ケース8 じんめんそう㊶


「雅子ちゃんが……これを……?」

 

 思わずつぶやいた言葉に反応したのか、人形の動きがピタリと止まった。

 

 口を結んだ元の無表情な人形。

 

 べったりと白い肌に描かれた小さな赤い唇。

 

 その奥に確かに存在したヘドロを纏った黒い歯。

 

 その歯の存在を確かめることはもはや叶わない。

 

 いや。仮に確かめる術があったとしてもそんなことをする勇気は毛頭ない。

 

 誰が、何のために、この人形に歯を拵えたのか。

 

 そしてこの人形と持ち主の間に横たわるであろう、知るのをはばかるようないわれに、かなめの無意識が触手を伸ばす。

 

 禁忌に触れてしまう。


 薄暗い和室の奥座敷、湿った畳と土間から立ち上るカビの臭い。


 皿の上に浮いた油と紙縒りの先に灯るか弱い火影。


 そのさらに奥の暗がりから……

 

 その時、誰かが玄関の扉を乱暴に叩いて言った。

 

「おい……! いるのか⁉」

 

「せ、先生⁉」

 

「いるならさっさと用意しろ! この!」

 

「ど、どんがめ⁉ 誰が鈍亀ですか⁉」

 

「お前以外に誰がいる? いつまで経っても事務所に来ない! 携帯にも出ん! 一体何時間待たせるつもりだ⁉」

 

 卜部の言葉に強烈な違和感を覚えて、かなめは時計に目をやった。

 

 時刻はすでに正午を過ぎていた。

 

 家に戻ったのはたしか八時頃だったはずだ……

 

 それがいつの間にか四時間以上時が経っている。

 

 夢でも見ていたのだろうか?

 

 しかし背後のバスタブにはあの黒い跡がくっきりと残っており、目の前には市松人形が佇んでいた。

 

 かなめは急いで服を着ると覗き窓から外を見る。


 思わず叫びそうになった。 


 小さな窓には最高潮に不機嫌な顔をした卜部が、同じように覗き窓を覗き込んでいるのが映っていた。

 

「先生……」

 

「なんだ?」

 

「そこにいたら、ドアが開けられません……」

 

 卜部の小さな舌打ちを確認してから、かなめは恐る恐るドアを開ける。

 

 すると卜部は開いたドアの隙間につま先をねじ込んで家の中に入ってきた。

 

「ちょ、ちょっと! そんなヤクザみたいな入り方……!」

 

「黙れ。妙な気配と臭いだ……何があった……?」

 

 見ると卜部の顔から不機嫌の気配は消えて、真剣な表情が浮かんでいた。

 

 鈍色に光る瞳を見て、ぞくりと鳥肌が立つと同時に、かなめはどうしようもないほどの安堵を覚えた。

 

 それを感じ取ったのか、卜部はかなめを一瞥して苦虫を噛んだような顔で言う。

 

「なんだ? 気色の悪い顔をしよってからに……」

 

「女の子に気色悪い顔は無礼です!」

 

「ふん……今さら無礼と言われたところで何とも思わん!」

 

 かなめは大きなため息をついてから、卜部を浴室に連れていった。

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