ん中に仰向けになって寝転がり、白い無機質な天井を眺めて口角を少し上げる。

「そうだ」

 何も無い室内で静かに喜びを爆発させると、体を起こしてトートバッグに手を伸ばす。中から先ほど大家さんに渡したものと同じ粗品を取り出すと、立ち上がり腕時計を見る。

 時間は午前九時半。朝早いが一度隣人に挨拶をしようと粗品を持って玄関を開ける。隣の部屋には表札が掛かっていないため名前は分からないが、募集していた部屋は二〇四号室しか無かったので住人はいるはずだ。

 気難しい人だったらどうしよう。二○三号室の前で緊張した面持ちで小さく息を吐くと、勇気を振り絞ってインターホンを押す。しかし返事はない。月曜日の朝なので仕事に出ているのだろうか。諦め半分にもう一度インターホンを押すと、室内からゴロゴロという音が微かに聞こえた。間違いなく人はいるようだが、暫く待っても玄関が開く気配はない。もしかしたら居留守を使っているのかもしれないと考え、僕は諦めて二○四号室に戻った。

 その後一度実家に戻り、母親に車を出してもらい荷物を運び入れると、外はもうすっかり暗くなっていた。途中でホームセンター等に寄っていたせいもあるだろう。思っていた以上に疲労が溜まり、夕飯前に一時間ほど仮眠を取ろうと、実家から持ってきた敷き布団を広げて寝転がる。

 隣の人はどんな人だろうか。そんことを考えながら目を瞑ると、あっという間に眠りへと落ちてしまった。

 目が覚めてスマートフォンを開くと、時間は深夜の二時丁度を表示していた。一時間の仮眠のはずが熟睡してしまったらしい。髪の毛を掻いて後悔しながら、三点ユニットバスの扉を開くと、便座に腰を降ろしてまた髪の毛を掻く。このまま朝まで寝てしまおうか、それともコンビニにでも行って夕飯を買ってこようか。そんな事を逡巡しながらトイレの水を流して扉を開くと、視線はなぜか玄関の方を向いた。どうして玄関を向いたのか、僕自身も分からなかったが、その行動はすぐに大きな後悔に変わる。

 玄関の横に設置された小さな窓に、明らかに人間のシルエットが浮かんでいたのだ。そのシルエットは左から右へと動いていき、やがて窓から消えた。

 まさか本当にお化けが出たのか?

「いや、隣の人か」

 すぐに冷静になって、そのシルエットが隣人であるはずだと決めつける。挨拶をせずに眠ってしまったと反省をしながら、僕はコンビニに行くことは止めてまた眠ることにした。

 白い無機質な天井が暗がりの中では黒く染まっているような気がした。それは先ほど目撃した左から右へ消えていったシルエットのようだ。

「あっ」

 僕は気付いてしまった。ここは二〇四号室。二階の一番奥の部屋。この部屋を通り過ぎても行き止まりで、人が通り過ぎるはずがないのだ。

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